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(回答先: Re: TUP速報148号 03年7月30日 ジョン・ダワー/満州とイラクの関係 投稿者 なるほど 日時 2003 年 11 月 21 日 13:12:42)
満州事変
◆大陸進出に期待する日本国民−−止められない軍部の独走
世界恐慌(きょうこう)や昭和恐慌の打撃(だげき)から抜(ぬ)け出すための方法をめぐって、昭和初期の日本では政党内閣と軍部の対立が激しくなっていきました。政党内閣は、景気をよくするためには国際協調をすすめて、中国や米・英との貿易をさかんにするべきだといい、軍備増強のための増税は国民を苦しめるからやめるべきだと主張しました。一方、軍部は中国の東北地方の満州(まんしゅう)を市場とするために、軍備増強すべきだと主張していました。
★張作霖(チャンツォリン)爆殺事件
内原訓練所へ入所する満蒙開拓青少年義勇軍
日本の軍部は「満州は日本の生命線」と言って、広大な市場と資源を奪(うば)うことで不況(ふきょう)からの脱出(だっしゅつ)を狙(ねら)っていました。市場の独占(どくせん)を狙う財閥(ざいばつ)も満州に進出していました。満州で勢力をにぎっていた張作霖が、南京(なんきん)の蒋介石(チャンチエシー)が率いる国民政府と手を結んで日本を追い出しにかかると、1928年、日本陸軍から派遣(はけん)されていた関東軍は張を列車ごと爆殺(ばくさつ)してしまいました。この事件は日本国内では「満州某(ぼう)重大事件」とあいまいにしか報道されませんでした。軍備増強と中国出兵を進めてきた田中義一(たなかぎいち)内閣(ないかく)は責任をとって総辞職に追い込(こ)まれます。
★軍縮政策の失敗
あとを継(つ)いだ浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣は、正反対の協調外交政策をとり、30年には海軍の反対を押(お)しきって、補助艦(かん)の保有率を米英の7割に抑(おさ)えるロンドン海軍軍縮条約に調印しました。これに対して、軍に関することは天皇の統帥(とうすい)権なのだから、政府が勝手に決めることはできないと軍部が批判(ひはん)し、浜口首相は右翼(うよく)の青年に狙撃(そげき)され、これ以降議会には「軍部に逆らうと危ない」という意識が広がりはじめます。
★満州事変
31年9月、関東軍は奉天(ほうてん)(現在の瀋陽(しんよう))郊外(こうがい)の柳条湖(リゥティアオフー)付近で南満州鉄道を爆破(ばくは)して、中国側のしわざだといって満州各地を占領(せんりょう)しました。ここから始まる一連の事件を満州事変とよんでいます。さらに、翌32年、関東軍は満州国を成立させてしまいます。これらの動きは政府の許可を得ずに関東軍が独走したものですが、政府は押し切られて認めてしまいます。反対の立場をとっていた犬養毅(いぬかいつよし)首相は、海軍の青年将校による5・15事件で暗殺されました。
5・15事件直後の首相官邸
中国政府は日本の行動が侵略(しんりゃく)であるとして、国際連盟に訴(うった)えました。国連はリットン調査団を派遣して実態を調査させ、その報告によって満州国が認められないという決議をすると、日本は国連を脱退(だったい)して、世界の孤児(こじ)となる道を選択(せんたく)しました。
満州国のスローガンは、「五族協和」。満州、漢(中国)、モンゴル、朝鮮(ちょうせん)、日本の5民族が共に繁栄(はんえい)していくというものでしたが、実態は日本に操(あやつ)られる植民地のような国でした。関東軍は、中国革命で追放されていた清朝(しんちょう)最後の皇帝(こうてい)・溥儀(ふぎ)を満州国の皇帝に迎(むか)えますが、これも飾(かざ)り物にすぎませんでした。
満州国の人口は約4300万人、日本人が約82万人、そのうち開拓(かいたく)移民が27万人いました。満州国といいながら、満州人の割合は少なく、政府の要職の45%は関東軍が任命した日本人が占(し)めていました。財閥も本格的に進出して、大きな利益を上げました。
長引く不況に苦しむ農村の人々は、広大な土地の所有を夢見て満州に移住しました。移民に用意された土地は、現地の中国人たちから時価50〜100円の土地を15円で半強制的に買い上げたものでした。親類や村からの強制による移住者も多くいました。養蚕(ようさん)がさかんだった長野県大日向村は、恐慌の影響(えいきょう)を強く受け、村をあげて移民し、内地では考えられない広大な土地を手に入れました。開拓団にあこがれて写真見合いをした花嫁(はなよめ)移民もいました。しかし、中国人から奪(うば)った土地での幸せは長くは続きませんでした。37年7月の廬溝橋(ルーコウチァオ)事件以後、宣戦布告のないまま、日中戦争は泥沼(どろぬま)化していきました。
戦争拡大に伴う兵隊増員・労働力需要の増大により、38年から14〜15歳(さい)の少年が満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の名で派遣されることになり、第1陣(じん)として2500人が出発しました。敗戦までに、8万7000人の青少年が軍事訓練を受けて入植しました。
45年8月にソ連軍が参戦した時、満州には日本人が27万人いましたが、若い男性は兵士にとられ、ソ連との国境付近には老人と女性と子供だけが残されていて、その避難(ひなん)の混乱の中ではぐれたり、置き去りにされた子供たちが中国残留孤児となって現在まで続く問題となりました。
≪クローズアップ≫ 青年将校らのクーデター
青年将校たちは、「今日の農村の貧窮(ひんきゅう)と荒廃(こうはい)をもたらしたのは資本主義の恐慌(きょうこう)である。恐慌で私腹を肥(こ)やすのは三井(みつい)、三菱(みつびし)、住友(すみとも)などの財閥(ざいばつ)ばかり。都市の失業者、農村の困窮は絶望的な状態にある。これを救済する道は、資本主義を否定し、農業中心の政策を強力に実行できる軍部の政権しかない」といって、天皇の身近にいて発言力を持つ政治家や自分の利益だけを考えている財閥を倒(たお)して、天皇を中心とする軍部の政権を作ろうとしました。
1931年、陸軍の軍人と右翼(うよく)によって、軍部の政権を作ろうとする三月事件、十月事件の2回のクーデター未遂(みすい)事件が起こりました。この年の9月には柳条湖(リゥティアオフー)事件に始まる満州事変も起きていて、世の中の雰囲気(ふんいき)が変わり始めました。
翌32年になると、右翼の血盟団によって、経済不況(ふきょう)の責任者と見なされた前大蔵(おおくら)大臣や財閥の代表、三井の理事長が暗殺されました。そして、5・15事件で、海軍の青年将校によって犬養毅首相が暗殺され、政党政治は終わりを告げます。このとき犬養首相が叫(さけ)んだ「話せばわかる」という言葉は民主主義を、青年将校の「問答無用」は言論の自由のないファシズムを象徴(しょうちょう)する言葉で、これから先の日本の状況を暗示していたようにも見えます。
4年後の36年、2・26事件が起きました。陸軍の青年将校が軍事政権を樹立し、天皇中心の国家を作ることを目標に立ち上がり、首相官邸(かんてい)や警視庁、新聞社、放送局などを襲(おそ)い、高橋是清(たかはしこれきよ)大蔵大臣をはじめ4人を暗殺しました。
議会政治の息の根を止められて、軍部の政治介入(かいにゅう)はいよいよ激しくなったのです。
【プロフィル】<前澤桃子(まえざわ・ももこ)>
明治大学文学部卒業。現在は東京・私立鴎友(おうゆう)学園女子中・高校教諭。著書に「図解雑学日本の歴史」(ナツメ社)がある。
http://www.mainichi.co.jp/edu/maichu/momoko/2002/0803.html