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Re: Re:東電OL殺人事件
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投稿者 竹中半兵衛 日時 2003 年 10 月 22 日 21:19:21:0iYhrg5rK5QpI

(回答先: <東電OL強殺>ネパール人被告の無期懲役が確定へ 最高裁 (毎日新聞) 投稿者 まさちゃん 日時 2003 年 10 月 21 日 18:55:01)

エンセンさん、まさちゃんさん、あっしらさん、マルハナバチさん、今晩は。

この事件は神戸少年事件発生の2ヶ月以上前に発生したものなんですね。月日のたつのは早い。事実経過をたどると被害女性の奇行癖にどうしても関心が行ってしまいますが、一歩裁判の不当・不合理に行き当たると実に重苦しい思いに陥ります。長崎の種元駿ちゃん殺害事件まで含めて日本列島冤罪漬け。もっともらしくない検察の論証に裁判所が合理的であると判断するところに救われないほどの司法の腐敗と堕落が見て取れます。おまけに「東南アジア系」などと「三国人」でひっくくり「やつらは悪党だ」という論理が底に流れていますね。

はじめに特定された犯人ありき。そこから無茶な論理で演繹するんだから、別に誰でも犯人になりうる、恐るべき論法です。

-----------------------------------
以下、「無限回廊」(http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/m.htm)より引用します。


http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/touden.htm

東電OL殺人事件

 

【 遺体発見 】

1997年(平成9年)3月19日午後5時半ごろ、東京・渋谷区円山(まるやま)町の木造2階建てのアパート「喜寿荘」の1階101号室の空き部屋で、東京電力に勤める渡邉泰子(39歳)が絞殺死体で発見された。

バーバリーのベージュのコート、下には青のツーピース、下着にも乱れはなかった。長い髪の毛にはなぜかボールペンが絡まっていた。死体の頭部の近くには取っ手が根元からはずれたショルダーバッグがあり、口が開いていた。また、トイレの中からは使用済みのコンドームが発見されており、コンドームの中には精液があった。バッグの中にあった財布の中の現金は473円、名刺入れの中の名刺には、<東京電力東京本社 企画部 経済調査室副長 渡邉泰子>とあった。

発見者は家主から鍵を預かり、「喜寿荘」の管理を任されていた近くのネパール料理店「K」の店長のMだった。Mは、前日、101号室の玄関脇の小窓が10センチほど開いたままになっているのに気づき、そこから中を覗くと、仰向けに寝た状態の女の上半身が見えたので、玄関のドアノブを回すと鍵はかかっておらず、ドアが開いた。そこには女ものの靴が一足きちんと揃えてあった。Mはネパール人の女性だと思い、ネパール語で声をかけたが、返事がないので、熟睡しているものと思い、その場を立ち去った。だが、次の日、さすがに気になってもう一度部屋を覗き、女がまだ「寝ている」のを見て、もしやと思い、警察に通報したのだった。

捜査本部の調べで、死因は絞殺によるもので、死亡推定日時は8日夜から9日未明の間とされた。

泰子は杉並区永福で母親と妹の3人で暮らしていた。父親も東京電力に勤めていたが、1977年(昭和52年)7月に、50代の若さで他界している。泰子は会社は毎日午後5時20分に定時退社していたのに、帰宅はほとんど深夜だった。調査した結果、泰子は10年ほど前から円山町界隈に出没し、すぐ近くの道玄坂のホテル街で売春していたことが判明した。

昼のエリート・キャリアウーマンには全く別の夜の顔があった。それを知ったマスコミが放っておくわけがなく、泰子のプライバシーは滅茶苦茶にされた。

泰子は慶応大学経済学部を卒業すると、東京電力に入社した。その後、エリートコースを進み、管理職となった。会社では仕事を完全にこなしていたが、服装は地味で、人付き合いもなく、これといった男性との噂も聞かず、孤立した存在だったという。

マスコミは円山町周辺の取材をして、泰子が通りかかった男に声をかけているところや男と腕を組んで歩いている姿を目撃したという話を書いた。東電の管理職である泰子が金目当てで売春しているとは考えられないと、スポーツ新聞や週刊誌はいろんな憶測記事を書き、ある週刊誌は全裸写真まで掲載した。泰子の母親は耐え切れず警察に抗議した。東京法務局は、行過ぎた内容は人権侵害に当たるとして再発防止の異例の勧告を行なった。その後、少しは鎮静化したようだった。

泰子の手帳には十数人の男性の名前、電話番号がメモされていた。捜査本部はメモに記されていた男性を次々と調べていった。その結果、殺害があったとされた8日夜に、一緒に食事をしてホテルへ行った会社員がいることが判明した。この日は土曜日で泰子の会社は休みだったが、午前11時20分に自宅を出て、電車で渋谷経由、五反田へ向かった。行き先は休日の職場にしていた「魔女っ子宅配便」というホテトルだった。ホテトルではなくSMクラブだったという関係者の話もあるが、ここで泰子は2万5000円で客をとり、うち1万円をお店側に渡し、残りの1万5000円が泰子の取り分になっていた。この日、マンションの一室にあるホテトルの事務所で午後5時ごろまで客を待っていたが、1人もつかなかった。その後、会社員と電話で約束の上、午後6時40分ごろ、渋谷のハチ公前で落ち合い、午後7時10分過ぎ、円山町のホテルへ入り、午後10時16分にチェック・アウトした。この時刻はホテルに備え付けの防犯ビデオの映像で確認された。そして、午後10時半ごろには、泰子とは別れており、その後のこの会社員のアリバイは完全だった。このとき、会社員は泰子に売春代として4万円払っている。

殺害があったとされた8日から4日後の3月12日、現場から10キロ以上離れた豊島区巣鴨の民家の庭先で泰子の定期券が発見された。この西永福ー新橋間の定期は殺害があったとされた8日から1週間前の3月1日に購入したもので、有効期限は8月31日まであり、泰子本人が捨てたとは考えられない。捜査本部は犯人が捜査の撹乱を狙って無関係な場所に捨てたものとみていた。

捜査本部の聞き込みにより、8日午後11時25分ごろ、泰子と思われる女性が東南アジア系の男性と「喜寿荘」101号室に入るのを目撃したという男の証言を得た。ただ、この時点では目撃した男を「東南アジア系の男性」とは証言しておらず、警察の誘導によって作られた可能性もある。また、午後11時45分ごろ、同じアパートの2階に住む若い日本人女性が階段を降りてきて101号室の前を通りかかったとき、中から女の喘ぐような声がもれてくるのを聞いている。さらに、泰子が以前から「喜寿荘」101号室をセックスする場所に利用していたことも判明した。

【 逮捕 】

1997年(平成9年)5月20日、捜査本部は、ネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ(当時30歳)を逮捕した。マイナリは事件当時、殺害現場となった「喜寿荘」の隣りの粕谷ビル401号室にネパール人の仲間4人と一緒に住み、仕事先である千葉市内JR海浜幕張駅近くのインド料理店「幕張マハラジャ」で働いていた。

警察がマイナリを疑ったのは、事件当時、マイナリが「喜寿荘」101号室の鍵を持っていたと見なされたことと目撃証言であった。マイナリは妻と2人の子どもを国に残し、1994年(平成6年)2月28日に短期滞在ビザで来日。いくつかのレストランの店員として働き、家族に送金していた。5月29日、ビザ失効。1996年(平成8年)暮れ、マイナリは姉が来日するという知らせを受けた。そこで、姉と一緒に暮らしたいと思い、4人の同居人に「喜寿荘」101号室に移ってほしいと話をもちかけた。1997年(平成9年)1月、マイナリはアパートの管理をしていたネパール料理店「K」の店長Mから同室の鍵を借り、4人に室内を見せた。だが、4人は部屋代が高いことなどを理由に借りることを渋った。また、その後、姉の来日も延期になって、4人が転居するという話はなくなっていたが、マイナリは鍵をMに返さないままにしていた。だが、3月5日に、同居人のネパール人にこの鍵をMに返しておいて、と依頼し、翌6日、このネパール人はMに鍵を返していたことが判明する。そして、泰子はその2日後の8日夜に殺害された・・・。

泰子の死体が発見されたのは、3月19日だが、この日の深夜、仕事から帰ったマイナリは粕谷ビルに入ろうとしたところを、刑事に呼び止められ、名前や勤め先を訊かれ、自室の中まで調べられている。翌20日、マイナリは自分の勤め先のインド料理店「幕張マハラジャ」に電話を入れ、警察にいろいろと訊かれて部屋の中まで調べられたことを告げ、オーバーステイのことで警察にいずれバレることが気になるので、しばらく休ませてほしいと頼んだ。22日、自ら渋谷署に出向いて、オーバーステイの事実を明かした。翌23日、警視庁に逮捕され、31日、東京地検にこの件で起訴された。

5月20日、東京地裁で、マイナリはオーバーステイの件、つまり入管難民法(出入国管理及び難民認定法)違反(不法残留)で懲役1年・執行猶予3年の判決を受けた。そしてその日の午後、すぐに警視庁により泰子殺害および現金4万円を奪った強盗殺人容疑で逮捕され、6月10日、東京地検に起訴された。

【 裁判 】

1997年(平成9年)10月14日、東京地裁で初公判が開かれた。マイナリは、取り調べから公判に至るまで、一貫して泰子殺害を否認した。また、泰子とは全く面識がないと主張していた。だが、1999年(平成11年)3月25日、東京地裁での第25回公判で翻し、泰子に路上で誘われて顔見知りになったと証言し、4月26日の第26回公判では、泰子と3回会ってセックスしたことを認めた。

最初は1996年(平成8年)12月20日ごろで、マイナリは勤めから帰る途中、泰子に、「セックスしませんか。一回5000円です」と声をかけられた。マイナリは「ホテル代がない」と言うと、泰子は「どこでも構わない」と言うので、粕谷ビル401号室の自室へ連れ込んで事に及んだ。このときは同居人2人も泰子の相手をした。

泰子は「どこでも構わない」と言っているように、場所を気にしていなかったようで、殺害があったとされた8日の前日にも「喜寿荘」向かいの駐車場で中年の男とセックスしていたことが警察により確認されている。他にも、路地の物陰やビルの非常階段でセックスしているところを付近の住人などから目撃されている。

同年大みそか近い頃、突然、同室を訪れてきた泰子に、「今日もセックスしませんか」と言われたが、このときは同居の2人が反対したため何もなかった。

翌1997年(平成9年)1月末、路上で泰子に、「今日もセックスするなら5000円です」と言われたが、前に同居人が泰子を追い返したことを思い出し、「友人たちが邪魔になるかもしれない。どうしよう」と言うと、泰子は「どこでも構いません」と言ったので、マイナリは「喜寿荘」101号室へ持っていた鍵で開けて入り、事に及んだ。

3回目は2月25日から3月2日までのいずれかの日に、粕谷ビルの階段の踊り場に立っていた泰子に、「今日もセックスしませんか」と誘われて、同じく101号室で事に及んだ。このとき使ったコンドームを部屋のトイレに捨て、鍵をかけずに部屋を出た。鍵をかけなかったのは、また同じように部屋を使うことになると思ってそうしたのだという。3月5日に鍵を店長に返すように同居人のネパール人に頼んで鍵を渡したのは、そういう意味で鍵が不要になったからだと思われるが、そうすると、部屋にはいつでも鍵なしで出入りできることになり、鍵を返した日が殺害した日より前であっても後であっても問題にはならないということになる。また、それ以降は泰子には会っていないと証言した。

泰子の手帳には次のような記載があった。これはマイナリが証言したあとに証拠として開示されたものあり、マイナリがこの手帳の記載に合わせて証言したわけではない。

1996年12月12日<?外人3人(401)1.1万>

      12月16日<外人(401)0.3万>

1997年 1月29日<?0.5万>

       2月28日<?外人0.2万>

マイナリは泰子と初めて会った日を12月20日ごろと証言しているが、泰子の手帳の記載の<外人><3人><401>から判断して、2人が初めて会った日は、12月12日と見ていいようだ。<?>とあるのは「名前が分からない人」という意味とも読めるが、はっきりとしたことが分かっていない。16日も同じく、<401>と記載されており、マイナリの部屋であると見ていいのだが、マイナリの証言にはない。マイナリが泰子と会ったことを覚えていないだけなのか、あるいはこの<外人>はマイナリではなく、同居人4人のうちの1人であることが考えられる。その後の1月29日と2月28日はマイナリの証言とほぼ一致するが、1月29日に「外人」と記されていないのはどうしてなのか分かっていない。マイナリではないのか? 2月28日にマイナリが泰子に渡した金額は泰子の手帳によると2000円だが、マイナリは5000円より少ない金額を渡したことだけは覚えているという。マイナリはこのとき、丁度5000円分のお金がなく、お釣をもらうつもりで1万円札を出したが、泰子にお釣がないと言われて細かい金額を渡している。このとき、泰子は「足りない分は次に会ったときでいい」と言ったという。

トイレに捨ててあったコンドームの残留精液から検出された血液型はB型で、DNA鑑定を行なった結果、マイナリのそれと一致した。また、精子は射精した時から時間の経過とともにその形が崩れていくことが分かっていることから、それが何日経過したものかを鑑定したが、はっきりと断定できる結果とはならず、弁護側にも検察側にも都合のいいように解釈された。

コンドームを使って捨てた日を弁護側は泰子の手帳にあった2月28日ごろと主張し、検察側はその日を殺害があったとされる3月8日ごろとし、泰子の手帳にあった2月28日の<外人>はマイナリではないと主張した。

マイナリの勤務先のインド料理店「幕張マハラジャ」のタイムカードの記録によれば、泰子が殺害があったとされた8日、マイナリは午後10時少し過ぎに退店しており、それから電車を乗り継いで渋谷へ行き、さらに徒歩で粕谷ビル近くに着き、午後11時25分ごろに2人でいるところを男に目撃された、とされているが、これが可能かどうかがひとつの争点となった。

海浜幕張駅発東京行きの京葉線は午後10時台は7分発、12分発、22分発、37分発、52分発、59分発の6本あるが、このうち12分発と59分発の2本の電車は隣駅の新習志野どまりで接続電車もないため、除外すると、7分発、22分発、37分発、52分発の4本になる。

マイナリが勤めるインド料理店と海浜幕張駅は急いで歩いても5分はかかる。マイナリは午後10時の閉店後、あとかたずけをして、ウエイターの制服を私服に着替えて駅に向かって午後10時22分発の電車に乗ったと証言した。

渋谷署の警察官が実際に歩いて調べたところでは、7分発の電車に乗り、最短距離を歩いてなんとかギリギリ間に合い、22分発では間に合わないという結果を出している。ただ、7分発では間に合うといっても、これには泰子との売春の交渉をした時間が含まれていない。

また、警察はこの目撃証言をのちに「午後11時25分」から「午後11時25分以降」と訂正、初公判の検察の冒頭陳述では「幕張マハラジャ」を退店したのは、同店のタイムレコーダーが2分40秒進んでいたとして、「午後9時57分ごろ」としている。

検察側はマイナリが7分発の電車に乗車したと主張し、弁護側は7分発の電車に乗り込むのは無理があり、22分発の電車に乗車したと主張した。

巣鴨の民家の庭先で見つかった泰子の定期入れについては、マイナリの指紋は検出されておらず、また、マイナリにとっても巣鴨は友人や職場の同僚がいるわけではなく、まったく土地勘のない場所であり、謎のまま放置されていた。

現場から採取された陰毛は全部で16本あった。うち2本の血液型(ABO式およびDNA型)がマイナリと泰子のそれと一致し、他に4種類の血液型のものがそれぞれ一本ずつあり、残り10本についてはなぜか鑑定されていない。ここでマイナリの陰毛が発見されても不思議ではないのだが、それと殺害したこととは結びつかない。

泰子の血液型はO型だが、現場にあった泰子のショルダーバッグの取っ手からはマイナリと同じB型の血液型物質が検出された。だが、DNA型については普段それを持ち歩いている泰子のDNA型のものが圧倒的に多く、結論としてはマイナリと同じ型のDNAがあったとは認定されなかった。

1999年(平成11年)12月17日の求刑公判で、検察側は無期懲役を求刑した。

2000年(平成12年)1月24日、弁護側は最終弁論で、「被告には動機がなく、犯人であることと矛盾する証拠もあり、他に犯人がいる可能性が高い」として無罪を主張した。

4月14日、東京地裁は、マイナリに対し無罪を言い渡した。

「被告が犯人であると推認できるように思われる」としつつも「被告以外の者が犯行時、アパートにいた可能性が払拭できない上、被告を犯人とすると、矛盾したり、合理的に説明できない事実も存在する」と述べた。

刑事訴訟法345条には無罪、免訴、刑の免除、刑の執行猶予、控訴棄却、罰金または科料の裁判の告知があったときは勾留状はその効力を失うとあり、マイナリは1997年(平成9年)5月に、入管難民法違反で有罪判決を受け、確定していることから、入管当局に収容され、その後、国外退去の手続きに入った。

4月18日、検察側は控訴した。「国外に出ると控訴審が実質上、不可能になる」として、通常であれば釈放後、入管難民法違反の有罪判決による強制送還になる被告の身柄に関して、検察側は東京地裁に勾留への職権発動を要請した。

弁護側は「マイナリ被告は控訴審の文書の送達先としてネパール大使館を指定しており、帰国しても審理を進めることは可能」などと主張し、勾留に反対する意見書を東京地裁に提出していた。

4月19日、東京地裁は勾留しないことを決め、弁護側、検察側の双方に通知した。東京高検は東京高裁へ勾留の要請をした。

4月20日、東京高裁第5特別部は検察側の要請を退け、勾留の職権発動をしない決定を出した。裁判長は「一審判決の訴訟記録が届いていない段階では、高裁は勾留する権限をもっていない」という初判断を示した。

5月1日、東京高検は職権で勾留するよう東京高裁に2度目の申し立てを行なった。東京地検が東京地裁に行なった申し立てを含めると3度目となった。

5月8日、東京高裁第4刑事部の高木俊夫裁判長は「犯罪を疑う相当な理由がある」などと判断して勾留を決定した。マイナリ被告は入管施設から東京拘置所に移送された。弁護側は決定を不服として勾留理由の開示を東京高裁に求めた。

ちなみに、東京高裁第4刑事部(高木俊夫裁判長)は1999年(平成11年)7月8日、「狭山事件」での第2次再審請求を棄却した部局である。狭山事件の詳細についてはこちら

5月12日、東京高裁で、勾留理由の開示の手続きが行なわれ、裁判官は「無罪判決は充分念頭に置いた上で、事件の記録を慎重に検討し、犯罪を疑うに足る相当な理由があると判断した。有罪までの心証はない」と勾留を決めた理由を説明した。

5月15日、弁護側は東京高裁が「犯罪の疑いがある」として職権で勾留したことを不服として東京高裁に異議を申し立てた。申立書で、弁護人は(1)無罪を言い渡されたマイナリ被告は犯罪に足る相当な理由はない。(2)帰国後は妻子と両親のもとに住み、出頭要請には応じると述べており、逃亡のおそれはない、と主張し、勾留決定を取り消すよう求めた。

5月17日、法務省入国管理局は、写真週刊誌『フライデー』を発行する講談社に対し、謝罪記事の掲載などを求める抗議文を送った。『フライデー』5月5日号に、東京入管内でマイナリ被告に義兄が接見した際の隠し撮り写真を掲載したことに対し、入管はマイナリ被告は撮影を承諾していないことや接見室での撮影が禁止されているなどの理由からの抗議だった。

これに対し、『フライデー』の加藤晴之編集長は「無罪判決にもかかわらず、勾留され続けているのは司法当局による重大な人権侵害。被告の心身耗弱を伝えることは充分な公益性がある」と判断して掲載したと話した。

5月19日、東京高裁は弁護側の勾留決定を取り消すよう求めていた申し立てを棄却した。

5月23日、弁護側は東京高裁がマイナリ被告を職権で勾留したことを不服として、最高裁に特別抗告した。

6月27日、最高裁は弁護側の特別抗告を棄却する決定を出した。5人の判事のうち2人の判事は反対意見を述べたが、「1審無罪の場合でも、控訴審の裁判所は審理の段階を問わず被告を勾留できる」との初判断を示し、東京高裁での勾留決定を支持した。

7月31日、弁護側は東京高裁にマイナリ被告の勾留の取り消しを再度、請求した。

8月7日、東京高裁は弁護側の勾留取り消し請求を棄却した。弁護側は異議申し立てをした。

8月10日、東京高裁は弁護側の異議申し立てを棄却した。

8月14日、弁護側は東京高裁に勾留取り消し請求していたが、退けられていたため、「勾留の理由が示されていない」と、最高裁に特別抗告した。

8月18日、私選弁護人5人が「被告に資力がないため国選弁護人に選任されるよう要請したが認められなかった」ことを理由に東京高裁に辞任届を提出し、受理された。刑事訴訟法では3年以上の懲役または禁錮刑の事件では弁護士がいなければ開廷できないと定めており、同日午後に予定されていた控訴審第1回公判は行なわれなかった。

9月27日、最高裁は弁護側の勾留取り消しを求めた特別抗告を棄却する決定を出した。

11月6日、弁護側は東京高裁が異議申し立てを棄却したことを不服として、最高裁に特別抗告した。最高裁に勾留取り消しを求めた特別抗告はこれで3回目。

12月22日、東京高裁の第4刑事部の高木俊夫裁判長は1審での無罪判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。

結局、マイナリと泰子殺害とを結びつける決定的証拠を検察側が何ひとつ提出できなかったにもかかわらず、高木裁判長は「被告が犯行に及んだことは充分に証明されており、合理的な疑いを生じない」と述べた。

同日、弁護側は上告した。

2001年(平成13年)3月25日、市民団体「無実のゴビンダさんを支える会」の結成集会が、都内で開かれ、日本ネパール協会関係者らが集まった。

7月5日、弁護側が新たな鑑定書を添えて、上告趣意書を最高裁に提出した。鑑定書は「現場に残されたマイナリ被告の体液は、事件当日のものでない可能性が高い」としている。

2003年(平成15年)10月20日、最高裁3小法廷の藤田宙靖(ときやす)裁判長は無期懲役とした2審判決を支持して被告の上告を棄却する決定を出した。最高裁小法廷は、記録を精査しても2審判決に重大な事実誤認は見当たらないと判断した。

この東電OL事件を題材にした小説に、久間十義の『ダブルフェイス』(幻冬舎/2000)、鳴海章の『鹹湖(かんこ)〜彼女が殺された街』(集英社/1998)がある。

参考文献・・・『東電OL殺人事件』(新潮社/佐野眞一/2000)、『誰が私を殺したの』(恒文社21/朝倉喬司/2001)、『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)、『毎日新聞』(2000年4月18日付/2000年4月19日付/2000年4月20日付/2000年5月1日付 /2000年5月8日付/2000年5月12日付/2000年5月17日付/2000年5月23日付/2000年6月28日付/7月31日付/2000年8月14日付/2000年8月18日付/2000年9月28日付/2000年11月6日付/2001年3月25日付/2001年7月5日付/2003年10月21日付)

関連サイト・・・外国人冤罪事件から日本が見える → ゴビンダ裁判から日本が見える / ishida law information → 特集 東電OL殺人事件 / 藤本大学 → 東京電力OL強盗殺人事件控訴審判決について / 田村のホームページです → 冤罪関連 → 東電OL殺人事件 / Jam Jam Voice → 東電OLの見た風景

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コメント
1. 2019年4月05日 10:32:51 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[445] 報告
東電OL殺人事件
.
JRPtelevision
2019/04/04 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=t-zFMok0XDY

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