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2003年9月24日 緊急転載メール4
今年七月に、我らが日本から、心ならずもアフガンへ帰還していったアフガン難民を支援する会が結成された、とのメールを受け取った。末尾の、日本で彼がたどった経緯がまた恐ろしい。「難民虐待大国」の呼び名が誇張でないことを実感していただけるのではあるまいか。
以下、転載します。
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難民認定されず、家族を呼べず、帰還してしまった
アフガン難民を助けてください!
【転送・転載大歓迎!】
振込み先は郵便局のぱるる
口座名義;帰還したアフガニスタン難民を支援する会
口座番号:10130−98267551
問い合わせ先:
電話:06−6927−9559
Eメール:nan_afg@yahoo.co.jp(半角にしてください)
帰還したアフガン難民を支援する会 岩田 賢司
7月末に帰還したアフガニスタン難民のグラム・フセインさんが、帰還先のパキスタンで、タリバンとおぼしきパシュトゥン人武装集団に襲われました。
1度目は息子さんが「知らない」と門を挟んで言い張り、なんとか押し返したのですが、2回目は家に押し入ってきました。1回目に襲われてからフセインさんは夜、自宅から出てホテルに泊まり歩いていたようですが、4、5日して朝自宅に帰ってみると、子どもたちがただならぬ様子だったので、何があったのか聞くとふたたび武装集団がやってきたのだそうです。フセインさんの名前を挙げ、「殺す」とも言われたそうです。
おそらく1度目襲った後、再度、その住所に間違いないかどうかを確認した上で来たのだと思います。記事にあるように、フセインさん家族はなんとか家を別に借りて、隠れ住んでいます。
フセインさんは、日本にいるときからずっと腰痛をかかえており、おそらく100メートルも続けて歩くと休まないとダメな状態です。奥さんは、今年の5月頃から、おそらくパニック障害のような状態が続いています。
おそらくアフガニスタンでは、普通なら息子たちが父親に代わって生計を維持するのでしょうが、第1子をタリバンに殺され、第2子も生き別れて再会できず、第3子もタリバンによって足指を切り落とされ、障害者となっているフセインさんの家族は、そうした生計を維持するための世代交代に失敗しています。
フセインさんが帰国を決意したのは、上に述べた、奥さんの病気のことがあります。奥さんが一種のパニック障害のようになって泣き叫び、失神するような状態になっているからです。母親の異常な状態にどうしてよいか分からない息子さんが泣いて「帰ってきて」とフセインさんに電話してきました。おそらくそのときフセインさんに、日本で在留資格を得られるたしかな可能性があれば、「もう少し待て」といえたのでしょうが、そんな展望のないフセインさんにはそれも言うことができなくなりました。と同時にフセイン自身は、腰痛と、自動車免許がなくいよいよ日本で働けなくなり、パキスタンに送金できなくなりました。追い詰められたフセインさんは結局帰ることを選んだのでした。
フセインさんがアフガニスタンへの帰還を口にしたとき、フセインさんに「もしアフガニスタンに帰ったら自分はどの程度危ないと思うか」と尋ねたとき、フセインさんは、「80%」と応えました。シナピス難民委員会の人たちは、必死で彼が日本で残れる方法を、それこそひねり出して、思いとどまるよう説得しました。フセインさんもいったんは説得を受け入れて、帰還を思いとどまりましたが、1か月もたたないうちに「家族のもとに帰る」と言ってきました。その再建プランも現実には難しいものでした。再び帰国を口にしたフセインは、しかしもう「80%」の話はしませんでした。そしても、もう僕もそのことは聞きませんでした。1月の間に状況がよくなるはずがありません。しかしその話をすれば、再びとめられると思ったのだと思います。還るまえは、冗談を連発し、みんなを笑わせていました。もちろん、家族と会える喜びもあったと思います。われわれに対するお礼の気持ちを込めてそうしているのなら、そのまま受け取ろうと。また、帰国した後の生活についても、私たちに聞かせるために、あるいは自分に言い聞かせるために用意した絵空事のようなプランを語るのを聞いていました。
帰国した当初は、喜びの電話でしたが、8月に入ってから、フセインさんの話が違うようになり、フセインさんの片言の日本語では分からないため、息子さんに状況を英語で書いて、電子メールを送ってほしい、と頼みました。
ペシャワールでは、インターネットカフェのようなところ(そんなしゃれたものではぜんぜんない、場末のあばら家のようなところですが)があり、そこでインターネットを利用できます。そこから英語で送ってもらった情報が、襲撃されたというものであり、はじめて実態が分かったのでした。
その後、イラン人に通訳になってもらい詳しく聞いたところ、新聞記事のような内容が判明しました。
今私たちはフセインさんに最低限の生活を支えるためのお金を送ろうと思っています。これは、フセインさんが言い出したことではありません。こちらから切り出したことです。
日本で難民申請をしているアフガニスタン出身のハザラ人で、ペシャワールで定職についていた人はほとんど皆無です。みんな、ペシャワールでは隠れるように暮らしていました。その状況は今でも変わりません。そのようなところでは、親戚どうしでお金を融通しあったりすることはあっても、赤の他人を助けるようなコミュニティが成立する余地はほとんどありません。多くは、西側諸国で難民になったり、在留資格を取った幸運な家族からの送金で食いつなぐ「点滴生活」を送っています。パシュトゥン人のおおいペシャワールでは親戚同士の助け合いはあっても、現実に機能するハザラ人コミュニティはありません。
以前AP通信に、バーミヤンから逃れてきた家族の苦難を報じたニュースがありました。内容は、アメリカが空爆を開始した2001年10月、空爆に共感すると疑われ、家を焼き討ちされたハザラ人家族がでこぼこの道で車に酔い、汚物だらけになってクエッタにたどり着きました。家を焼かれた家族に残ったのはブローカーに対する借金と、コップだけでした。借金を返すために5人の子どもの父親と一番上の15歳ほどの子どもは炭鉱で働き、すぐ下の2人は絨毯織りの工場に住み込みで働き、乳飲み子とそのすぐ上の子どもは母親といっしょに、地下倉庫で暮らしているというものです。しかし上記のようなフセインさんの家族にはこの生活すら難しいかもしれません。
何年か難民の支援に携わってきましたが、日本の難民認定の生き残りレースに脱落せずに最後まで残れる人は本当に一握りの人だとあらためて痛感します。フセインさんのように初老で、字が読めない、体に障害がある、そして仕送りしなければならない家族を出身国に残しているような人が4年も5年も耐え続けることは難しい。現に家族との破綻しかけている難民の方もいます。
今までフセインさんの人となりと経過を知っていただくためにフセインさんのことだけを書いてきましたが、フセインさんの現状を日本で伝えることで、今後送還を抑止する大きな力になるのではないでしょうか。そして裁判官にも、フセインさんと連絡を取り続けることで、日本が難民認定制度によって守るべき法益とは何であるのかを問い返す、契機になるのではないでしょうか。
「支える会」は、
東京で、フセインさんの支援を続けてくだった長島さん、京都で難民の支援に取り組んでこられた河原さんの3人でスタートしました。RAFIQの田中さん、作家の池田香代子さんも呼びかけ人になってくださいました。
今後、チラシをつくってあちこちの集会でカンパを募らせていただくつもりです。チラシに多くの方が呼びかけ人になっていただけば、訴求力もますのではと思います。どうか、カンパとあわせて、呼びかけ人になっていただければ、ありがたいです。
下記のように目標を1年とし、60万円を目標にと考えています。
「1万円とすれば60人、大したことない、大したことない」と言い聞かせている毎日です(1万円出せ、という意味ではまったくありませんので!)。こうした活動に対する批判や懐疑的な意見も受け、なかなかつらい出発となりましたが、新しい仲間も得て、フセインさんとつながり続けることで、新しいことを発信したいと決意しています。
やむにやまれずはじめたことです。どうか、助けてください。
文中に出てくる新聞記事はこちら
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「帰還したアフガニスタン難民を支援する会」
<趣旨>
タリバンの脅威は去った、として日本政府は、タリバンによる迫害の恐怖を訴えてきた少数民族ハザラ人の難民申請を認めず、強制退去を命じる処分を昨年から相次いで出しています。不認定とされた多くのハザラ人難民は長期にわたる入管施設への収容を課され、その精神的後遺症に苦しむ人も少なくありません。日本での先の見えない生活に絶望し、国に残した家族の窮状に耐えかねて危険を承知で帰国したハザラ人難民もいます。
アフガニスタンは復興の掛け声とは程遠い現状にあります。アフガニスタン南部では、数百人規模で再興タリバン勢力が警察署を襲撃し、警官やNGOの援助ワーカー、現政権を支持する宗教指導者などが殺害されています。首都カブールでも、90年代前半ハザラ人の殺害、拷問、拉致、略奪、強姦に明け暮れた原理主義グループが再びハザラ人地域を襲っています。
日本から出国してしまえば、たしかにその人の日本でのファイルは閉じられるのかもしれません。しかし本当の苦難は帰ったところから始まります。アムネスティ・インターナショナルは、イギリスでのアフガニスタン難民の「象徴的」強制送還をきっかけに、帰還したアフガニスタン難民のその後を検証した報告書『Out of Sight, out of mind』を発表しました。直訳すれば「去る者は日々に疎し」です。
しかし、われわれの目の前からいなくなった彼ら難民の「その後」こそ、最も苛烈に日本の難民制度の貧困と犯罪性を照らし出すのではないでしょうか。
この会は、彼らの苦しみが続く限り、彼らとともにあることを目指します。具体的には、帰還したアフガニスタン難民と連絡を維持し、必要に応じて生活資金を含めて支援し、状況を伝えることを目指します。
<具体的な支援対象>
当面、帰還したグラム・フセインさんとの連絡を維持し、必要最低限の生活援助を行うことを活動内容とします。
フセインさんは、帰還後早々、タリバンの残党と思しき銃をもった集団がフセインさんのところにやってきて、フセインさんを探すという事件が起こりました。フセインさんはなんとか難を逃れることができましたが、フセインさんは家を変え、家からほとんど出ない生活を続けています。就労どころか移動の自由すら奪われた状態にあり、そのまま援助がなければ、心臓病を患う奥さん、腰痛の本人、タリバンに足の指を切り落とされ、就労できない15歳の息子を筆頭に5人の子どもが路頭に迷うことが必至であるためです。もし銃を持った集団による襲撃の恐れがなければ、長年の商売の経験と才覚を生かして生きるすべもあったでしょうし、マザリシャリフにいる20歳になると思われる息子さんとの再会も可能かもしれません。しかし、今のフセインさんにはその将来も閉ざされています。こうした、自力ではいかんともしがたい迫害の恐れにより、困窮を強いられている以上、最低限の生活を支援しながら、連絡を維持し、帰還したアフガニスタン人、特にハザラ人の状況について情報を得、可能な限り社会に発信したいと思います。
状況が改善されればフセインさんへの生活支援は打ち切り、定期的な連絡を維持することにとどめます(フセインさんの経過については後述参照)。
フセインさん以外でも、これまで日本で支援し、タリバン残党などに襲われた、あるいは襲われる切迫した危険があり生活に困窮したアフガニスタン難民に対してもできるかぎり支援したいと思います。
<具体的な活動>
1.募金集め
1.1募金目標額
何とか月5万円×12か月=60万円程度のお金を集められないかと思います。彼の子どもたちが学校に行く費用までは出せないし、必ずしも負担する必要はないと思います。最低限の生活を支えることを目標にしたいと思います。口座を設け、そこにお金を集中し、送金します。
1.2募金の集め方
チラシを作成して配布する、あるいはインターネットなどを通じて呼びかけ、口座への振込みや集会などでの募金をお願いする。
1.3送金について
安全上のことがあるのでできるだけ小分けにして送金する。
基本的には1年間をめどとして行う。状況が改善すれば送金は打ち切り、連絡を取り合うことで、アフガニスタンの状況をさまざまな形で発信する。
1回最高5万円までとします。送金時期などについては事務局に一任していただきます。できるだけ緊密に連絡を取り合うよう努力しますが、突然、連絡が途絶える可能性があります。
もし送金できずにお金が残った場合、半年間預けて置き、それ以降経過して連絡がない場合は、難民を支援している団体に寄付します。
2.フセインさん家族への精神的サポート
フセインさんは不十分ながら日本語を話すことができます。また、息子さんは、英語の会話やメールを書くことができます。不特定多数の人がフセインさんの家族のメールを知ると問題なので、会に集中していただき、支援者からのメッセージとして、フセインさんに送ります。
また、電話で話をすることも場合よっては可能かもしれませんので、個別に検討します。
3.UNHCRへの働きかけ
UNHCRペシャワール事務所に、フセインさん家族が第三国に出国でき、そこで庇護が受けられるよう働きかける。英文で資料を作成し、送付します。
4.会員について
会員は当面、長島さん(代表)、河原さん、岩田の3人として、会がどのような方に支援してもらえるかで考えて行きたいと思います。
5.カンパをくださった方に対して
できるだけフセインさんからの返事や様子をお知らせするようにします。方法は、Eメールのみとします。発信は適宜、不定期に行います。希望される方は、Eメールアドレスをお教えください。
問い合わせ先:nan_afg@yahoo.co.jp(半角にしてください)
フセインさんの経過
1999年7月 来日
1999年10月 友人から「帰ったら危険」の連絡を受け難民申請
1999年12月 異議申出却下
2000年2月 退去令書発布収容(1度目)
2000年2月 不認定処分取り消し訴訟提訴
2000年6月 仮放免
2000年8月 UNHCRより難民認定
千葉に移り住み生活 この当時から腰痛に苦しむようになる。
2002年9月 大阪地裁 敗訴判決
2002年10月 支援者、パキスタンで家族と面会 息子のナジル君がタリバンによって足を切られていたことを知る
2002年10月 収容(2度目)
2002年12月 仮放免→病院に入院(高血圧、卒倒)
2003年2月 精神科に受診 パニック障害、「要通院」の診断
2003年4月 この頃より奥さんの心臓病の状態が悪くなり、不安を訴える息子さんから電話。就労できず、不眠状態続く。
2003年6月 帰国を決意するも「帰れば80%命を狙われる」という本人の言葉により、支援者が翻意を促す。
2003年7月 再度帰国の決意を固め、帰国。
2003年7月 パシュトゥン人武装集団に襲われる
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(転載以上)
http://homepage2.nifty.com/ukiuki/nyukan.html