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(回答先: Re: 【モンゴロイドであるハザラ人が日本に庇護を求めた理由】裁判長への意見書【果てしない移民たちのためのホームページ】 投稿者 エイドリアン 日時 2003 年 10 月 31 日 12:31:00)
Qサカマキ
■ 侵略と文化的融合
数千年前、あるいは何万年前の遺伝子が、身体の隅々までを刺激するのだろうか。最近、自分がモンゴロイドの血を引いていることをことさら認識する。同時に、ふとした拍子に、モンゴル系のことが気になったりする。それもなぜか、モンゴル系のルーツから直接的にははずれ気味にある民族に興味を引かれる。それが距離的理由でも、文化的理由でもかまわないが、遺伝子が不思議な共鳴感を与えるのだ。たとえば、ウズベキスタン、アフガニスタンなどの中央アジアからトルコにかけて住んでいる人々に。
現在のトルコ人も広義な意味では汎トルコ系に入り、少なからずモンゴルの遺伝子的影響を受けている。
そうした中央アジア系の民族の中で最も私の遺伝子を刺激するのは、ハザラと呼ばれる人々だ。アフガニスタンの中央部に住んでいる少数民族。1893年までハザラジャットという国を持っていた人々である。
たぶん、ほとんどの人々がこのハザラの名を聞いたことがないだろう。実際彼らのルーツは、いまだに神秘的なベールに包まれている。
無理もない。アフガニスタンの地理的位置そのものが、古代からさまざまな侵略と文化的進出を受け入れてきた。紀元前には、ペルシャ・アケメネス王朝のダーレイオス一世とマケドニアのアレキサンダー大王がアフガニスタンに遠征を試みている。3世紀には同じくササン朝ペルシャ、7世紀にはアラブがイスラムの名のもとに侵略し、そして13世紀にはチンギス・ハーンの大遠征侵略だ。イスラムが進出してくるまでは、仏教も浸透しており、ユダヤ人も存在していた。
同時にアフガニスタンは、ヒマラヤの一角を占めるヒンズークシ山脈と、かつ砂漠という過酷な地理的条件をも合わせ持っている。世界のさまざまな文化的影響を受けながらも、あるいは融合を繰り返しながらも、独自の民族的文化を築き上げてきたのである。
■ 終わらない悲劇
ハザラはアレキサンダー大王が訪れる以前からの先住民という学者もいる。チンギス・ハーンの大遠征をルーツとするモンゴルの直接的子孫とする説、あるいは、モンゴルとトルコ人の融合人種で、13世紀の終わり頃から定住を始め、アフガンのネーティブたちとも徐々に融合し始めたという説。しかし、彼らのルックスを見る限り、後者の二説が妥当だろう。ハザラにはまさに日本人と見間違えるような容貌の人が多い。
ハザラの名前そのものの意味も神秘的だ。ペルシャ語に語源があると言われているが、ハザラは「千」に関連した言葉で、千の山、千の川、あるいは千の兵隊を税金の代わりに支配者へ差し出したから、とも言われている。
宗教的にもペルシャの影響を多く受けている。アフガニスタンではほとんどの人がイスラム教スンニ派だが、ハザラはマイノリティーのシーア派に属するのである。そのためハザラは、アフガニスタンで他のどの民族よりも迫害の的に、とりわけ支配者から目の敵にされてきた。
1883年、英国に支援されたアフガニスタンのアブダル・ラフマン王によって、ハザラは敗北を喫する。以後彼らの多くが奴隷にされ、拷問され、レイプされ、殺されてきた。が、アフガニスタン・ラフマン王のハザラ征伐と抑圧の正当化の理由はこうだった。
「ハザラは何世紀にもわたって我々支配者たちの脅威だった。インド、ペルシャを征服した(アフガニスタンの)大ナディール王でさえ、彼らを鎮圧できなかった。彼らは常に外国の抑圧者たちと手を結び、旅人たちを虐げてきたのである」
自らが英国と手を結び少数民族を弾圧していたにもかかわらず、ハザラを制圧するためにプロパガンダを飛ばしたのである。
ハザラは宗教的な拷問も受けた。アフガニスタンではイスラムの教えはすべてに優先するほど大切なものだが、支配者たちはハザラをシーア派からスンニ派に強制改宗させようとしたのである。シーアのモスクに行き礼拝することを禁じ、破れば過酷な罰金だけでなく、時にはカブールのマーケットで、奴隷として売り捌いた。
30年代から50年代にかけて行われたパシュトゥナイゼーションというアフガニスタン支配者民族、つまりパシュトゥン人たちの新たな植民地移住政策によって、ハザラの多くの土地が奪われた。また、ナチの影響を受けたパシュトゥン支配者階級は、ハザラの文化を扱った書物の発行を禁止し、代わりにパシュトゥンの優越性を説く書物をハザラ・コミュニティーに半ば強制的に広めた。こうした差別的な政策が60年代まで続いていたのである。
■ 前代未聞の兵糧攻め
実は、ハザラの悲劇は現在も続いている。
1996年9月、タリバンは、アフガニスタンの首都カブールを制圧した。タリバンとは、現在も続いているアフガニスタン内戦の派閥の一つだ。すでにアフガンの80%以上を支配下に置いている。ただ、そのカブール制圧以後、彼らの被支配者に対する政策はますます抑圧的になってきている。
その2か月後の11月、筆者はカブールを訪れていた。いっしょに行動してくれた通訳は前に訪れた時と同じ、ハザラの19歳の少年ヨセフだった。半年ぶりに会った彼は大きく変わっていた。ヨセフはその表情の中に、常にタリバンへの恐怖を隠し持っていたのである。
無理もなかった。首都カブールでもハザラであるだけで訊問され家宅捜査され、まともな理由もないまま留置場に放り込まれた。幾度かヨセフの顔が腫れ、血を流していたことがある。まだ人気のない朝に、筆者をホテルに迎えに来てくれたため、タリバンから怪しまれて訊問され、殴られていたのだ。しかし当時はまだ、ハザラたちにとってほんとうの災難は始まっていなかった。
1997年5月、タリバンはアフガニスタンの北の首都マザーで大敗北を喫し、数百人のタリバン兵士が殺された。この事件にハザラの兵士たちが大きく絡んでいたのである。
以後、ハザラは徹底的に復讐の的になってしまった。もちろん一般市民がだ。その後聖戦に名を借りてタリバンが猛攻撃を仕掛けた時は、必ずと言っていいほど多くの人が理由もなく殺されている。とりわけ、ハザラのホームランドとも呼べるバミアン山岳地帯への完全道路遮断は最悪だった。97年8月から98年5月まで、すべての物資援助をタリバンがブロックしたのである。前代未聞の兵糧攻めだった。何百人もの人間が人為的な飢えで死んでしまった。
大きな理由は三つある。北の要地マザーで喫した大敗北の復讐。もう一つは、ハザラの宗教的な違い。タリバンがシーア派を邪悪なモスレムと見なしているのである。
三番目は、タリバンの民族的ルーツ。ほとんどのタリバンは、アフガニスタンの40〜50%を占めると言われているマジョリティー民族パシュトゥンだ。過去数百年の間、1929年の一時期を除いて、常に支配者階級にあった民族である。そして、タリバンの名において今も、パシュトウンの支配によるパシュトゥン化を試みているのである。
残念ながら、ハザラの悲劇は世界の表舞台から遠のいてしまっている。状況はコソボやボスニアと同じ状況でありながら、国連は今のところ本気で関わる気配がないのだ。そして、かつて三百万人から四百万人いたと言われるハザラたちが、今どれだけの人口を維持しているかさえ定かでない。 ◆ [No. 628 May 19, 2000]
http://www.mediajapan.com/ocsnews/96back/628b/628/628topic.html