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(回答先: 【難民認定されず、家族を呼べず、帰還してしまったアフガン難民のその後】難民虐待大国ニッポンの記録【帰還したアフガニスタン難民を支援する会】 投稿者 エイドリアン 日時 2003 年 10 月 31 日 11:55:19)
事情聴取書
-------------------------------------------------------------------------------供述者B氏
196*年生れ(3*歳)
自動車中古部品販売業
録取者 弁護士 大 貫 憲 介
録取日 2002年5月25日
当職は、上記供述者より英語にて下記のとおり、事情を聴取した。
===============================================================================1 私は、196*年、アフガニスタンのパロワン県トルクマンにて出生した、アフガニスタン国籍のハザラ人です。私は、1998年11月*日(1998年*月*日)、来日しました。2度目の来日です。その後、帰国することが危険になったので、1999年2月*日(1999年*月*日)、難民申請をしました。私自身も、2000年3月17日から7月26日まで(2000年に4ヶ月ほど)、入管に収容された経験があります。
2 先日自殺した、Aさんも、私と同じ、トルクマンの出身です。1974年生まれ(28歳)と聞いています。日本のハザラ人社会は狭いので、Aさんが来日して、すぐに知り合いになりました。
Aさんが来日したのは、2000年の終わりころか2001年の初め頃だったと思います。来日の約6ヵ月後に難民申請をしたそうです。Aさんは、人の悪口を言わず、明るい人でした。よく冗談を言い、皆に好かれていました。
3 Aさんは、2002年2月か3月頃、東京入管で難民調査官によるインタビューを受けたそうです。調査官は、彼に対し、「お前は、ハザラではない」と言ったそうです。Aさんは、私はハザラだ、と言い返し口論になったと聞いています。彼がハザラであることは、私を含め、在日のアフガニスタン人皆が知っていることです。Aさんの喋る言葉はハザラギ(ハザラ人訛りのダリ語)であり、間違いありません。同郷の私を騙せるはずもありません。
入管がインタビューをする際の通訳人は、タジク人がパシュトゥーン人です。私のときもそうでした。アフガニスタンは、民族的対立があり、日本にいるタジク人やパシュトゥーン人は、日本にハザラ人がいてほしくないと思っています。多分、通訳が、調査官に、Aさんはハザラじゃないと言い、調査官は、それを信用したのだと思います。このようなことがないように、通訳は、ハザラ人にしてほしいものです。ハザラ人通訳が見つからないのなら、まだイラン人(ハザラ人と同じシーア派。ペルシャ語とダリ語は近い言語で、かなりの程度意思疎通が可能)の方がはるかによいと思います。
私自身は、2000年4月、難民調査官によるインタビューを受けましたが、調査官は、私に対して、「タリバンは、アフガニスタンでよいことをしている」と言って、アフガニスタンへの帰国を促しました。調査官は、アフガニスタンのことを知らないのだと思います。
4 Aさんは、中古車部品をドバイに輸出する仕事をしていました。住んでいた場所は、知り合いの社長が貸してくれていた寮です。
Aさんは、短期滞在のビザを更新していたと聞いています。Aさんは、2002年3月
14日、中古車部品を運ぶため、4トン・トラックで高速道路を走っていたところ、四日市と名古屋間のトンネルの出口付近でトンネルの壁に激突したそうです。内臓が破裂した
外、右腕の手首の少し上辺りを骨折したと聞いて います。入院中は、食事ができないので、点滴にて栄養を補給していました。右腕には、鉄製の治療器具を埋め込んだそうです。病院から、約90万円の治療費の支払いを督促され、Aさんが、お金のないことを言ったところ、4月中旬頃退院ということになりました。完全に治療が終わるまで、あと1月の入院治療が必要だったそうです。その後も、病院からの支払い督促が厳しく、ボランティアの松浦さんが交渉し、月々3万円づつ支払うことで納得して貰いました。
5 Aさんは、すっかり痩せて退院してきました。内臓も骨折も治っておらず、仕事ができる状態ではありませんでした。毎日、寮にいて、コーランを読み、お祈りをしていたようです。
Aさんは、退院してから塞ぎこみがちで、病院への返済や生活費の心配をしていまし
た。私は、そのうちに治り、働けるようになるからと励ましていました。Aさんは、それまでの蓄えで生活していたようですが、いくらぐらい蓄えがあったのかは知りません。
6 Aさんが入院中、同じハザラ人で彼とルームメイトのCさんが交通事故を起こし、警察に捕まりました。Cさんは、大阪入管で難民申請中でしたが、ビザもあり、ドバイ政府発行の免許証も持っていました。その後、名古屋入管に送られ、現在収容されています。私たちアフガニスタン人には、彼がなぜ逮捕され、収容されているのか全くわかりません。
なお、収容中のCさんに動揺を与えないため、Aさんが自殺をしたことは、まだ、伝えていません。Cさんは、Aさんが面会に来ないことを不審に思っているようです。
7 陽気だったAさんが、すっかりやつれ塞ぎこんでいるので、私を含め、周りのアフガニスタン人たちは、彼を心配していました。以前は社交的だった彼は、1人になりたがったのですが、彼を少しでも元気付けるため、私は、なるべくAさんと一緒に食事をとるように心がけていました。週に3〜4回は、私の部屋で一緒に夕食をとりました。ほかのアフガニスタン人が食事に加わることもありました。Aさんは、食欲もなく、いつも心配ばかりしていました。先ほど述べたお金のことも心配の対象でしたが、彼が一番心配していたのは、難民として認められないことと、いつか入管に収容されることでした。Cさんのこともありましたし、東京のアフガニスタン人たちが入管に収容され、ひどい目にあっていることも聞いていたからです。何ヶ月も収容されるのは耐えられない、どこかへ逃げて行きたい、もう一度骨を折ったら病院に入れる(そうすれば収容されない)かな、とも言っていました私は、彼にもっと強くなるように言ったのですが、彼の精神状態は一向によくなりませんでした。
8 2002年5月14日(火曜日)は、仕事を休みましたので、昼食と夕食を一緒に食べまし
た。彼は、以前にも増して無口で、胃が痛いと言って、殆ど食べませんでした。
5月16日(木曜日)は、別のアフガニスタン人がAさんと一緒に夕食を食べました。その友人の話では、やはり無口で、殆ど食べず、手はどうだなどと尋ねても、投げやりな答えしか返ってこなかったとのことです。
9 私が、彼を最後に見たのは、5月15日の朝です。やはり無口でした。5月17日(金曜
日)、彼に電話をしました。電話に出ないので心配になり、15回ぐらい電話をかけてみたのですが、やはり出ませんでした。私たちは心配になり、皆でAさんの部屋へ行きました。彼は、自分の部屋で首をつって死んでいました。
私は、首をつった場面をどうしても見たくなかったので、見ていません。
Aさんの部屋には、父母と兄弟宛の手紙が置いてありました。その手紙には、このような死に方がよくないことは分かっている。しかし、私の人生には、さまざまな問題がある、と書いてありました。私は、Aさんが退院してから、何度も一緒に食事をし、彼の心配事を聞いていました。自殺した理由は、病気やお金のこともありますが、一番大きいのは、難民不認定となって収容されることだったと思います。遺書には、難民手続きのことは書いてありませんでしたが、日本政府を批判することを書くと、外のアフガニスタン人が迷惑を受ける可能性があると考えたに違いありません。彼は、いつでも他人を思いやる優しい人だったのです。
10 5月18日(土曜日)は、アフガニスタン人が20人集まり、告別式をしました。うち約3分の1は、北海道など遠いところから駆けつけた人たちです。皆で、コーランを詠み、彼を悼みました。
イスラム教徒は、火葬にしないので、5月20日(月曜日)発の飛行機で、遺体は、イスラムバードへ向かいました。遺体の搬送費用約80万円は、皆で出し合いました。
もしも、日本政府が私たち難民を暖かく迎え入れてくれていたら、彼が命を落とすことはなかったと思います。彼の死を無駄にしないためにも、なぜ彼が自殺したのかを日本の皆様にお伝え下さい。
以 上
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以上のとおり、上記供述者から英語で聴取した供述を日本語で録取した。
上記同日
弁護士 大 貫 憲 介
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http://www.kt.rim.or.jp/%7Epinktri/afghan/suiside.html