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(回答先: シジミさんを食べる晩餐!? 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 12 月 05 日 19:36:20)
マルハナバチさん。 こんにちわ。
素晴らしい詩をありがとう。
貝と木の実を拾う行為というのは、何か普遍的な記憶を呼び覚ますものがある(ような気がする)。
貝というのは不思議なものです。
砂浜で砂に潜って生きているのですが、
実は意外に敏捷に動くのです。
激しく海水を吸い込んでいますし。
生きている。
その生きている貝を拾ってバケツや袋に詰める。
すると、確かに生きてはいるのだけれど、
何か輝きが失われているのですよね。
生命の輝きが。
生物的にはもちろん生きていますよ。
だけど、それは与えられた環境の中で、
周囲と調和し、争い、海水を給水管から取り込み、
舌で砂浜を蹴って生きているわけではない。
そういうことをすべて含めて、貝は生きているのですよね。
だからバケツに入ったときには、
既にある意味で死んでいるわけです。
もはや死体なのですね。
当たり前みたいですが、
子供の頃は凄いショックを感じたものです。
木の実も情熱的に拾ったものですが、
やっぱり同じショックを感じていました。
私は、どんぐり、しいのみをはじめとして、
あらゆる木の実を拾いまくって一升瓶に入れて持ち運んでいました。
ある時、素晴らしく黄金色に輝くどんぐりをたくさん見つけまして、
一升瓶に詰めて持ち帰ったことがあります。
しかし家に帰ると、黄金の輝きは失せ、
茶色のありふれた薄汚れたどんぐりに姿を変えていました。
このときのショックは忘れられません。
とらなければよかったという後悔にさいなまれました。
拾って袋に詰めたどんぐりは、
やっぱりある意味で死んでいるわけですね。
どんぐりは樹林の中でしか生きられないものなのだと。
人間には、自然の精髄を、壊すことなく私することはできないということなのでしょう。
破壊し、収奪することはできる。
収穫することもできる。
所有権を設定し、私することもできる。
しかしそのときに、最大の恩恵をもたらす自然の精髄は失われている。
その精髄がどれほど素晴らしいものか。
今では憧れをもって想い起こすだけです。