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(回答先: その場所で生きているということ 投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 12 月 05 日 20:32:07)
すみちゃん、お応えありがとう。
私が答えられる事があるのかなあ。
過去一緒に居たとしたらバケツや一升瓶を手に覗き込んで、茫然としているだけでしょう。
人間をやってきたから書けることはあるけれども、しいて書こうとすると、
普通の人間の、主語、述語による言葉の表現ではなくなってしまう。
内なる自然と外なる自然の界面に、鏡面のように森羅万象を映している意識がある。
その意識の鏡面がかすかに曲率を持っているとき、
その裏と表、どちら側に視点があって森羅万象を映しているかで、
同じものが全く異なった見え方をする。そんな事がある。
そのひとつの視点からしか森羅万象が見えないのが普通。
本当に森羅万象は色々な見え方をする。
色々な結ぼれが身体を通ることが感応される。命は循環の織物と感得して生きる。
命自身が輝きを帯びて感応し、光を帯びることは現実にある。
循環の織物のただなかで、身をひらき、命が澄めば澄むほど響き、輝く。
どんぐりも、貝も。
人と人が純粋な贈与の中にあるときはさらに。お互いにおいて畏れとともに知る。
太古には共同体でその真実をみる力を担う人たちが居た。巫女とかシャーマンと言われて。
共同体の人々の身体も意識もその巫女たちと結ぼれ、連続感を保っていたので、
彼らの見て感じたことを自分たちの経験として受け入れられ、そこから命を律しえたのでしょう。
今はそういうあり方を喪った。
つくづく想う、人間て、変な生き物です。
どうすればいいんでしょうと想うけれど、とりあえずここにいる。
自分のうちから、何か命の真実味を知らせてくれる事から離れず、生きる。時にいいかげんに。
宮沢賢治のビジテリアン大祭、最初の修道士の食、彼は食べた事があるのか知らない。
しかし、彼は知っていた。生き、生きた命が、口で、歯で屠られる時の、身の響きを。