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(回答先: Re: 天然痘の神話 投稿者 寅蔵 日時 2003 年 10 月 19 日 12:02:47)
続けていうには、
「我々が確信している事実は、初回善感(最初の種痘によく反応した)あるいは水胞が発症した再接種善感の人の場合、どちらかが三年以内のことならば、患者と密接な接触をした後でさえも、天然痘に罹患するリスクは非常に小さい。しかし、時間が経過すればするほどなにが起こるかを予想することは、ますます困難になる」と。
また、彼は、自らも初回接種か再接種で善感になり、自分は終生免疫ができたと信じている医師たちの話を、次のように述べている。
「私はこのような幻想はもっていない。私は約十五回も再接種したことがある。そして善感が過剰で水胞ができ、それが後に小さな凹の跡になってしまった」と。
要するに、ディクソン氏の主張は次のようである。
「集団接種は、広域にわたる発症を引き起こす原因だということ。それは流行を抑えるのにほとんど役立たなかったということ。そして大規模な幼児への接種は、種痘の効果と天然痘の両方からの合併死亡率を、種痘を廃止した場合に予想されるよりも、はるかに高いものにしているということ」である。
今では、我々は、天然痘が地球上から追放されたといわれ、種痘が廃止されていることに感謝すべきである。また、効果的な薬による治療も今日役立つようになっていることもありがたい。そうして、そのために、天然痘対策としてワクチンを用いることをめぐる議論は、ただ純学問的なものになってきているのである。
しかし、我々は、狂気の考えにとらわれた歴史と、特殊な観点のみを支持する統計の判断から、多くのことを学ぶことができる。
まず、パスツール、コッホ、エールリッヒといった初期の医学研究者は、一大学派を創成した。
そこでは現代医学が、伝染病の自然史だけへの観点を選択し、そこから対策を決定づけた。
そのため、感染源の役割には集中と強調が注がれたけれども、人間に対しては関心が向けられなかったのだ。
コッホによって結核患者の体内の有機体が固定された時代には、ヨーロッパのほとんどの都市の住民がこの危険な細菌を体内にもっていたことは事実である。
その時代は、乏しい栄養と疲労と不衛生な生活状況が身体の感受性を高めており、そのために細菌が増殖し、柄気の発生を容易にしていたのである。
現代でも、ほとんどの人の腸内あるいは唾液などの排泄物の中に、さまざまな感染力をもつ痛原菌の存在を示すことはできる。けれど、なにか異常な出来事が起こって微生物が気づかれないままに活動を広げるのに適した条件が生じるまでは、病気の発生はないのだ。
ところが、なんとこうした状況下でも、新しい伝染病が出現した。エイズは、かつて流行した恐ろしい症状のどの病気より罹患者が数十倍も多く、アメリカとヨーロッパに感染が広がっているという。
この病気は、症状が明白になる前に、健康な身体に働くチエいクとコントロールの機能を変えてしまおうするのだ。そのメカニズムは変わっていて、普通の伝染病のように細菌なしには発病しないというのとは同じではない。たとえば、コレラは特定のコレラ菌なしでは発病しない。けれど、体内に微生物が存在していても、病気にはならない人たちがいる。それは感染症が起こる前には多くの要因が同時に働かなければならないし、しかも特定の細菌に対する免疫によってはさほど影響されないということがあるからなのだ。
その基礎的な要因になるのが心身の衛生、過密と栄養(清潔で手近な水を含めて)への注意であり、それらが身体の防衛力を高め、感染が起こっても十分対抗できるようにしてくれるのである。
つまり、免疫は、問題の表立った局面を処理するだけのものと考えられる。
そうしたことは、感染症が前世紀の最盛期にわたって減少してきたという事実によってもうかがわれ、この点でもやはり免疫は発病にほとんど関係がないと思われるわけである。
そこで、発病に大きな影響があって強調する必要があるのは、公衆衛生と栄養の改善だということになる。
ペッテンコーフェルのような勇敢な仕事師やロシアのメチニコフが無数の病原菌をなんの異常もなく飲みほすことができたのは、まさにそうしたためなのだ。そこで、世の両親は、こういう理由と接種に伴う耐え難い副反応があるという事実とを考え合わせて、子どもに予防接種を受けさせるようにという圧力に無条件に従う前に、ちょっと手を休めて熟慮すべきなのである。