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(回答先: 「イスラームの世界観とムスリム少数派」(1)[中田考] 投稿者 なるほど 日時 2003 年 12 月 13 日 18:33:11)
「イスラームの世界観とムスリム少数派」(2)
これとは反対に、それは人間の意思であるという流れがあります。われわれはそれを望むのである。人間というのはそういうものであって、そういうことを望んでいるのだ。それは人間の本性なのだという考え方です。これはとくに神をたてないわけです。これは歴史的にはホッブス、ロックというイギリスの社会契約論の思想家、それからルソーからフランス革命の人権宣言に至る流れです。この流れは神をとくに必要としないわけです。もちろんキリスト教が背景にはあるのですが、明示的にはそうではなくて、人間というものが価値の源泉であるという考え方です。
日本の憲法、人権の流れはこちらにあるわけです。といいますのは、日本の憲法はアメリカの占領下でつくられましたから、アメリカの大きな影響を受けています。しかし、日本はキリスト教の国ではありませんので、権利は神から与えられたというような言葉を入れる余地がないわけです。ですから、その部分は日本の憲法を読むと曖昧で何も書いてないのです。人権はありますと書いてございますが、なぜあるのかという根拠の部分が曖昧なままに残されています。要するに、超越的なそういう背景がないので、人間のこの世界で完結させるしかなく、そういう流れになるわけです。
要するに、人権の概念にはそういう歴史的な背景がありまして、日本はホッブス、ロックの流れを汲んでいます。なぜこういう話をしているのかというと、いちばん最初に申しあげたとおり私は思想史を勉強していますので、概念というのはどの概念にしても歴史的な制約を負っていると考えます。どの時代にも、どの民族にも、どの文化にも共通するものというのはないとはいいませんが、非常に少ないものであって、たいていの概念は歴史の制約を受けています。その意味で、人権という概念もあくまでも近現代のヨーロッパの文脈のなかで生まれた概念であって、けっして普遍的なものではなく、イスラーム世界にはまったく別のものがあるということをいいたいわけです。
それはイスラームに特殊な話ではないのです。私はイスラームには人権という思想が基本的にないと思っています。今のような前置きの話をせずに、そういうと、あっ、イスラームには人権がないのか、なんと野蛮な宗教か、そういう反応が返ってきたりしますので、今まで延々とお話をしたわけです。今いったような意味で私はイスラームには人権がないと思っています。それはイスラームだけではないわけです。
人権という概念は非常にヨーロッパ的なものですので、それ以外の文化圏にはもともと存在しません。いいのか悪いのかではないのです。それは人権がないというのではなくて、人権があるともないとも、そもそもそういう考え方が存在しないのです。それはイスラームだけではなくて、それ以前のキリスト教にもありませんし、ユダヤ教にもないし、仏教にも儒教にも道教にも存在しないのです。そういうものが存在しないのです。ただし、現代の日本語のなかには人権という言葉が入っていますし、世界観のなかに組み込まれているので、われわれが古典を読んでいくと当然それに似たものはあります。アラビア語の書物でも、現代の日本語に直すと人権と訳せるものがいくらでもあります。その対応物があるわけです。その話をいたしまして、似ている部分と違う部分、その両方のお話をしたいと思います。
次に、「疑似「人権」概念」に入ります。もともとイスラームには人権概念はありませんが、われわれからみて人権に近い概念はあります。それは何かということです。アラビア語が入ってきて申し訳ないのですが、「haqq Allah ala al-Ibad (ハック・アッラーフ・アラ・アルイバード)」、ハックという言葉は先ほどの文脈では真理であって、神の別名でしたが、ここではむしろ権利と訳したほうがわかりやすい言葉です。「ハック・アッラーフ」、アッラーフのハックであると。人間に対するアッラーフのハックだと。それは何かというと、多神崇拝をされないということです。他のものを並べて拝まない。これが神の人間に対するハックなのだと。これはクルアーンではありませんが、よく使われる言葉です。
それに対して逆に、人間のアッラーフに対するハックは何かというと、これは多数崇拝をしない限り懲罰を受けないということです。懲罰というのは、イスラームでは最後の審判があって、そのあとに楽園の報償を受けるか、火獄の懲罰を受けるか、どちらかに分かれるという考え方です。悪いことをしなければ罰されない。いちばん悪いことがイスラームでは多神崇拝になります。それが人間のハックなのである。こういう言い方になります。
もう少し法学的な話になりますと、「huquq Allah(フクーク・アッラーフ)」といいます。huquqはhaqqの複数形です。イスラーム法ではhuquqを二つに分けます。アッラーフのハックと人間のハックに分けます。イスラーム法というのは非常に包括的なもので、宗教的な戒律の、例えば礼拝をするとか、断食をするときには何時から何時までやるのか、どういうものが禁じられているのか、あるいは浄財を払うにはどういう条件があって、どういうものに対しては何パーセント払う義務があるのか、集めた浄財は誰に使うのか、あるいはメッカに巡礼に行くのに、いつからいつまで行って、どこではどういう儀礼を行って、どういうことがその間に許されていて、禁じられているか、そういう宗教の儀礼、戒律にあたるものと同じように、われわれのいうところの法律にあたるようなもの、例えば結婚の届けはどうすればいいのか、そもそも結婚できる相手は誰なのか、日本でも近親結婚はできないですね。結婚のできる相手、できない相手はとか、離婚をするときの手続きとか、離婚をして再婚をするまでの期間とか、離婚をした場合の慰謝料とか、離婚をしているときの扶養権とか、あるいは相続分、遺留分はいくらなのか、そういう家族法のような話や、商法の有効な契約の形態の話とか、あるいは訴訟法の、争いが起こったときにどういう形で訴訟を解決するのか、刑法にあたるもので、窃盗を行ったらどういう罰があるのか、それから国際法の、戦争を行うときのルールとか、休戦協定を結ぶルールとか、そういうものをすべて含んでいる法体系があるわけです。それを大別して二つに分けます。
それはアッラーフのハックあるいはフクークと呼ばれるものと、人間のハックあるいはフクークと呼ばれるものです。こう聞くと、アッラーフのハックあるいはフクークというのはきっと儀礼のことだろうと思われるかもしれませんが、そうではないのです。アッラーフのフクークというのは実はわれわれが刑法と訳す、そういうものです。
イスラーム刑法というのは刑が決まっているのです。窃盗、強盗、姦通、飲酒、誣告・中傷というのがありまして、イスラームでは姦通罪が非常に重い刑罰で、石打になります。ユダヤ教と同じで、新約聖書にも出てきますが、ユダヤ教の伝統で姦通を犯した者は石打で処刑されます。これは非常に重い刑ですが、これには条件がありまして、四人の証人を揃えないといけないのです。余談になりますが、姦通を犯したことを証言する人間が四人いないといけない。その四人の証言が全員一致しないといけないわけです。ですから誰と誰がどこで何時にどういう形で姦通を犯したということを四人の証人が別々に証言して全員の証言が一致しないと、今度は訴えた人間のほうが非常に重い鞭打ちの刑を受けます。そういう姦通誣告罪というのがもう一つあります。もう一つは背教罪です。これもまた死罪になります。この六つがイスラームの刑法の対象です。
では殺人はどうなのかというと、殺人はむしろ民事になるのです。殺人は基本的には遺族の権利になるのです。これは人間の権利のほうになるのです。その話は別にします。
要するに刑法の対象になるものがアッラーフの権利といわれるものです。民事の問題、契約関係とかそういったものが人間の権利になるわけです。というのは、イスラームにおける刑法の犯罪といわれるものは個々人の問題ではなくて、イスラーム共同体あるいはイスラーム国家の秩序を脅かす問題なのだ。そういう意味で、個々人が許したり、損害賠償を求めたりできるようなものではない。日本でも刑法はそうですね。罪を犯した人間を、直接の被害者でなくても訴えられるわけです。被害者がどうできるものではないわけです。それは被害者の権利ではなくて、国家の社会の秩序全体にかかわる問題であるということです。イスラームでも同じです。それがアッラーフの権利です。アッラーフの権利というのは、イスラーム国家全体の公益にかかわることです。
それに対して、「huquq adamiyyah(フクーク・アーダミーヤ)」というのは人間の権利であって、個々人の問題ですから許すこともできるわけです。契約をしたり、お金を貸して返ってこなかったら、本人が「まあ、いいや」といえば、それでおしまいです。国がからんできません。
殺人の話をしますと、イスラームでは殺人は基本的には民事の問題になります。人が殺されたときには遺族に権利があるのです。遺族は三つのことを選べます。一つは同害報復です。「目には目を」という非常に有名な言葉があります。旧約聖書にもありますし、その前は古代オリエントにもあるわけですが、同じ害を与える。命には命をということです。肉親を殺された場合は遺族が殺人の下手人に対して、これは故意の犯罪に限られて事故の場合は別ですが、まずその人間を殺す権利があります。これは遺族が殺すわけではないのです。遺族が殺すという決定をする権利があって、それを執行するのは国家というかカリフの権限になります。
まず遺族が同害報復で処刑をする。あるいは損害賠償を請求する。これも決まっていまして、人の命はだいたいラクダ100頭分なのです。ラクダ100頭といってもわれわれはいくらだかよくわかりません。ラクダの値段はラクダによって違うのですが、安いので30万円ぐらいです。ですから100頭ですと3,000万円です。高いラクダで、王族のレースのラクダだと日本の競馬の何々賞をとったようなもので何億円もするのですが、要するに何千万円というのが決まった額です。その賠償金をとる。あるいは許してもいいわけです。その三つあります。許すのがいちばん良いと言われています。
殺人というのは民事の部分でまず遺族の権利がありまして、遺族がその権利を行使するわけです。そのあとで今度は為政者が、法定権はないのですが、その人間を放置してもいいと思えばそれで終わります。その人間が非常に危険であって公益に反すると思えば、それは行政裁量で罰が下される。殺人はイスラームでは民事の部分と刑事の部分の両方あるわけです。最近の日本の法律制度はイスラーム化しつつあるような気がするのです。遺族の権利を少しずつ認めていくというか、遺族が裁判にかかわるような形になってきましたので、若干イスラーム的になってきているような気がしないでもないのですが。こういうものを権利ということで、ハックという言葉で表しているわけです。
これは人権あるいは権利の概念が西欧的なものに近いのではないかと思います。例えばここに挙げています奥田敦先生が編・訳されました『イスラームにおける人権』という本があります。これは市販されていなくて慶應大学から出ています。これは現在の高名なアラブのイスラーム学者の本を翻訳したものです。それには、イスラームには人権がある。イスラームが世界でいちばん初めに人権というものを規定した。そういう書き方がされています。このことはイスラーム世界ではよく言われることです。
(続く)
「イスラームの世界観とムスリム少数派」(2)
しかし、よく読んでいくと実はそうではないのです。といいますのは、この本で言われていることは、イスラームにおいては神の法があって、神が義務を課している。その義務の派生物というか、哲学の用語では反射という言葉を使うのですが、義務の反射としての権利ということです。人を殺してはいけないという義務がある。あるいは人を殺したときには殺されるか、あるいはお金を払うという義務がある。それは殺されたほうの遺族からは、その請求権という形で権利のようにみえるわけです。イスラームにおいては神の定めた義務がある。そのなかには人の命を守る、人の財産を守る、人の名誉を守る、そのことがイスラームでは義務として厳しく課されている。だから、それの反射として生命、財産、名誉を守られる権利がある。こういう言い方になります。
これはそのとおりなのですが、イスラームがいちばん最初でもなくて、そういうものは古代からどの文明にもあるわけですが、イスラームはそれがシステマチックにできている。その意味では早い時期に完成された形でできていると思いますが、世界最古というものではないのです。
ただし、この考え方は近代の人権の考え方とはまったく違います。というのは、近代の日本の憲法の前提となった人権概念というのは、神の定めや義務から派生するのではなくて、人間の権利というのが最初にあるわけです。人間の本来固有の奪うべからず権利があって、人間は自然権を行使して国家をつくって、その国家によって人間が義務を制定する、法を制定する。そういう論理形式をもっていますので、人権が義務に先行するわけです。
ですから、そういう意味で人権という言葉を使う場合には使わないと意味がないのであって、イスラームではまったくそうではないのです。イスラームにおいては、まず神の定めた義務がある、法がある、そこからわれわれがいうようなところの人権概念に似たものが出てくる。現象的には同じようなものが出てくるということです。
その意味ではイスラームには人権がないわけですが、イスラームだけではなくて、他の文明圏でもそうであって、むしろ法があって、あくまでも法の定めのなかで結果として人の権利が守られるというほうが、むしろ他の文明圏、キリスト教でもそうですし、私は詳しくありませんが儒教とか、中国文明圏、インド文明圏でもそうだと思います。もともとイスラームの法はそういうものと共通しているわけです。
(続く)
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