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沖縄・男子生徒リンチ殺人。長崎・幼児誘拐殺人。何とも後味の悪い事件が相次いだ。両事件には共通 項が実に多い。
第ーは被害者、加害者ともに未成年。それも中学生以下の、いわゆる「少年犯罪」のカテゴリーだ。特に長崎の場合など"補導"されたのは12歳だから、ほんの数カ月前までは小学生である。
2番目は殺害の方法がきわめて残忍であること。長崎の場合は全裸にしたうえに、立体駐車場ビルから投げ捨てている。沖縄では多人数で2時間以上にわたって木の棒や鉄パイプで殴打した。被害者の頭部はかなりの陥没があったとも言われている。ヤクザでもこれほどの殺し方はしない。彼らの場合、殺しが目的ならピストルでズドン。一発で終わりや。時間と道具は有効に使うのがヤクザの考え方」なのである。
この手の事件の常として、ワイドショーなどは、事件概要に一とおり触れたあと、加害者少年の家庭環境や学校での生活ぶりを報道する。だが、そんなもんはオバハン視聴者の興味は満たせても、問題の本質的な解決には何の役にも立たない。犯罪は社会を映す鏡であり、とりわけ少年犯罪にはその傾向が強い。
だとすれば、こうした犯罪が現在の社会の何を映しているかを考えねば意味がないのだ。俺の考えとしては、それは弱者がさらなる弱者を膚げる社会の反映である。戦後の日本は、企業や役人が、一般 個人という弱者から広く浅く富を吸い上げることで成り立ってきた。しかし、ここにきてそれも限界にきている。本来なら大きなパラダイムシフトが必要な時期なのであるが、政治家や役人にはその想像力に欠ける。ヤツらは年間4万人の自殺が出る現実を放置する一方で、社会保険料やたばこ税を引き上げた。
こうしたゆがんだ社会のありようが変質して一連の少年犯罪に投影されているのである。4歳というまったく抵抗できない幼児を殺すさまなど、まさにこうした社会そのものではないか。
犯罪は発展途上国型と成熟社会型という大きな2つの分類がある。食うため、生きるために物を盗んだり人を殺すのが、発展途上国型だ。これに対し、成熟社会型とは社会の行き詰まりから来る矛盾が原因の犯罪だ。当然、現在の少年犯罪は後者である。
つまり、今の時代、子供たちば将来に対するサクセスストーリーを描くことすらできないのだ。しかし、そんな現実を生きていかねぱならない。そこで何を考えるかといえば、他者と同質化することである。ガキのころから"護送船団方式"の社会にどっぷりつかっているといってもいいだろう。周囲の目を過剰に意識し、群れから排除されないことがすぺてに優先する。そのためには犯罪さえも辞さない。沖縄の事件がその典型である。すべては小さな組織内での保身。それが成熟社会型犯罪の傾向なのだ。
しかし、ここでより重要視すべきは、実は少年犯罪自体は減少傾向にあるという点で・ある。殺人などの凶悪犯罪に隈れば、現在は終戦直後の10分の1。世界的に見ても、最野蛮国のアメリカが日本の10倍なのは人口から換算して当然としても、オランダやスウェーデンに比べても半分以下だ。これは異常なことであり、欧米の学者の中には「日本はどうしてこれだけ犯罪が起こらないのかを研究すべきだ」という意見まであるという。
犯罪が少なくて何が悪いのか。不思議に思う読者もいるだろう。以前から当ページで言ってきたことではあるがそれどつまり、今の日本の若者は犯真も犯せないほどバフ一ダウンしており、それが結果 的に社会の停滞につながっているということなのである。
しかし、若者がこれほど腑抜けになってしまったことに は明快な理由がある。それは団塊の世代と呼ばれる一団があまりに元気がよすぎるからであろう何かにつけて「俺たちが若いころは・・」と昔を自慢されるのだから、下の世代はたまったもんではない。知らず知らずのうちにエネルギーを吸い取られて、社会全体が疲弊してしまったことは否めない。
極論すれば、少年犯罪も多いが社会に活力がある状態と、犯罪も少ないが社会も停滞するのとではどっちがいいかという問題となる。今回の2つの事件を擁護するつもりは毛頭ないが、俺の意見は断然、前者である。元ヤクザで、現在は画家の山本集氏が著書「浪商のヤマモトじゃ!」で書いていたが、昭和30年代の不良高校生は、喧嘩は自分と同等ないし、より強い者を打ち倒すことで精神的充足感を得ていたという。
現在は、まるで逆になった。犯罪の量は誠ったが、質としては明らかなレベルダウンをしている。しかも、昔の悪ガキの喧嘩は、いわば若気の至りから発生するものだから、1度徹底的に叩き直せば更生させることもできた。社会もそれを知っていたから、少年刑務所から出てきたところを引き取って面 倒見よう、という人間もいた。おかげで、若い時分は相当悪さをしたが、成人してから社会で活躍した、という人間は意外に多い。
ところが、今の犯罪ではそうした転換は、まずありえない。こんなヤツが社会にいたらマズいよね、と言いたくなるような犯罪者ばかりだ。しかも、社会にも彼らを許容し.更正させるパワーがない。こんなとんでもないガキが社会に出てきたら、俺たちがヤバい、と多くの大人がおびえているのが現実である。それゆえ"少年の更生"を基本とする現行少年法には無理がある。より厳罰を科すことが必要との意見が頻出するのもこうした現状からだ。
だが、俺は少年に限らず犯罪者を更生させることで犯罪を減らすことを目指すべきだと考える。少年法を改正する必要はない、という意見だ。だが、先にも記したように社会全体には犯罪少年を更生させるだけの懐の深さはもはやない。ではどうするか?何もする必要はない。
この構造が変わらないかぎり、少年犯罪はさらに陰湿な方向にエスカレートしていく。それはしかたないのだ。何か手を打って社会をよくしようと思っても無理、小手先での改善では、ますます管理社会化が進み、そこからはみ出す子供の犯罪は陰湿化する。行き着くところまで行かないかぎり、何も気づかないし、何も生まれない。悲しいかな、それが結論である。だが、いったん壌れて再生を始めた社会は相当にパワフルなものに変わる。俺たちにできることは、それまで長生きするくらいのことだな。
http://www.zorro-me.com/2003-07/ag030724.html