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(回答先: 相次ぐ少年犯罪 すべては「護送船団社会」に起因する キツネ目事件調書(アサヒ芸能7/24日号) 投稿者 エンセン 日時 2003 年 7 月 21 日 14:08:50)
まず、この駄文の構造を分析すると、以下のようです。
少年犯罪−−−一般の刑事事件も疑惑をもたれる特殊な事件も同一地平において論じる。
エンザイなどあり得ない。ただし彼が取り扱う「エンザイ」とは「極道」への警察の厳しい仕打ちについて警察の内情を暴くスタイルで、共鳴を呼ぶ構造である。
だから沖縄の中学生のリンチ殺人も酒鬼薔薇聖斗も今回の12歳の少年もはじめから同一のまな板に乗せられた「犯人」とされる。
キツネ目にとっては、はじめから少年犯罪の「犯人」が必要でそれは確信犯であると決めつけることが絶対条件だ。
キツネ目によると酒鬼薔薇聖斗は少年Aであると断定した上で「ほっといたれや」と、いかにもやさしい配慮をしてみせる。
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「酒鬼薔薇聖斗」をほっといたれや マスコミ諸君
http://www.asyura.com/0306/nihon5/msg/127.html
投稿者 宮崎学「キツネ目事件調書」 日時 2003 年 6 月 06 日 22:47:59:
「酒鬼薔薇聖斗」をほっといたれや マスコミ諸君
(アサヒ芸能5/1 8日号)
キツネ目事件調書
あの「酒鬼薔薇聖斗」が、一般社会に戻る。早ければ今秋にも、収容されている医療少年院から仮退院の予定だ。
これに対し世間は大騒ぎしておるようだが、ほっといてやれや、というのが俺の意見である。出ていいと言われたのなら、それでいいやろ。アサ芸でも前号にて「スーパー店員で社会復帰」という記事を掲載していたが、それが困るという輩はその店を利用しなけりやいいだけの話やで。
ムショから出た人間がまじめに体を動かして働くということに、何の異議があろうか。俺の周りにも学生運動でパクられて長いことムショ暮らしをした者は多い。彼らが社会復帰のリハビリとして選んだのが、やはり肉体労働。中でも土木作業は人気だ。肉体を酷使し、汗まみれになって金を稼ぐ。人間にとって基本とも言える経済活動を、身をもって体験できるのはこれをおいてなし、と言っても過言やない。
だからこそ、俺は「酒鬼薔薇」の労働者復帰をよしとする。だが、推奨するなら「飯場」や。
体力があり、よく働く者ほど多く稼ぐことができる。そこには建て前の平等が入る余地などみじんもない。それこそが大切なのだ。しかも、飯場の夜は、往々にしてチンチロリンなどの賭け事が行われる。勝ちと負けという、いわば人生の機微をも体験できるのである。これぞリハビリではないか。
問題視すべきは、ワイドショーに代表される報道のあり方や。彼の医療少年院での様子を事細かに報道することに躍起になっているのは周知のとおり。しかし、彼は「病気」であると判断されたうえで医療少年院に入った。とすれば、その病状や治療の様子を報道することは、紛れもなくプライバシーの侵害に当たる。 その大義名分として、メディアが用意したのは、被害者感情、情報公開などの実に耳触りのいい言葉だ。毎度ながら、よくもまあぬ けぬけと(笑)。すべては視聴率と売り上げの数字のためやろが。
俺はこうしたメディアの体質を否定はしない。新聞などは元来、裁判制度が確立したためにやりにくくなった「リンチ」を代行するために誕生した。寄ってたかってつるし上げるという行為は、むしろ自然な姿とすら思っている。
(以下略)
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「犯罪は社会を映す鏡であり、とりわけ少年犯罪にはその傾向が強い」−−−とはなにを根拠に言うのだろうか。次の段で述べている。
「俺の考えとしては、それは弱者がさらなる弱者を膚げる社会の反映である。戦後の日本は、企業や役人が、一般 個人という弱者から広く浅く富を吸い上げることで成り立ってきた。しかし、ここにきてそれも限界にきている。本来なら大きなパラダイムシフトが必要な時期なのであるが、政治家や役人にはその想像力に欠ける。ヤツらは年間4万人の自殺が出る現実を放置する一方で、社会保険料やたばこ税を引き上げた。
こうしたゆがんだ社会のありようが変質して一連の少年犯罪に投影されているのである。4歳というまったく抵抗できない幼児を殺すさまなど、まさにこうした社会そのものではないか。」
この文脈からは一般論から、特殊な事件を裁断している。一つ一つの事件の特殊性はいっさいほっかむりだ。
「弱者がさらなる弱者を膚げる社会の反映である」とは一般論としては、政府支配階級のもと、被支配階級たる労働者階級(官僚も含む)という「弱者」が序列をもった階層構造の中で論じられているのだろう。これはまた一般的な「いじめによる殺人」もエンザイの疑いのある特殊な事件も弱者内部の権力闘争にしか写らない。
しかも特殊な現実に対して一般論を対置する方法は、特殊現実における特殊な事象など全く論究することができない。従って観念論であり、一般論であるがために、目の前の現実を現実として捕らえられない。キツネ目は常に一般論からものを言っているようだ。犯罪について総論的に述べているのかなと思って読んでみるとそうでもない。
毒舌がどのていど要領を得ているか検証してみても、行き着く先は居パン論であり観念的である。
この手の認識方法は、どこかの手合いがとっているなあ、とつくづく感じる。
ずるいキツネがずるいキツネであるゆえんがここに見てとれる。
一方で警察を肉体的な反発丸出しで論難したか(受けがいいので自分の利益だ)と思うと、警察がらみの事件や冤罪については己の不利益になることは口をつぐむ。
彼にとっては神戸少年事件も長崎の駿くん誘拐殺人事件も、一般論からも背景や原因を考慮することは除外している。もちろん冤罪だという主張にはことごとく無関心を装って。少年犯罪という一般論の中に入れ込まなければならない理由がここにある。
彼のおそれる言葉、それは「コーアンコーアン・・・コーチョーコーチョー」と怒濤のごとく呪文のごとく世間から浴びせかけられるキツネ狩りの合い言葉。
だからキツネ目、こいつも怪しいのだ。
それはなぜか、彼がこういう駄文をものすことによって権力犯罪を許す立場を押し出しているからだ。
結構露骨に権力の意志を表している。