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(回答先: シティバンクとチェース・マンハッタン銀行 投稿者 エンセン 日時 2003 年 8 月 18 日 22:45:50)
現在のアメリカに動く資産の大部分は、昔の大財閥から生まれ、政権とCIAの人脈も同じ大財閥に育てられた。これら当主は、大部分が第一線のビジネスマンから退き、遺産相続人として巨大な資産を有する投資家に変貌している事実を見てきた。
ところがこの広大な地球上に、たったひとつだけ、一族の直系相続人が多数、第一線のトップ・ビジネスマンとして活動を続ける大財閥ファミリーがある。それはアメリカに生まれた一族ではなく、ヨーロッパに誕生し、全世界の金融、石油、情報機関、原子力、軍事、政治、食品、メディアを支配するロスチャイルド家である。ナポレオンの時代から活躍してきた一族が、20世紀末のコンピューター時代にも現役で活動している姿には、驚くべきものがある。その役職や邸宅の一部を記すと以下の通りである。
◇イギリス家当主 ジェイコブ・ロスチャイルド男爵
1936年生まれ。80年以後のファイブ・アローズ証券会長。J・ロスチャイルド・ホールディングス社長。ロスチャイルド投資信託(RIT)キャピタル・パートナーズ会長として、ジョージ・ソロスらの金価格操作やヨーロッパ各国の企業買収、CIAレポートなどに暗躍。
◇アムシェル・ロスチャイルド〔ジェイコブの異母弟〕
1955年生まれ。世界一の酒造業者ギネス家の令嬢アニタ・ギネスと結婚し、ロンドン・ロスチャイルド銀行の資産運用会社ロスチャイルド・アセット・マネージメント会長として、世界貿易の背後で大掛かりな投資活動を展開していたが、96年7月8日に謎の自殺を遂げた。
◇エマ・ロスチャイルド〔ジェイコブの妹〕
1948年生まれ。ストックホルムのオロフ・パルメ記念財団理事。
◇エドマンド・ロスチャイルド〔ジェイコブの父ヴィクターの再従弟〕
1916年生まれ。ロンドン・ロスチャイルド銀行会長(70〜75年)、重役(75年以後)として中心的に活動。タバコ会社のダンヒルとロスマンズのほか、アライアンス保険の重役をつとめ、ウラン・カルテルを形成したカナダ開発の中核として、ブリンコ副社長、ファイブ・アローズ証券の重役を歴任。イギリスのサウザンプトン近くにエドマンドの父ライオネル・ロスチャイルドが1919年に土地を買って22年かけて巨大な造園工事をおこない、エクスベリー・ガーデンと呼ばれる夢のような庭園をつくる。ライオネルは「趣味で銀行家をやっているが、本業は庭師だ」と語ったが、ヨーロッパ全土の力を集めても庭師の資産に勝てなかった。以来そこに、代々一族が受け継いできた邸宅エクスベリー・ハウスがあり、敷地が10万坪の広大な田園に、しばしばエリザベス女王も訪れる。森と湖ばかりか狩猟、乗馬、何でもできる天国。ここに10の館が聳えて、みな一族が住む。エドマンドの娘シャーロットは1955年生まれで、自称オペラ歌手だが、歌声はともかく、体格と資金は5代前の金融王として全ヨーロッパを支配したネイサン・ロスチャイルドそのままの女性。
◇レオポルド・ロスチャイルド〔エドマンドの弟〕
1927年生まれ。ロンドン・ロスチャイルド銀行重役、サン・アライランス保険重役のほか、70〜83年にイングランド銀行理事を歴任して、サッチャー首相の経済政策について事実上の支配者となる。
◇イヴリン・ロスチャイルド〔エドマンドの従弟〕
1931年生まれ。99年現在ロンドン・ロスチャイルド銀行会長として、毎朝、全世界の金価格を決定。ニューコート・セキュリティーズ社長、デビアス重役、ファイブ・アローズ証券重役、パリ・ロスチャイルド銀行重役、金塊業者ジョンソン・マッセイ大株主、経済紙エコノミスト♂長など、数多の金融機関と企業幹部を兼務。82年3月1日の国籍をスイスに移し、以後しばしばチューリッヒのロスチャイルド銀行が関与したと噂されるインサイダー取引き事件で疑惑が浮上。
◇フランス家当主 ギイ・ロスチャイルド男爵
1909年生まれ。戦時中はドゴールの密使をつとめたが、49年に父の死後パリ・ロスチャイルド銀行の資本金の半分を握って頭取就任。ニューヨーク・ロスチャイルド証券会長、メリル・リンチの中核細胞となったニューコート証券社長、日本に進出したファイヴ・アローズ証券会長、リオ・チント・ジンク重役を歴任して全世界のウラン・カルテルの頂点に立つ。フェリエールにある歴代の邸宅はギイの手で大改装され、敷地は地平線の彼方まで広がる領地で、農民600人が住む。18世紀ロココ調の邸内はクリスタル・ガラスと黄金の格子細工のシャンデリアのほか、至る所に宝石がちりばめられ、浴室の蛇口は純銀、金の象眼細工、ゴブラン織、鼈甲細工など財宝の山に囲まれる。
ギイの2人目の妻マリーエレーヌは、直系のロスチャイルド一族。彼女の祖母エレーヌ・ロスチャイルドは、あり余る資金を使って、オランダで最も有名なデ・ハール城をユトレヒト郊外に再建した。14世紀の古城を復元するその工事は1892年から1912年まで20年の歳月を費やし、アムステルダム中央駅や国立博物館を設計したオランダ随一の建築家ペトルス・コイペルスが指揮するなか、数百人の芸術家と職人が従事した。内部は建築というよりルイ王朝風の芸術品の宝庫で、絢爛豪華な大ホールの彫刻、柱と壁の文様、調度品、ステンドグラスなどに圧倒される。邸内の敷地には厩舎から教会、バラ園、乗馬コース、テニス・コート、レストランのほか、鹿が走り回り、運河まであるひとつの村。城内には発電機もあり、ギイの義弟にあたるハーヴァード大学出の現代当主ティエリーがそこに住む。
◇ダヴィッド・ロスチャイルド〔ギイの息子〕
1942年生まれ。92年以来ロンドン・ロスチャイルド銀行副会長。ロスチャイルド・ヨーロッパ社長、ロスチャイルド・カナダ会長、ジュネーヴのバンジャマン&エドモン・ロスチャイルド・ホールディング顧問など兼務。
◇バンジャマン・ロスチャイルド〔ギイの再従弟エドモンの息子〕
1963年生まれ。父エドモン・ロスチャイルドは、1926年生まれで97年に死去したが、パリ・ロスチャイルド家の数えきれぬ遺産を受け継ぎ、ナポレオン三世が愛人のために建てたパリのシャンゼリゼの大邸宅に住み、ミュージック・ホールのダンサーだった妻ナディーヌはしばしば来日して有名。デビアス重役のほか、ロスチャイルド財閥の持ち株会社である北部会社、世界一の観光会社である地中海クラブ、イスラエル・ジェネラル銀行、フランスのスーパーなど数多くの大会社で重役を兼ね、フランスの長者番付の常連だった。スイスのレマン湖のほとりにシャトーがあり、邸内はレンブラント、ゴヤ、ルーベンス、チェリーニなど美術品の宝庫で、フランスにも城のような邸宅があった。エドモン死後、息子のバンジャマンがこれら一切を相続し、デビアスの支配権も握る。ジュネーヴのバンジャマン&エドモン・ロスチャイルド銀行会長のほか、チューリッヒのロスチャイルド銀行重役をつとめる。
つまり彼らは、世界金融の総本山を成す財閥≠ナあって、シャトーに住んで150年前のワインをたしなむ男爵家の富豪≠ナあり、同時に、200年間も第一線のビジネスマン、ビジネスウーマン≠ニして驚異的な活動を続けてきた。ウォーバーグのようなユダヤ系の大金融業者でさえ、「ロスチャイルド家と共に事業をできることは生涯の夢であり、それが叶った時には狂喜したものだ」と述懐している。
金融帝国を築いた初代マイヤー・アムシェルの誕生250年を記念して、1994年2月23日、フランクフルトの墓地に一族70人ほどが集まり、一族の繁栄を祝した。
フランス革命直後の1790年代に、マイヤーがすでに豪商として財を成した時期から数えれば、200年の歳月が過ぎ去った。ヴァンダービルト財閥の2倍近い歳月が経ったことになり、この期間の投資と金利を計算すると、ウォール街の50年間の実績をあてはめただけで、当時の資産は現在までに600万倍に増大している。しかし金融界の胴元だった一家が、庶民と同じような利益率のコースを歩んだはずはなく、優に1億倍を超えているはずである。
ネイサン・ロスチャイルドは、1810年にロンドン証券取引所で金融王ベアリングと覇を争ってトップに立ち、以来数年間、イギリスがヨーロッパ同盟諸国に提供した4200万ポンドの資金の半分を彼が調達するまでに強大な権力者となった。同時期の1812年には、末弟ジェームズがパリに定住し、父マイヤー・アムシェルが68歳で死去した。この時、財閥の始祖と仰がれた彼が、「わが家の資産は一切公表しないこと」という遺訓を残したため、今日まで一家の資産がミステリーに包まれることになったのである。
敗戦国フランスがイギリス同盟国に支払う賠償金の総額は7億フランに達し、1817〜18年にこの支払いを公債として引き受けたのがジェームズ・ロスチャイルドで、彼は売却して得た金をヘッジファンドと同様に投機家の貸付けに流用しながら、年間50パーセントの利息をかせいだ。
1820年代に入ると、ほとんどの大国の大蔵大臣がロスチャイルド5人兄弟に買収され、公債を発行して国が借金をつくっては、その2倍近い金をロスチャイルド商会に支払う取引きが横行した。2倍とは、利回り200パーセントである。
相争うイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアの5ヶ国の対立構造のあいだを巧みに泳ぎ回り、プラスとマイナスの両者に投資して、必ずトータルでプラスにするという今日のヘッジファンドの手法で、利益を一手に独占したのである。1822年には、5人兄弟がハプスブルグ家のオーストリア皇帝から男爵位を授与され、当時のヨーロッパ諸国のすべてがロスチャイルド商会をあてにするようになり、ヨーロッパ全土の王室がロスチャイルド家に金を無心した。
こうした状況から、当時の資産は天文学的だったことが分る。5つのロスチャイルド商会の資産総額は1815年の333万フランが、3年後には4200万フランとなり、10年後には1億1840万フランにふくれあがった。この額は自己資本だけの控えめな計算で、実際は1億6500万フランを超えていた。
このうちパリ・ロスチャイルド商会の推定資産3700万フランという金額は、とてつもなく大きかった。パリ第二位のラフィット銀行がようやく700万フラン、ヨーロッパの王者ナポレオンが設立した発券銀行であるフランス銀行でさえ資金6000万フランの時代だから、ロスチャイルド商会の総資産を1億6500万フランとすれば、フランス銀行三つ分近くの資金を持っていたことになる。
1830年にフランス7月革命でブルボン家が追放され、ネイサン・ロスチャイルドは1836年7月に58歳で死亡したが、フランクフルト・ロスチャイルド商会がアメリカに代表者としてオーガスト・ベルモントを派遣したのはその翌年のことで、彼がペリー提督の娘と結婚、その息子が元ヴァンダービルト夫人と結婚した。ネイサンの息子ライオネルの時代に、ロンドン・ロスチャイルド商会は18ヶ国の債券16億ポンドを取り扱ったが、1998年時価ほぼ10兆円にも達する金額であった。彼らはロシアに君臨した女帝エカテリーナ二世の後継者であるアレクサンドルと皇帝二コライの財政も支配し、パリの末弟ジェームズはフランスの8大鉄道で12の重役ポストを占めて鉄道王となり、彼が1868年に死去した時の遺産は6億フラン以上、ないし4400万ポンドだったとされる。6億フランは、フランス国内の他のすべての金融業者の資産総額より1億5000万フラン多いと推定されているが、当時の純金に換算して174トンになる。4400万ポンドであればさらに多く、純金322トンになるが、当時の純金の価値は今日とは比較にならないものだったので、20世紀末のアメリカ中央銀行の保有金をはるかに超える価値の財産を個人が所有していたとは、信じられない事実である。
ロスチャイルド商会は、オーガスト・ベルモントの活躍でアメリカに広大な利権を広げ、ロンドン一族も国際的な事業に乗り出したが、1875年エジプトがスエズ運河の株を売りに出そうとしているのを知ったイギリスは、フランスに先手をうって急いで購入しようとしたが、イングランド銀行から金を出すには国会の承認が必要であった。ディズレリ首相はニューコートのライオネル・ロスチャイルドのもとに急使を飛ばし、「明日までに400万ポンドを貸してください」と頼んだ。ライオネルが「担保は」と尋ねると、「イギリス政府です」と使いが答えたので、「結構です」と言って、たちまちポンと400万ポンドを揃えて17万6000株を購入し、イギリスがスエズ運河の最大株主となった。
この伝説で重要なのは、ライオネルがこともなげに大金を貸したことではなく、400万ポンドの金額にある。大英帝国の歴史上、最大の富豪は、いまだ健在のヴィクトリア女王だったが、女帝の資産は最大でも500万ポンドと推定されていた。
これに対して、19世紀の100年間でロスチャイルド一族が得た富は、4億ポンド超えると推定されているのだ。ロスチャイルド家は、全員がヴィクトリア女王の何倍かを所有していたのである。4億ポンドは800億円になる。それから100年間の利回りで、黙っていても200兆円に増大していることは確実になる。時価の変化をまったく無視しても、である。
ひとつの事件が、1949年6月30日のパリ証券取引所に起こった。その日、何の理由もなく、リオ・チント・ジンク、ロイヤル・ダッチ・シェル、ル・ニッケル、デビアスという4大銘柄が、一斉に大暴落した。原因はギイ・ロスチャイルドの父エドゥアールが81歳で死去したことにあった。パリ・ロスチャイルド銀行の主だったエドゥアールとはいえ、この高齢で実業に関与しているはずもなく、無関係なはずだったが、彼の死去と株価は遺産相続人にとって重大な関係を持っていた。遺産にかかる相続税のうち、エドゥアールが保有していた株への課税は、死亡時の証券の時価によって算定されるからであった。4大銘柄はロスチャイルド株であり、一族が持ち株の価値を暴落させることによって、遺産相続にかかる税金が大幅に抑えられたのである。翌日には、一族が買い戻して株価はたちまち回復した。
以後、ロスチャイルド一族は現在の世代に継承され、さらに新しい屋敷と別荘を次々と建設してきた。1901年に閉鎖されたフランクフルト・ロスチャイルド銀行は、1989年ほぼ90年ぶりにオープンし、かつてのロスチャイルド邸の敷地に隣接して、ヨーロッパ中央銀行が建ち、99年1月1日に統一通貨ユーロ誕生の日を迎えたのである。