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(回答先: Re:レス1〜6:あっしらさんへ⇒過ぎ越しの祝い方 投稿者 如往 日時 2003 年 8 月 11 日 22:14:12)
> 馬場英治さん、はじめまして、横レスで失礼します。
こちらこそ,よろしく.
如往さんのHNはなんとお読みしたらいいんでしょう?由来とかお聞かせいただければ...
> 「共同的資本主義」の提起と関連する論考に注目しています。経済学が素人の私も、主にあっしら氏の過去スレッドを参照することによって、馬場氏が提示されている「共同的資本主義」を総論的には大方で捉えることができたのではと思っていますが、各論ではまだまだ不理解な部分を多く残していると自覚しています。
総論的にはきわめて単純明快なものではないかと思います.各論が複雑な方向に進んで
ゆくのは(あらゆる理論の)避け難い宿命ですね.
> ところが、図らずも氏の趣旨に反して政体論に接近しつつもあり、それに便乗させていただこうと、勝手と感じながら想いつくままに感想と質問を呈示させていただきますが、可能な限りで結構ですので回答をいただけますならば、幸甚の至りです。
本論自体はほとんど線画の塗り絵みたいなもので,どのように色付けすることも可能です.
極端な場合には,「彼ら」が直接採用するなんてことすら有り得ます.
> >ps:この小話から連想されることは,もし,一国的に共同的資本主義を実現しようとするなら,それはほとんど出エジプトの困難を国民に求めるものになるだろうということです.私たちはその前にまず私たちのモーゼを見つけなくてはならないのでしょうか?
>
> 『各自が内なるモーゼに目覚めるべき』と、瞬時に応答している自分がありました。少なくなくとも馬場氏ご自身は、我々日本人や人類が予定調和的に過ぎ越しの祝いのときを迎えることができるなどとは考えてはおられないでしょう。
「内なるモーゼ」という言葉には喚起力がありますね.「乳と蜜の流れる地」を国民(くにたみ)
は切に希求しています.共同的資本主義は(理論的には)ほとんど犠牲者ゼロの制度改革
で達成可能な目標ですが,この論稿が書かれた背景には国内的には十年不況,対外的には
イラクレイプ戦争に典型的に示されたアメリカ軍事帝国の完成があります.ここにはもちろん
イスラエル・パレスチナ問題があり,(北朝鮮の核開発などもその一環として)それを導火線に
第3次世界大戦を「引き起こそうとする」勢力が存在するという認識があります.もし我々が真
にこの危機を越えることができるときが来るとすれば,その祝賀を「過ぎ越し」と呼ぶのはまっ
たく適切であるだろうと思います.
> たとえ「共同的資本主義」が包括的・普遍的な施策・理念たり得ても、どこの政府が可視的な利害関係の調整を他所にそのようなスキームを施行しようとするでしょうか。また、どこの国が本気で宗教や民族性を超えて他国と連繋しそのようなグランド・デザインを描こうとするでしょうか。
共同的資本主義論でまったく触れられていないサブテーマに軍事(戦争)経済の問題があります.
国民経済的に考えれば,攻撃用兵器は消費財であり,自衛的兵器は資産であると考えられます
が,自衛兵器も本質的に攻撃的性格を持っています(転用可能というよりほとんど区分できない).
もし,国家を廃絶しない限り戦争を防止することができないというのなら,共同的資本主義論は
全面的に書き換えられなくてはなりません.(まだそこまでは展開できません.)
> 政府や国家の変容を待つまでもなくモーゼに託された組織論を覚醒せる個が自ら援用することにおいて、「共同的資本主義」は各個的に現実化していくことになると推察し、それこそが人類自らが勝ち取るべき平安なる過ぎ越しの祝いをもたらすと展望しています。
あっしらさんの「微温主義」にも通じるかと思いますが,各個人が「共同的資本主義」のイメージ
を持つことは現実的な力になると思います.
> >あっしらさんは同時に,この提起を実現するためには,「経済活動の起動因」つまり,価値観の転換が必要であることを指摘されました.私もそのことを原則的に認めます.
>
> では、どのような価値観への転換を想定されているのでしょうか。私などは氏の投稿の初出から「共同的資本主義」は「リバタリアン社会主義」の経済政策と殆ど同じベクトルにあるのではないかと捉え、マルチテュードがアナキズム化されたクラスターこそ、そのDriving forceとなり得るとの想念を膨らましていました。
あっしらさんは利潤追求からより共同的な利益の追求に転換する必要があると説かれています.
リバタリアン社会主義の経済政策がどのようなものか詳らかにしませんが,共同的資本主義は,
アナルコ・キャピタリズムから民主社会主義までをスペクトラムに含み得ると思います.
> 今後は、「共同的資本主義」を可能にする政体は何かということについても論及していただければ、さらにenlighteningなものになるでありましょう。さもなければ一部のディレッタントを満足させるに終わるかも知れませんし、それには惜しい論考であると思います。
私の中にはまだ具体的なイメージはありませんが,それは世俗的政権であると同時にかなりの
水準で倫理的な正統性を要求されるのではないか?と漠然と考えています.この正統性は内国
的なものであると同時に(あるいはむしろ)対外的なものであると思われます.(あえて飛躍を許し
て頂くとすれば,この「対外的」には言外に「地球外」という意味をも含みます.)
> 近代経済システムの中で金利圧力が市場経済を活性化させる駆動力となって経済成長を助長して来たという神話を簡単には払拭できないでいる点では、私も決して楽観論者ではありません。またそれ故に、運命を自ら選び取ることと同義である変革のためのDriving forceを中にも外にも見定めるまでには、かなり慎重な態度をとらざるを得ない状況にあります。
銀行がすでに国民経済に対し桎梏でしかない,あるいは,すでに銀行無しで経済運営が可能に
なっているというのは客観的な情勢です.もちろんその方向に進むためにはそれだけのDriving
force が存在しなくてはなりませんが.
> しかしながら、被支配層が支配層を支えているという構図があるのにも拘わらず、間接的・直接的は問わず現実には支配層による支配の仕掛けやネット・ワークは強化されつつあり、被支配層の生存ゲームの領域が狭まっている現況があります。だからこそ、「共同的資本主義」や「微温主義」は被支配層が失地回復(奴隷状態からの解放)していくためにも、課題とすべき喫緊な問題であると認識しています。そして、支配層サイドに操られることのない「共同的資本主義」社会の実現化のためには、価値転換は固より同時並行的に市民の政治性を飛躍的に高めていく必要があるでしょうし、50年先、100年先の未来像を描いてそこに向うことが根幹の要諦であると考えています。
一時期(60年代からおよそ田中角栄が失脚するまで)日本がアメリカの重力圏外に脱出しかかる
という時期があったと思います.角栄はラジカルな学生運動に対しかなり寛容であったと言われま
すが,70年代のラジカリズムと現在の国民的な窮乏が合体していれば,歴史はかなり易々と転回
していた可能性があります.そうならないところが歴史の皮肉であるのかもしれませんが,聖書に
も「石を投げるに時があり,石を集めるに時があり,抱くに時があり,抱くことをやめるに時があり...
黙るに時があり,語るに時があり」【伝道の書】とあります.
> 以上、実に大雑把な投げ掛けで恐縮ですが、座興半ばと心得られての回答を歓迎いたします。
お楽しみ頂けたかどうか?心もとないところですが...
英治