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(回答先: “指揮者のいないオーケストラ”&“場と共創” 投稿者 マルハナバチ 日時 2003 年 8 月 09 日 11:12:35)
マルハナバチさん興味深い投稿ありがとうございました。
投稿を拝見し、個人的に触発されるところがありましたので、少し書きたいと思います。
オーケストラは軍隊と同型であり、オルフェウスの試みは資本主義を強化する
ミシェル・フーコーはその精緻な歴史研究と深い考察により、近代西洋における監獄と軍隊と病院と学校が同根・同型であることを指摘しました。私はオーケストラの形式はまさに軍隊と同型であると指摘したいと思います。理由は以下の通りです。
(1) 軍隊は指揮官を必要とし、オーケストラは指揮者を必要とします。
(2)軍隊は明確なヒエラルキーを有する組織です。オーケストラも明確なヒエラルキーを有しています。また、西洋クラシック音楽の世界も明確なヒエラルキーが存在します。ヒエラルキーには必ず排除という暗部がつきまといます。
(3)両者に共通するのは徹底した組織への自己同化です。その形式的証明として制服が要請されます。軍隊は制服を規則として定めています。規則として明示されているかは定かではありませんが、オーケストラも「制服」を着てコンサートに臨みます。
(4)軍隊もオーケストラも、組織の目的を達成するために各個人が組織の部品として機能するよう徹底的な訓練を施します。
(5)軍隊の背後には軍需産業が控え、オーケストラの背後には音楽教育を含めた音楽産業が控えています。
このように軍隊とオーケストラの共通点を挙げると、次に問題にしなくてはならないのは、人間抑圧装置としての軍隊とオーケストラであり、さらに突き詰めればテクストが支配する西洋クラシック音楽の問題にまでたどり着きます。
ダ・ヴィンチのモナリザを古典として、これを解釈して再び「モナリザ」を描いても模倣と言われるだけです。しかし、モーツアルトを解釈してオーケストラで演奏しても決して模倣と言われることはありません。人類の音楽史を鳥瞰すればテクストが支配する西洋クラシック音楽の形態は異様と言えるべきものです。この異様な音楽形態が、世界の多くの民族音楽を抑圧していることに私たちは注意すべきかと考えます。
オルフェウス室内管弦楽団の試みは画期的なものですが、上の私の比較では、(1)指揮者の排除と(2)ヒエラルキーの排除です。オルフェウス自体が西洋音楽世界という大きなヒエラルキーに留まっていることに変わりはありません。
オルフェウスが(3)の帰属証明としての制服を排除しているかどうかは定かではありません。しかし、オーケストラが制服を排除すれば、もはやオーケストラと言う形態の存在自体が問われる事態になるものと思われます。
(4)の組織の部品問題に関して、オルフェウスの試みは、自由度をもてるよう部品の性能をさらに高める試みであり、部品であることには変わりないと考えられます。
(5)オルフェウスの試みは、西洋音楽産業をさらに発展させるものであり、西洋音楽産業による世界の民族音楽抑圧をさらに強化するものと思われます。
マルハナバチさんが提供してくれた資料では、オルフェウスがテクストの支配からの脱却を試みているかどうかは定かではありませんが、この点に注目したいと思います。
オルフェウスの試みは企業にも注目されているようですが、もしこの組織形態が多くの企業に採用されて成功を収めれば、資本主義はさらに強化されるのではないかと考えられます。
音楽の本質とは何か。新しい組織論によって達成された「質の高い演奏」は、決してその本質を語りえないのではないか思われます。特に、世界の民族音楽によって魂を激しくゆすられた者にとっては。