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九月下旬におこなわれる自民党総裁選で再選された場合、小泉首相は内閣改造をおこなうという。
非主流派が内閣改造にあたって経済政策の転換をもとめるのは必至だが、小泉は「竹中だけは変えない」とこれを一蹴、竹中とともに日本経済を"縮小"させる構造改革を推し進める構えだ。
日本は小泉・竹中とともに「滅びの道」へまっしぐらか‥
改革のためなら国は滅びていい?
01年4月の小泉内閣発足以降、日本は意味不明のふしぎなことばに幻惑されつづけている。
小泉首相の「改革なくして景気回復なし」というワンパターンの迷セリフに日本の政・官・財ばかりかマスコミまで毒気が抜かれているのだ。
小泉は「政治や経済をオープンに――わかりやすくした」というひとがいるが、わたしはけっしてそうは思わない。
小泉のことばを聞くほどにかれが何をしようとしているのか、日本をどこへみちびこうとしているのか、私はますますわからなくなっている。
ところが、だれもこの不思議なセリフの前で沈黙する。
反論しようにも拍手を送ろうにも、意味内容が不明なのでキツネにつままれたようにおし黙ってしまうわけだ。
ことあるごとにくり返される小泉のセリフをだれも批判することができないのは、そこに"改革"というキーワードが入っているからである。
これを批判すればたちまち抵抗勢力、守旧派というレッテルが貼られる。
改革という言葉には、そういう問答無用なインパクトがある。
民主主義を批判するとマスコミから右翼反動というレッテルが貼られるようなものだが、小泉改革を批判すれば政治生命を失いかねないのが現在の"改革神話"なのである。
官僚体制へ丸投げのどこが構造改革なのか
だが、小泉がいう改革なるものがいったい何をさしているのかだれも知らない。
おそらく本人もわかっていないのではないか。
大声で「カイカク」と叫んでいればだれもが恐縮して後退る。
小泉にとって改革は"葵の御紋"のようなものである。
かつてしばしば「改革」が政治のスローガンに掲げられた。
だがそのどれもが有名無実に終わった。
行政改革はかえって"官主民従"をおしすすめ、政治改革は、結局、選挙改革でしかなかった。
司法制度にいたってはますます裁判を国民にわかりにくくしただけだった。
小泉のいう改革とはいったい何をさすのか。
構造というからには旧来のシステムを改革しようというのであろうが、小泉が何かの、どこかのシステムを劇的に変えたという話はついぞ聞かない。
省庁再編や特殊法人の解体に一定の成果があったというが、よくみると名称を変えただけの員数合わせでほとんど"焼け太り"である。
国民が望んでいるシステムの変更は"官主民従"の打破だったはずが、小泉はなんでもかんでも「官僚機構」別の縦割り委員会に丸投げして涼しい顔だ。
これでは十年前の官僚ペースに逆戻りしないわけはない。
道路問題や郵政三事業、地方分権、外務省改革などといくつも委員会ができたが、すべて官僚機構別のため議論は停滞する。
小泉は「改革なくして前進なし」と叫ぶだけとあって、あとは役人がテキトーに最終答申をまとめるだけである。
もっとも悲劇的だったのは税制改革だろう。
政府税調と自民党税調の対立構造に財政諮問会議がくわわる"三つ巴"で収拾がつかなくなっているが、小泉がいったのは「包括的抜本的税制改革を望む」だけだったという。
現実派の亀井より"口だけ男"の小泉に人気
国民の代表として何をどうするというグランドプランをあたえるのが政治家だが、小泉は"改革"ということばをまぶしただけの意味不明のことばを発するだけ。
あとは「事務方で任せる」というのだからまるっきり丸投げ政治である。
これでは官主政従が強まり、構造改革どころの話ではなかろう。
たとえば亀井静香は税制について「資本主義というより"地本主義"の性格が強いわが国ではとりわけ土地の有効活用を促す土地税制の抜本的な処置が景気回復のきめてになる」としたうえで具体的に
「証券税制については緊急経済政策の実行にくわえ、個人投資家の株式譲渡益課税の凍結」
「土地譲渡課税は三年間の凍結」
「生前贈与を五百万円までに拡大」
「相続税について無利子国債を導入する」ときわめて具体的にプランを描き出す。
政治家が国家再生のグランドプランを描き、事務方やテクノクラートがそれを実現化するのが本来あるべき姿だが、小泉には政治家としてのその基本的スタイルをもちあわせていない。
わたしは、小泉は天性の詐欺師ではないかと疑っている。
それも女をたぶらかす"結婚詐欺師"のたぐいである。
ハンサム男が「キミを幸せにする」などとキマリ文句を吐きながらズルズルと時間を稼ぎ、相手が気がついたときはすでに破産という破局が待っている。
そうでなければ一国の首相たる者が意味不明、曖昧模糊として「改革」という殺し文句だけで高い支持率をいつまでも維持できるはずはない。
構造改革とは対米従属主義
今日の"改革ブーム"はそもそも九十年の「日米構造協議」が端緒をひらいたものだ。
八五年の<プラザ合意>以降、年間500億ドルの米国の対日赤字がいっこうに減らなかったため、八九年の日米首脳会議で当時のブッシュ首相が、十年間で公共投資を480兆円に拡大させたのをはじめ、大店法の規制緩和、市場の閉鎖性の改善、内外価格格差の是正などをもとめ、日米構造協議においてはついに「談合」がやり玉にあげられた。
改革が――アメリカの命令だったことを忘れてはならない。
このとき日米間でまとまった構造改革に公共投資の増額があったことが何よりの証拠である。
自由主義的市場主義の導入と公共投資の拡大は両極にあるものだからである。
小泉改革はアメリカがおしつけたこのインチキ性のうえになりたっている。
グローバリゼーションはかならずデフレをまねく
日米構造協議以降、日本は、グローバルな市場主義へむかうことになる。
だがそれは、それまで日本を世界の経済大国たらしめていた日本的なシステム、価値観、伝統的技法などをかなぐり捨てることにほかならなかった。
特にグローバル・スタンダードの導入(グローバリゼーション)は、土地本位主義や含み資産会計など非グローバルな構造をもつ日本の金融制度を根底から覆すことになった。
この十年来、日本は「世界の孤児になるなかれ」を合言葉にグローバリゼーションをおしすすめ、小泉の「改革なくして景気回復はない」を妄信してきた。
だがこの構造改革はアメリカに都合がよいものであって日本に益がない。
そのことを思い知らされたのが、竹中がアメリカに命じられて旗をふる不良債権の早期処理である。
現在、小泉改革は公共事業の縮減やリストラ、財政改革、産業構造の転換、不良債権の早期処理をあげているが、それらはすべて景気浮揚の対極にあるものだ。
にもかかわらず「改革なくして景気回復はない」というなら、発狂したか、経済を知らないからである。
小泉がデフレに危機感をもたないのも同じ理由からである。
日本がうけいれたグローバリゼーションは、もともと"デフレ化"という病原菌をもっている。
地球には日・米・欧のような経済先進国から中国・東南アジア・南アメリカ・アフリカのような中・後進国まであるが、これをすべてまぜこぜにすると先進国ではデフレ、中・後進国ではインフレ圧力が生じる。
その好例が、ユニクロなどの安価な中国産によって壊滅状態になった日本の衣料である。
中国やアジアのような低コスト地域への資本や技術移転は<要素価格均等化の法則>によって日本国内の賃金水準の低下や雇用の悪化をもたらす。
価格競争に敗れて民族資本がバタバタ倒産する事態になれば貧困化した日本が最終的には安物の中国産のウェアさえ買えなくなるデフレによる"極貧化現象"さえおこりうるのである。
グローバリゼーションは、インフレ圧力による経済成長という恩恵にあずかる中国にメリットがあってもデフレの大波に洗われる先進国には災難なのである。
ドイツなどヨーロッパの経済も日本と同様、デフレで青息吐息だ。
アメリカがグローバリゼーションをおしすすめるのは金融商品や情報機器などを売りたいからだろうが、アメリカも、いずれ構造デフレによる"貧困化現象"にまきこまれてゆくはずである。
不良債権を急ぐ竹中は売国奴か狂人か
小泉に輪をかけて愚かなのが経済オンチの経済学者、竹中平蔵金融・経済財政担当相である。
竹中もこう叫ぶ。
「不良債権問題を解決しないかぎり景気回復はありえない。」
この男はばかではないのか。
景気がよくなれば株価や地価がもちなおし、不良債権は、減らそうとしなくても自然に減る。
だが、景気対策やデフレ対策をやらず不良債権処理を急げば、処理して以上に不良債権が増え、壊死部分がひろがってやがて日本経済は死ぬ。
不良債権の処理を急げば景気がよくなる、などという理屈はありえないのだ。
景気をよくするには、改革という悪夢からめざめ、デフレスパイラルから抜け出るしかない。
それには「調整インフレ」や「輸入調整」といった日本経済の保護政策しかないが、構造改革に逆行するとして小泉・竹中は必至でこれに抵抗する。
小泉の頑固はハンパじゃない。
面子のためなら国家が滅びてもいいという鼻っぱしらのつよさだが、これが竹中の"売国主義"とハーモニーを奏でる。
「古典経済学」にしがみつくアホ学者
竹中は「需要をのばしても、潜在成長率が低いため供給力とマッチしない」として構造改革の重要性を主張する。
アダム・スミスやミルの「生産費説」やマルクスの「労働価値説」といった古めかしい経済学を奉る竹中が"潜在成長率が低い"というのは<高年齢化・少子化>が頭にあるからだろう。
だが、いつまでも労働力や原価の固定観念をふりまわしていては付加価値や創造性が中心となる二十一世紀の経済についてゆけまい。
日本経済において供給サイドには何の問題もない。
技術革新や開発も順調だ。
問題なのは、だれもモノを買わない需要サイドにある。
だからこそ、超巨大なデフレギャップと世界一の金融資産がかえって経済を逼迫しているのである。
供給サイドに問題があるなら、デフレではなくインフレギャップが生じていなければならない。
高齢化や少子化、巨額財政赤字をことさらに悲観的にみて日本経済を「IMF管理下――アメリカ属国化」へミスリードしたがっているような男に金融・財政・経済を任せきって日本が破滅にむかわないわけはないが、それでも日本人は"パブロフの犬"の条件反射のように「改革」と聞くとヨダレを流してよろこぶ。
亀井の現実主義が沈没寸前の日本を救う
竹中の考えは「日本経済は希望がないから身売りしてアメリカの属国になろう」である。
前向きの政策が一切でてこないのはそういう理由からである。
亀井はこういって怒る。
「千四百兆円という世界に冠たる金融資産と、三千億ドル以上の外貨準備高をもっている日本民族がなんでアングロサクソンに身売りせにゃいかんのか」
亀井は金融政策に
「一層の金融緩和(日銀の長期債の買いオペの実施およびCPの対象化)」
「日銀による物価上昇率目標の設定」
「中小企業金融の拡充(十兆円の保証枠の拡大、返済の猶予など)」
「売掛債権、担保融資にかかる保証制度の創設」
「経営者責任の明確化と公的資金の直接投入」
「地価の下げ止まり処置」
をあげている。
社会資本の整備では
「都市の森林公園化」
「市街地の高層化」
「立体交差・電線の地中化・ごみ処理システムなどの循環型都市施設の整備」
「農漁村の水洗トイレなどの生活基盤の整備」
「地方分権を視野に入れた高規格道路の整備」
「ハブ空港の整備」
「ダムの浚渫」
「整備新幹線の整備」
などもあげている。
何もせずに「カイカク!」と叫ぶしか能がない小泉、日本をアメリカに売り渡すことしか頭にない竹中の両人にはそろそろお引取りいただかねば日本は本当に滅亡するのである。
http://homepage3.nifty.com/globaleye/starthp/subpage01.html