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(回答先: 天皇擁護、教育勅語の精神を擁護することに疑問を持つあなた、GHQの呪詛から解けてませんね 投稿者 Ddog 日時 2003 年 6 月 26 日 00:18:55)
教育勅語が発布された時期、あるいは現在を「アノミー」と考えるかは、Ddog氏は積極で、あっしら氏は消極のようです。私は、教育勅語が発布された時期において、そのような社会認識があったことは事実で(「道徳の頽廃」を嘆くのは、明治期以来の一部「知識人」の嗜癖)、それ対する官製の処方箋として教育勅語などを経典とする「天皇教」が推広されたと考えております。現在においても、Ddog氏などの教育勅語の復活論者などは、「青少年犯罪の増加」などを繰り返し主張しています(もちろん、当該主張の真偽は検証されるべき)。
「天皇教(私の勝手な命名)」については、「オウムと天皇教を比較しているだけです(http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/556.html)」で触れておりますが、キリスト教国で国家意思の根源とされる神の代用物として案出された擬似宗教と考えます。抽象的な倫理・道徳(反駁困難な抽象性=無内容を特徴とする)を教義とし、これに神話的体裁を加え(皇祖皇宗の遺訓というウソ)、天皇をその体現者としています。
教義は反駁困難な倫理・道徳で、天皇はこの淵源でもありますから、消極的には、これで天皇をガードすることができます。天皇への攻撃は、倫理・道徳への反駁とオーバーラップします。そして、積極的には、天皇が倫理・道徳の体現者ですから、これへの崇拝を醸成することになります。教義は他愛ないもので、どの皇祖皇宗が「夫婦の和」を遺訓としたのか、発布の当時から関心を持つ人もいません。それでも、全体として当時の社会からは、反駁し難く感じられたでしょうし、それを天皇に結びつけるだけで目的を達したはずです。
「国家意思の根源とされる神の代用物」との評価は、ヘーゲル法哲学のドグマなどではありません。教育勅語を推進する論において、欧米キリスト教国と比較で「神の不在」などとし、しかも「国益」を論拠とする論が跡を断たない事実から析出した私見です。少なくとも、教育勅語の推進論者(明治期も現在も)は、「天皇教」に欧米キリスト教国における神の代用としての機能を期待していることは明らかと思います。
また、このような官製擬似宗教は、キリスト教国(単一宗教国)ではあまり例がなく、近代史で例をさがすと、「毛沢東教」を布教した中国でしょう。「毛沢東語録(抗日戦期から配布当時までの雑多で抽象的なスローガンの寄せ集め)」の大量配布とその朗読を通じて、毛沢東の個人崇拝を醸成する手法など、驚くほど「天皇教」と類似しています。(キリスト教国では、宗教原理主義は発生しても、このような擬似宗教には免疫があるのでしょうか。ナチスは世俗的ですが、スローガンに具体性が高いので、擬似宗教ではなく、政治的プロパガンダの例です。)
東條や近衛などの戦争犯罪(GHQによる一方的断罪と考えていただいても結論は同じ)を容認しつつ、裕仁のみを「ニューマ」に影響されて戦争を遂行した平和主義者と考えるなどは、この「天皇教」の呪詛が現在でも解けずにいることを証明するものです。