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(回答先: Re: 「天皇教」という概念は、Ddogさんの心酔する小室直樹氏が徹底して詳しく使っています。 投稿者 うめ 日時 2003 年 6 月 27 日 00:51:40)
調べてみると、「天皇教」を使う論者は複数あるようです。小室直樹と「同一」とのご指摘をいただいていますので、ちょっと手持ちの手持ちの小室の書籍で、小室の論を検証しましょう。残念ながら、小室が「天皇教」を規定した段は、手持ち本にはありません。私の「天皇教」と小室のそれが、単に与えられる側から見たものと与える側から見たものの違いなのか、それとも本質的に似て非なるものなのか、あるいは、全然似ていないのか、宿題にさせていただきます。
話題は、「アノミー」と「教育勅語」に言及した部分です。引用はあえて避けます。この話題の選択は、Ddog氏が使っておられるキーワードで連想しただけです。Ddog氏の論が小室と「同一」かどうかは、評価しておりません。
小室は、次のような説明をしながら、教育勅語の復活させるべきなどというトンデモ結論に至っています。
1. 現代は「アノミー」である。
2. 「アノミー」は悪である。
3. 明治期は教育勅語があったので「アノミー」でない。
論理的に考える人なら、仮に1から3をすべて認めたとしても、このように帰結できるはずもありません。このゴマカシは誰でもわかる程度のものです。アノミーに対置するものとしては、何らかの共通の価値観に過ぎません。これが教育勅語である必然性はまったくありません。仮に小室が「法学博士」なら、共通の価値観として、「個人の尊厳」など、教科書的な回答もできるはずです。
おそらく、小室も、こんな論拠だけで「教育勅語復活」を帰結するのは飛躍と認識しているのでしょう。今度は、教育勅語が儒教でないなどと論じています。その論拠は、噴飯モノですが、何と「臣民」という言葉は儒教ではあり得ないからだそうです(出典略)。儒教では、「臣」と「民」は区別されるとしています。
儒教の内実は、もちろん時代によって異なりますが、基本的には「君」と「臣」が「民」を統治する技術です。儒教で問題とされるのは、このうち、「君」と「臣」だけです。「民」は儒教倫理の外に置かれた被支配者に過ぎません。小室のような論者が、教育勅語の倫理項目を「儒教倫理」といって、気に入らないなら、もっと正確に表現してあげましょう。教育勅語の倫理項目は、「儒教倫理のうち、家族倫理などの一部をとりだして、これを臣民(=民)にまで及ぼそうとしたもの」です。
残念ながら、教育勅語の内容など、発布当時から誰も相手にしなかったと考えております。どうせ、「天皇教」の布教道具に過ぎません。皇祖皇宗の遺訓と称して天皇の名で押し付けることに意味があります。その内容は「人は右、車は左」など当たり障りのない内容なら、大差のない効用でしょう。もちろん、「人を殺してはいけない」などでは、戦争ができませんから困ります。