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(回答先: 書記長、Ddog, 愚民党さんなど天皇制度支持者のみなさんに質問:天皇自身、皇室は朝鮮民族の血が入っているといっていますが、それでも当然なお、天皇制支持ですよね? 投稿者 bubble 日時 2003 年 6 月 13 日 03:52:01)
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/s-umano/080501hotsuma.html
『秀真伝(ホツマツタヱ)』が今年から数えて1870年前に編纂された文書であることは、諸方面からの検討によって確実である。しかもその内容の約7割は、さらにその時点を遡ること794年、神武天皇即位前8年(紀元前668)に書かれていたと推測して誤りないと思われる。
全編12万余字から成るこの『秀真伝』は、その成立の深さ、伝承の深さにおいて、今日に完全な形で残る世界最古の古典と言えよう。始皇帝の焚書坑儒の故事にまつまでもなく、歴史書は常に時の権力によって弄ばれる。『秀真伝』もその例外ではなく、すでに仏教伝来、蘇我氏専権のころから受難が始まったのではないかとも考えられ、ついに道鏡専横の時代に社会の表面から秘匿されてしまった。
ところが江戸時代安永年間(1772〜1780)になつて忽焉とその姿を現した。その間一千余年の消息は杳として知れない。琵琶湖西岸のいずこかに、密かに護持されてきたものであろう。実に不思議な生命力を持つとしか考えられない。
しかしこのようにして一旦は露頭した『秀真伝』も前途多難であった。これを冥闇から世に出し多年困苦の研究の後、漢訳したのは、『秀真伝』作者である神武朝の大臣奇甕玉の命の、遥かな裔孫であると言う三輪安聡(和仁估安聡)であった。他にも律宗僧溥泉などが研究しているが、いずれも後継者を得ず再び世に隠れんとしたが、ここに伊予宇和島小笠原一族が現れ深く研究するに至った。
小笠原家では江戸末期から大正年間まで『秀真伝』の研究が続けられたが、その後は中断状態になっていたところ、戦後になって松本善之助が奇縁をもってこの書物に出会い、以来鋭意専心研究に打ち込むとともに、散逸した諸本の蒐集に盡力された。同氏の業は単にホツマ研究に止まらず、国史の破邪顕正の上から大書すべき功績である。
では古代日本の真正の歴史と道統を明らかに誌したこの文書が、なぜかくも長い年月の間、幾度も世に出んとして、しかも隠蔽されてきたのか。この疑問は日本古代史の核心に触れる問題を提起する。結論のみを述べれば、6世紀以来の外来思想、宗教、種族
の流入によって古来の道統が廃れ、『秀真伝』が厳重に制止した《私》の利を計る《閥族》がはびこり、彼らは天皇家とその系譜、由緒、精神を明確に記した『秀真伝』を危険書として排除した。
旧事紀、古事記、日本書紀は、この過程において出現した国定、即ち「閥族」定の史書であることは、『秀真伝』とこれらの内容を比較すれば直ちに判明する。我々はいまにしてこの旧紀、記、紀の忌むべき虚構と恣意しいを剔抉しなければならぬ。
つまりこの三書では『秀真伝』に書かれている遠古から上古に至る真正の歴史は完全に捨て去られており、これらは秦氏、蘇我氏など閥族の都合により編纂されたものである。『秀真伝』と旧紀、記、紀を比較すれば、そのことは客観的に明瞭となる。
記、紀は以後今日まで歪められた古代史像を政治、社会、学術の全面に亘って強制してきた。日本古代の道統を固守すべき古社が、記紀の束縛から一歩も離れ得ないと言うのは、まことに悲しむべき状況としなければならない。日本古来の道統を研究すべき
諸大学の国史学科、特に神宮皇學館あるいは國學院が、記、紀の呪縛から逃れこの『秀真伝』の真価に一日も早く気付かれんことを願うものである。
このような事実は記紀、すなわち国許、官製歴史に対しては、疑うべからず、ましてや一指も触わるべからずと言った、萎靡したその日暮らしの心理に、神道関係者が陥っていることを示す。一般の古代史学者に至っては全く驚愕すべき状況に長く止まっている。
明治時代から『秀真伝』は勿論、その他『上記』『富士古文献』『竹内文書』などが世に出ているにもかかわらず、帝国大学国史学科を先頭として、アカデミーの世界ではこれらを完全に無視してきた。彼らにとってこれらは存在して、しかも存在しないのである。敗戦後の今日では事態はさらに悪化していて、虚構に屋上屋を重ねる状況に至っている。
この幾重にも重層された虚構のもとは、蘇我氏専横の時代に、彼らの国権纂奪の野望を遂げんとして、太古以来の天皇家の比類ない遠い歴史と高い精神を湮滅させるべく、偽りの歴史、旧事紀が聖徳太子、蘇我馬子、秦河勝によって編まれ、以後その史観が、諸種の理由によってそのまま踏襲され、一世紀後の古事記、日本書紀に至ったものであろう。
以後今日までの長大な時間の間、記紀神話が疑うべからざる真理として社会に固着した結果、これを真向から否定する『秀真伝』が、世に出るべくして出られなかったのは良く分かる。
奇怪と言おうか当然と言おうか、敗戦後この記紀神話は心無き歴史学者によってますます歪曲の度を強め、日本の所謂神代史は醜いものに作り上げられてしまった。なかんずく悪質なものは、最も尊貴であり人類の精神文明の根元に連なると結論される天皇家について、朝鮮半島から移動してきたと言った賎しむべき説を公布して得々たる特定の国史学教授輩である。
日本書紀を忠実に解釈すれば、必ず天皇家の出目、日本国の根據について疑を抱くようになる。つまり記紀はそのために編纂されている。文献批判の学者・津田左右吉は記紀を冷静に分析して、そこに書かれている天皇家を否定したが、それは当然であった。
ここで考えて見なければならないのは、なぜ千年の完全な埋没の後、安永年間になって『秀真伝』が地中から姿を現し、以来断続的に露頭し、維新前後に高度な研究が世に出、そして敗戦後の今日、ようやく本格的に研究が興るようになったのか、という理由である。すでに述べたように、今日の世相はむしろますます古代の高度な精神性から離れる様相を増していると言うのに、少数ではあるが高度な研究者が現れるに至っていると言うことは、アナクロニズム、一時の徒花ではないか、と問うのが一応の事情を知った人達の心の内であろう。
世の本質に関わる事物は、決してそれ自体の稟質のみによって顕れるものではなく、その時代の性向、思潮の内奥の動きから、自ずから隠顕するものと思う。私の文明理論によれば、世界文明は全体として或る統一的プログラムに沿って変動展開して行く。日本とヨーロッパの歴史は、巨視的には同時的に相似であり、概ね同時代に同様の社会状態になる。
安永年間はヨーロッパでは産業革命が興り、政治革命が始まり、過去の遺制(アンシャン・レジーム)が崩壊していく時代であった。アメリカの建国もフランス革命もこの時に起こっている。日本での政治変化はなお極めて微温的ではあったが、社会思潮の上からははっきりと同期した変化が認められる。
『秀真伝』が千年の眠りから揺り起こされたのは、正にこの世界普遍的社会潮流のなせる業なのである。徳川中期から国学が勃興し、維新前に強烈な国粋理論家平田篤胤 が活動したのも、西洋の力が日本に打ちかかる事態に対する歴史の一つの仕組であろう。
このような歴史理解から現在を眺めると、幾人かの高度な研究者が現れ、発行部数が万を超える『秀真伝』解説書が出ると言うことは、それが正しく歴史必然を示していて、その延長上には、現在とは異なった世界が開けてくることを黙示していると考えられる。
すでに私が他の書で述べたように、黒船に始まった日本VS西洋の対決は、文明の全相に亘ってその最終相を、いよいよ露呈してくる筋合いである。この衝突に際して、日本も西洋もその依るべき本源は自らのアイデンティティであるより外はない。日本の宗源は天皇であり、これが外来であると言った証言に惑わされていては、敗亡の運命が待つだけである。
『秀真伝』は皇室と日本民族の由来が千古に亘って一系であることを、精密に、そしてあふれる詩情をもって伝えている日本の聖典であり、この書が18世紀後半以来姿を現わしてきて、その研究が末広がりの状況になってきていることは、そこに一つの歴史の構造を見る気がする。
『秀真伝』の言文を初めて見る人は、誰しも怪訝の感に打たれる。奇怪な文字で綴られているからだ。私もまた同様であったが、いろいろ考えて見ると、これは素晴らしい構造性、理論性を持った、世界に冠絶する、超越した最高の文字であることが判ってくる。友人である米国の文字学者は、これがイギリスで数世紀前まで残っていたルーン文字に似ていると言い、ユーラシア大陸の両端の島にこのようなものが残っている事実に注意したいと述べていた。
文字がすでにこのような超越的合理性を具えているが、さらにその内容に到っては、真に驚倒すべき古代史の実相を伝えている。すなわち記紀では空漠たる神の座にある天照大神は、現実には男性の人体であり、神武天皇の生誕より暫く前、猿田彦に洞穴を掘らせて自ら隠れ給うた。後年の日本の尸解仙の伝統をここに見ることができる。
さらに驚くべきことの一つを挙げれば、かの西王母が天照神在世中に3度に亘って来日している記事がある。中国に『穆天子伝』という古書があり、東周穆王(紀元前1001〜947)が遠く西遊して西王母と瑤池に觴したと出ている。今日の、天山北路ウルムチの西方46キロの天山山脈中に天池という所があり、往昔、穆王と西王母が会したところとする伝承が今に残っている。
ここに詳細を述べる余裕はないが、深く考究した結果、私は『秀真伝』の記述も穆天子伝の記事も正しいと結論する。すると天照神はきわめて高齢まで生きておられたことになる。『秀真伝』を書いた時、著者大直根子は234歳と述べている。余りの長寿に
信を置かない人が多いだろうが、大昔の日本は非常に清浄な霊地で、この程度の寿命は実際にあったものと思う。『秀真伝』の他の記述の厳密性から見てこの年数は信頼し得るであろう。勲功を加齢をもって報いた風習もあったかもしれない。
心なく頭脳薄弱な今日の古代史家、考古学者によって、日本古代は蒙昧な縄文時代と片付けられているが、それは現代人の倨傲であって、すでに今日発掘されている遺跡、遺物は高度の文明の存在を証している。多くの栽培植物の存在、山形、富山、福井で発見された穴を穿った柱、朱漆塗の櫛などは『秀真伝』の人達の日常生活を彷沸させるものである。能登半島には巨大な木造遺構が見出されている。いずれも5千年以上前の古代に遡る。さらに最近は驚倒すべき5千5百年前の大遺跡も現れている。
『秀真伝』によれば、イザナギ、イザナミももとより人体であって、日本列島全体を騎乗巡回し「アワ(天地)の歌」を教え住民の言葉を正した。言葉の乱れは社会の乱れなのである。かくして和歌の淵源は遥かに遠く深い。万葉集に見るような秀れた修辞は、当時のゆっくりとした時代においては、その完成に数千年を要したであろう。和歌の起源は遠く縄文時代奥深く遡る。
もとより『秀真伝』の時代、縄文を深く遡るころから、列島は全域一元的に天皇家によって統治されていた。虚心に諸方面の情報を総合して、これは正しい。神武天皇の紀年はおろか、その存在まで否定するのが現在の歴史学会の趨勢すうせいである。
不逞言うべからざる学匪の猖獗としなければならないが、錯誤乱脈の根因は、彼ら個々の頭脳の問題であるのみでなく、日本の学会の因循姑息にある。今の歴史学会の状況が続き、誤った日本古代史が引き続き世にはびこって行くならば、日本は遠からず危殆に瀕する。
われら日本人にとって『秀真伝』は自らの根源を明らかにする史書である。それは尊貴高潔で、しかも情緒深く、さらに霊界との交流がほの見える人倫の至極を歌っている。この日本の本質と源郷を明らかにする『秀真伝』を今こそ広く江湖に進めなければならぬ。ここに『秀真伝』が一刻も早く世に広まらんことを祈念する所以である。
平成8年5月30日 馬 野 周 二