現在地 HOME > 掲示板 > 議論11 > 245.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: 書記長、Ddog, 愚民党さんなど天皇制度支持者のみなさんに質問:天皇自身、皇室は朝鮮民族の血が入っているといっていますが、それでも当然なお、天皇制支持ですよね? 投稿者 bubble 日時 2003 年 6 月 13 日 03:52:01)
そんなこと言ったら天皇家と姻戚関係を結んで皇室を支配した蘇我氏だって
百済系であることははっきりしています。
天皇家じたい4世紀くらいに日本にやってきた一族です。いわゆる大和民族
と言われる「古墳人」は、みんな天皇家と一緒にそのころ日本にやってきた外
来集団です。それは神話や遺跡などからも明らかです。
それより遅れて日本にやってきた人々が渡来人と呼ばれたのです。
当時の北東アジアでは扶余・高句麗系の遊牧騎馬民族集団がいくつかの国家
を現地の人々(韓人や倭人など)と一緒に形成していました。
百済王室と天皇家の源流であるとも言われるのが「辰韓」の辰王家です。彼
らが王位に就くときは、南朝鮮の現地人の長たちと外来人の長たちが出席する
会議で推挙されることが必要だったと記録では残されています。
百済王室が扶余系であることはきちんと記録に残っています。だから、天皇
家も扶余系であることが当然推定されます。私は扶余族の本隊は4世紀にはさ
っさと日本にやってきて大和朝廷を開いたのだと思います。その場合天皇家の
ほうが本家で百済王室は分家みたいな感じになるのでしょうが、どちらが兄か
弟かはどうでもいいことだと思います。
『朝鮮半島への進出』
http://www2.wbs.ne.jp/~jrjr/nihonsi-1-4-2.htm
ちなみに、弥生人(邪馬台国)は呉や楚あたりの江南人や越(ベトナム)人
に風俗や生活様式が近い人々だったと記録されており、江南人と弥生人の人骨
には遺伝子が一致するものもあるようです。高句麗はもともと扶余と同じ集団
だったが、早くから分離して言語や習俗に違いが出来ていたと記録されていま
す。
あの当時は今の「日本」・「朝鮮」という社会は国家としても文明単位とし
ても存在していなかったのです。民族としての「日本人」・「朝鮮人」もいま
せんでした。当時の東アジアでは色々な民族や部族が連携・戦争、支配・従属
、移動・征服を繰り返し、様々な国家が興っては滅亡していきました。日本も
例外ではなかったのです。
『カルト日本史?』
http://www.asyura.com/2002/dispute4/msg/129.html