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(回答先: 株式日記と経済展望:マクロ経済がわからないと構造不況が解決できない。「ミクロの総和がマクロではない」と理解するべきだ。 投稿者 あっしら 日時 2003 年 5 月 27 日 20:10:43)
「合成の誤謬」という用語そのものが誤謬である
引用 「その本質は、一人一人にとってベストな行動の総和が、全体にとってベストな行動とはならない、ということだ。例を挙げると、劇場のパニックがある。一人一人は、われ先に逃げ出そうとして、狭い出口に殺到した。あげく、ふん詰まり状態になって、誰一人逃げ出せないまま、全員、焼け死んでしまった。……つまり、一人一人がベストな行動を取ろうとしたせいで、全体では最悪な結果となった。」
この事態は、例えばポール・クルーグマン氏が「回転ドア」効果と言っているものと類似した例です。
しかし、こういう事態を「合成の誤謬」と表現することは、問題の本質を明らかにするよりも、むしろ隠蔽していると感じます。
この表現は以下の2点を前提としています。
a ミクロ経済主体の最適行動が、マクロ的には最適の結果をもたらすべきである(はずである)という市場の理解
b しかし、ある初期条件下においては、ミクロ経済主体にとっての最適行動が、実際にはマクロ的には最適とはならないばかりか、むしろ最悪に近い結果を招くという現実の経済社会の理解
aの市場原理による最適資源配分、最大幸福仮説を受容しつつ、bの現実事態を説明する論理として、「合成の誤謬」が編み出されました。
なぜ「誤謬」なのか。
それは、正しいはずの市場が、特定条件下では間違うことがあるという認識を示しているのです。
こう述べると明らかでしょう。 「合成の誤謬」とは、働かない「神の見えざる手」の護教論なのです。
「神の手」は素晴らしいが、間違うこともあるという論理が内包されているのです。
市場ってそんなもんでしょうか? 違うと思いますね。
a、bの事態については、もう一つの理解方法があります。
a’ ミクロ経済主体の最適行動が、マクロ的には最適の結果をもたらす場合がある。
b’ ミクロ経済主体の最適行動が、マクロ的には最悪の結果をもたらす場合がある。
一般的には、物と貨幣との交換については、a’が成立すると思います。
しかし、貨幣と貨幣との交換(資産市場)においては、原理的にb’が成立しやすいと見るべきなのです。
また、いわゆる「労働市場」と呼ばれているものについても、b’が成立しやすいといえます。
このような見方の方が、単純かつ包括的、つまり科学的な見方だと思いますね。