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まったく知らずに過ぎてしまうところであったが
イラクに「宗教選択の自由」がもたらせるだろうという
下欄の投稿を読んではっと気がついた。
「宗教選択の自由」。これはキリスト教布教者の巧妙な詐術ではないか。
宗教というものを広い意味での「文化」ととらえればよくわからるだろう。
わたしはサーフィンを愛好するが、この波乗り遊戯発祥の地はご存知のようにハワイである。
昔、ハワイにもキリスト教の宣教師がやってきた。1923年頃のことである。
当時のハワイの土着の「宗教」がどんなものであったか寡聞にして知らないが、おそらく他民族へ影響力を拡大しなければならないようなヒステリックな侵略的傾向性をもった宗教でなかったことは確かだ。
宣教師たちが布教に手を焼いたのは、島民たちがサーフィンに熱中してキリスト教にまったく関心を示さないことであった。そこでかれらはサーフィンを禁止してしまったのである。人の心を腐敗させる「悪魔の遊戯」だという仰せだった。
さて、ここでわたしは広い意味で「サーフィン」は当時のハワイ島民にとって(いまでも)一種の宗教的色彩を帯びたものであったことを強調しておきたい。
宗教とは「文化」であり、ある特定の風土、慣習、民族の間に自然に醸し出された、その地空の住人にもっともふさわしい精神的衣装なのである。まさに「生まれつき」あたえられる衣装であるといえる。多くの人々にとってそれが不具合であるはずもなかろう。
となると一見当たり前に見える「宗教選択の自由」とはじつはその意味は何であるかすぐに気がつくだろう。
じつはこれほど怪しい概念もないのである。
これは共同体に外部から侵入してきた異教徒の側の概念にすぎない。つまり異教の布教のための概念なのである。
キリスト教はつねに外部に拡張してゆく傾向性をもった宗教である。
おそらく「宗教選択の自由」とは、ハワイに宣教した牧師たちが波乗りを禁止させたように、地元に強く根を張った宗教文化を破壊するために考え出された概念に他ならないと思う。
なんとなれば宗教とは本来、「選択」の問題ではなく、文化なのであり、その風土、歴史的慣習、民族性と切り離せない水や空気のようなものであるのだから、「選択」とは、外部からの他文化への破壊、すなわち「改宗を迫り」「しゃくぶく」するために地ならしにほかならない。
わたしたちがなにか気分的に文化的な概念だと思っているだろう「宗教選択の自由」とは、このような詐術に裏付けられた巧妙な文化戦略、他民族蹂躙のための戦略にほかならないのではなかろうか?
下欄の「イラクに信仰の自由がもたらされる云々」という投稿を読んで、はっと気がついたしだいであるが、いかがなものだろう?