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(回答先: 力なき市民さんへ(便乗) 投稿者 もしら 日時 2003 年 3 月 31 日 23:51:56)
もしらさん、こんばんわ。
>われわれが無知と蒙昧や暴力から解放される日など、果たしてやってくるのでしょうか。
>人類の歴史上で「救済」であるとみなされたものが果たしてどれだけの人を解放した
>といえるのでしょうか。
「無知と蒙昧や暴力から解放される日」はやってこないと思っていますが、“近代の精神的倒錯”や“近代の暴虐”から抜け出す日はそう遠くない時期にやってくると確信しています。
(人は根源的に限られた認識力や思考力しか持ち得えない存在で、痴情や欲得に唆されて殺人・暴行・強姦などの罪を犯す人もいなくならないと思っています)
強欲の対象が世界に広がり、その実現手段である軍事力が近代産業力と結びついた「近代」ほど苛烈な暴虐が吹き荒れた時代はなく、それを正当化するために人々をあらぬ価値観や理論に縛りつけようとしてきた時代はないと考えています。
キリストであろうが、釈迦であろうが、人が他者を「救済」することはできません。
『自分の「世界」に信を置いて物事の理非を判断することです』( http://www.asyura.com/0304/dispute9/msg/542.html )で書いたように、一人一人が自分を含む「世界」を内なるものとして持っています。
その「世界」に救いを見出すのは、個々人の力です。
キリストや釈迦であれば、ひとが救いを見出す手助けをできるかもしれませんが、手助けまでが限度で、「救済」に到達するのはそのひと自身の力です。
仏教やヒンドゥ的な悟りや宇宙との合一であれば、生身性を捨て去り観想的生活に入ることで得られると思っています。
初期キリスト共同体のような生活に入れば、福音書的救済が得られるかも知れません。
それらとて、その「世界」にいる自分を救済されたものと感じるのは、その人自身の思念力によります。
「近代」とりわけ先進国の人々は、物欲がなだらかな上昇過程で充足する「世界」に救済を感じるように仕向けられてきました。
そのような「世界」に居心地がいいものと感じ救いを得たと判断しても、別に罪ではありません。
しかし、そのような「世界」に違和感を感じる人が後進国の人たちだけではなく欧州諸国の人たちを中心に増えていることも事実です。
今後の世界は、先進国の人々のなかで、物欲がなだらかな上昇過程で充足する「世界」と感じられない人が増える状況になっていきます。
これは、否応なしに、これまですがってきた価値観や論理に疑念を抱かせる契機になります。
そのような思いを持つ人が多数派になれば、「近代」は終わらざるを得ません。
>誰にとっても望ましい世界などおそらく存在しないでしょう。
>望ましい世界など存在せず、ただそこに現状が横たわっているだけだと考えるのはあ
>まりにも怠惰な考え方なのでしょうか。
「望ましい世界」は脱俗して観想的生活に入れば得られるとも言えますが、俗世でもがき必死に生きている人たちに支えられた虚構の現実です。
(悟りの境地に達したときに死ねば、その瞬間に「望ましい世界」を手に入れたとも言えますが、食べ物などの寄進を受けて命をつないでいるのなら俗世の人たちに支えられた自己満足ということになります)
「望ましい世界」は、他者との協働によって少しずつ近づく“夢の世界”であり、それに近づいたと思っても、人が内包している“欲”のために手に入らないものだと思っています。(万人が認める「望ましい世界」はありません)
このような意味で、人は他の人たちと知恵や活動力を出し合って、多くの人にとって「よりましな世界」をつくり出していくしかないと考えています。