現在地 HOME > 掲示板 > 議論10 > 119.html ★阿修羅♪ |
|
(回答先: あっしら氏の「生産性」の定義の検討 投稿者 あずさ2号 日時 2003 年 4 月 27 日 12:31:27)
あずさ2号さん、レスありがとうございます。
私の生産性の定義:
「生産性は、ある単位量の財を生産するために投入しなければならない資本(通貨)量、もしくは、ある単位量の財を生産するために投入しなければならない総労働量の多寡である。
同一品質の自動車1台を100資本(労働)量で生産していたものが、90資本(総労働)量で生産できるようになれば、生産性が10%上昇したことを意味する)」
----------------------------------------------------------------------------------------
あずさ2号さんの反論1:
「この定義における問題点は、「量」ということであり、「通貨の総量」でもって生産性を測定するということであろう。あっしら氏の例に従って、同一品質の自動車1台を生産する場合を考えてみよう。
100通貨単位の自動車1台を生産するために、A、B両国とも、資本財の投入量が50通貨単位(比較可能とするために仮に同一通貨単位とする)、労働力の投入量が50通貨単位であるとする。また、A国においては、1時間当たりの労働力の単価が1通貨単位であり、B国においては1時間当たりの労働力の単価は10通貨単位であるとする。資本財の投入量は50通貨単位でA、B両国とも同じであるから、生産性の良し悪しを見るためには労働力の投入量によることになるが、あっしら氏の定義によれば、総労働量が50通貨単位で同一であるので両国の生産性は同じということになる。しかし、A国においては50通貨単位の労働量は50時間の労働時間の投入を意味し、B国においてはわずか5時間の労働時間の投入を意味するにすぎない。これで両国の生産性は同じといえるのだろうか?」
あずさ2号さんの反論1の検討:
結論:判断論理は違いますが、示されたモデルの二つは同じ生産性です
「近代経済システム」の経済活動が利潤獲得を目的としつつ、経済取引が普遍的に貨幣額で表現できるものであるからこそ、「経済学」という自然科学的な理論体系が成立します。
経済活動を規定するのは、労働力の投入量ではなく、資本(貨幣額)の投入量と産出した財を販売することで得られる貨幣額の関係です。
A国もB国も、同質の自動車1台生産するために同じ貨幣額を要しているという内容ですから、生産性のレベルは同じです。
しかし、あなたが書かれている説明は、私の定義を誤って援用しています。
「生産性の良し悪しを見るためには労働力の投入量によることになるが、あっしら氏の定義によれば、総労働量が50通貨単位で同一であるので両国の生産性は同じということになる」から、生産性のレベルが同じであるわけではありません。
同質の自動車を生産するために、労働力の投入量が同じだからではなく、あくまでも、投入する資本量=総労働量が同じだから生産性が同じなのです。
(ですから、A国:労働力以外の財の投入額60単位+労働力投入額40単位、B国:労働力以外の財の投入額50単位+労働力投入額50単位という条件でも同じ生産性です。生産設備などは1台の自動車の生産で償却される額が投入額となります)
財の価格を根源的に規定しているのは、それに投入された労働量だという労働価値説に立っています。
ご提示の例で言えば、生産性を考える基準は、最終財である自動車1台の生産過程に投入された労働力の総和ではありません。
(最終財である自動車1台の生産に使われる生産設備・中間財・エネルギーなどすべてのものを供給するために投入された労働の総量です)
さらに言えば、労働力と労働は異なる概念です。
組織化された生きている労働力が過去の労働が生み出した生産手段と有機的に結びつくなかで行われるのが労働です。
※ 参照書き込み
『【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明:基礎 〈その1〉』
( http://www.asyura.com/sora/dispute1/msg/903.html )
【世界経済を認識する基礎】 “あっしら”的経済概念の説明:通貨・物価変動論など 〈その2〉
( http://www.asyura.com/sora/dispute1/msg/904.html )
※ 「100通貨単位の自動車1台を生産するため」は、“100通貨単位で販売したい自動車1台を生産するため”と考えたほうがいいと思われます。売りたい価格や売れると見込んだ価格で売れないのがデフレがもたらす災厄の一つです。
----------------------------------------------------------------------------------------
あずさ2号さんの反論2:
「次に、A国ではこの自動車を生産するための労働力の投入量が40時間に向上し、反対にB国では6時間に悪化した場合を考えてみる。そうするとA国での自動車1台は90通貨単位となるので以前比べれば生産性は向上し、B国の自動車1台は110通貨単位となるので以前比べれば生産性は悪化したことになる。A国、B国のそれぞれで、以前の状態と比較する場合は、このような生産性についての議論は可能であろうが、あっしら氏の定義に基づく総量比較により、A国の生産性が高いとするのは疑問である。
このような問題は、A、B両国において1時間当たりの賃金の変動があった場合も生ずるが、お解りになるであろうから具体例は省略する。
A国を中国、B国を日本とした場合、労働者が賃金の高い日本に大挙して押し寄せ、A、B両国の1時間当たりの賃金が直ちに平均化される、というのは現実を無視した仮定になるであろうから、ここではこのような考え方は排除する。」
あずさ2号さんの反論2の検討:
「あっしら氏の定義に基づく総量比較により、A国の生産性が高いとするのは疑問である」という部分は、私の概念に関する取り違えに基づく誤った評価です。
ご指摘のような変動は、賃金水準がともに同じであれば、私の論理からも、A国の生産性が高まったということになります。
賃金水準が変動するだけでも、私の論理から、生産性が変動することになります。
「A国を中国、B国を日本とした場合、労働者が賃金の高い日本に大挙して押し寄せ、A、B両国の1時間当たりの賃金が直ちに平均化される、というのは現実を無視した仮定になるであろうから、ここではこのような考え方は排除する」と言われていますが、そうではなく、企業が、労働者の賃金が安い国に製造拠点を移し、そこでより安く生産できた財を日本に持ち込むことで日本経済をおかしくしていることを説明したのが、オリジナルである「デフレ論」の眼目です。
これは、経済論理に照らせば、賃金が安い労働者を管理しながら“輸入”するよりも自国経済を破壊することなのです。
なぜなら、賃金が安いとは言えそのような労働者たちも日本国内で消費するのに、製造拠点が外国に移れば、国内では失業が増えるだけだからです。
----------------------------------------------------------------------------------------
あずさ2号さんの説明:
経済学者でもない私ら一般庶民の感覚では、生産性とは、「労働者が1人1時間当たりに生産する財・サービスの量」ということになると思う。経済学は、仮定としての「理論」がまずあるのではなく、私たちの生活の中から一定のルールを導き出す程度のことしかできないのではなかろうか(経済学を学んでいる人ゴメン!)
あずさ2号さんの説明に対する感想:
世界レベルで賃金が平滑化されれば、「生産性とは、「労働者が1人1時間当たりに生産する財・サービスの量」」に近いものになります。
しかし、そのような定義では、現実の経済社会がなぜあのように変動しているのかを説明することはできません。
「反論2の検証」の最後で書いたように、「労働者が1人1時間当たりに生産する財・サービスの量」だとしてしまえば、なぜ、完全雇用ではない日本で日本企業が中国などに製造拠点を移しているかの説明さえできないのです。
「近代経済システム」の経済活動が利潤獲得を目的としつつ、経済取引が普遍的に貨幣額で表現できるものであるからこそ、「経済学」という自然科学的な理論体系が成立します。(「経済学」は、社会科学というより自然科学と言ったほうがふさわしいものです)
----------------------------------------------------------------------------------------
あずさ2号さんの反論3:
「次に、あっしら氏は、
「生産性が低いからデフレになったのではなく、デフレになったから過剰債務や生産性が低い企業が破綻して当然の財務状況に追い込まれているのです。
逆に、トヨタなどのようにデフレ状態でも収益を上げる企業は、図抜けて高い生産性を達成しているということです。」
と主張するが、トヨタや日産など自動車産業の高収益を支えている下請け中小企業の現状はどのようになっているのか、ご存じなのだろうか?
トヨタに限らず、とんでもないコストダウンの要求に応える中小企業が存在してはじめて、日本の大企業は成り立ってきたともいえるし、下請けが頑張って生産性の向上に励んでも、それは納品価格の下落で相殺されてしまうという、どうにもならない現実がある。理論的におかしいといっても下請け中小企業の生産性のアップ分を収奪する構造は変えられないのですよ。このような構造の中では、もともと生産性が低いから破綻するのではなく、一企業が栄えるために下請け企業の生産性が低くされるから破綻する(現象面だけをとらえれば生産性が低いから破綻するとなる)、といえるのではなかろうか?
私、あっしら氏がどのような方かは存じ上げませんが、もう少し現実に即した論を展開する必要があるのではないかと思い投稿させていただきました」
あずさ2号さんの反論3の検証:
日本経済のいわゆる「二重構造」問題は、『『中央公論』7月号掲載の榊原論文を評す [現状認識&政策編]』( http://www.asyura.com/2002/hasan12/msg/1410.html )などで書いています。
国際優良企業は、国際商人的存在になり、生産に関しては足腰だけではなく頭脳さえも失いつつあるという見方も表明しています。(大企業の高い技術力というのは単なる神話でしかないということです)
「トヨタなどのようにデフレ状態でも収益を上げる企業は、図抜けて高い生産性を達成している」のは、トヨタなどの大企業に依存しながら存続している企業の高い生産性と低い納品価格のおかげです。
「このような構造の中では、もともと生産性が低いから破綻するのではなく、一企業が栄えるために下請け企業の生産性が低くされるから破綻する(現象面だけをとらえれば生産性が低いから破綻するとなる)、といえるのではなかろうか?」については、存続している下請け企業は図抜けて生産性が高いからこそ、叩かれても存続できているのです。
あれだけ叩かれたら、生産性を上昇できない下請け企業は破綻することになります。
そごう・西武百貨店・ダイエーなどは、巨艦豪華店舗主義や多店舗展開を借金しながら推し進めてきたことで破綻したり実質破綻しています。
建設業の災厄は、基本的に田中角栄内閣以降続いている国策の誤りです。
この問題も「匿名希望氏」とのやりとりで書いていますのでご参照ください。
『【参考資料】匿名希望氏との経済・財政問題をめぐる応答集』
( http://www.asyura.com/2002/dispute4/msg/134.html )
書き込みの目的(趣旨)から外れ、既に書いていることなので触れていないことを取り上げ、私に確認もせずに、「トヨタや日産など自動車産業の高収益を支えている下請け中小企業の現状はどのようになっているのか、ご存じなのだろうか?」とか、「もう少し現実に即した論を展開する必要があるのではないか」と書かれる態度に疑念を抱いています。
----------------------------------------------------------------------------------------
あずさ2号さんの説明:
「余計なお世話、自分はそうではない、根拠を示せとおっしゃるでしょうが、自分の考え方を論破したいという思いが極端であることや最近の内容が異常にハイテンションであるとお見受けいたしましましたので、「人生負けるときもある」との考えで先日は投稿いたしました。(皆さんの受取方はちょっと違ったようですが・・・・・)特に、あっしら氏自身が負けの条件を提示し、その条件が現実となったのであれば、潔く負けを認めるべきでしょう。私は、間違っていれば、いつでもゴメンなさいはOKですよ!」
あずさ2号さんの説明に対する感想:
あなたが私の書き込みをどのように受け止めようと、それはあなた自身の内なる世界のことですからどうこう言いません。
勝ち負けを目的として書き込みや議論をしているわけではありませんが、「あっしら氏自身が負けの条件を提示し、その条件が現実となったのであれば、潔く負けを認めるべきでしょう」というのは、どういう内容に関することかご説明ください。
私は、間違っていれば、ゴメンなさいでは済ませません。
なぜ間違った判断をしたのかを反省的に考え、それを表明します。
※ 参照書き込み
『「言った事に責任が持つ」とは』
( http://www.asyura.com/0304/war30/msg/438.html )