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(回答先: あなたの定義は役に立たないのではないか? 投稿者 あずさ2号 日時 2003 年 4 月 27 日 23:38:07)
あずさ2号さん、レスありがとうございます。
>しかし、この定義では、あなたがおっしゃるように「同一品質」のものの間でしか生
>産性の良し悪しは比較できないでしょう。例えば、販売管理のソフト(投入する資本
>量=総労働量100)と年賀状のソフト(投入する資本量=総労働量50)を作る場
>合の生産性の比較はどうするのですか?またベンツとマーチの生産性は比較できます
>か?知識労働の生産性はどのように考えますか?これらは、あなたの定義に従えば、
>「同一品質」ではないため、いずれも生産性の比較することはできないはずです。極
>めて特殊な条件下「同一品質」でしか使えない定義が、「自然科学」とおっしゃる経
>済学で有効な定義といえるものなのでしょうか?
まず、経済論理を見る指標が生産性だけだと主張しているわけではありません。
生産性は経済活動の自由度や収益を確保する重要な指標ですが、需要の少ない財の生産性を高めてもそれほどの意味があるわけではありません。
元々が「構造改革」批判を目的とした書き込みですから、「構造改革」派の人たちが生産性という言葉を持ち出しているので生産性という言葉が多用されていることをご理解ください。
Q1:販売管理のソフト(投入する資本量=総労働量100)と年賀状のソフト(投入する資本量=総労働量50)を作る場合の生産性の比較はどうするのですか?
販売管理と年賀状のソフトといった質が異なる財の生産に投入資本量=総労働量を比較して、どちらの生産性が高いか低いかといった判断をすることはできません。
示された例が同一企業の同一開発チームの数値であれば、販売管理ソフトは、年賀状ソフトに較べて2倍の工数を必要とするということに近い話です。(ざっぱくに言えば、2倍の手間がかかるということです)
二つ以上の企業のソフト開発における生産性を比較するのなら、同じ仕様でかつきちんと動く販売管理ソフトもしくは年賀状ソフトを作成するのに、投入しなければならない資本量=総労働量を比較することになります。(給与水準は別でもかまいません)
たとえば販売管理ソフトの作成で、A社:投入資本量=総労働量100、B社:投入資本量=総労働量50だとすれば、B社は、A社に対して2倍の生産性を誇っていることになります。そして、B社はA社の半分の価格で受注できることも意味します。
販売管理と年賀状のソフトといった質が異なる財については、付加価値や収益性でどちらを作成して販売したほうがいいかといった判断を行う対象になります。
投入資本量=総労働量が100の販売管理ソフトの販売見込み価格が110で、投入資本量=総労働量が50の年賀状ソフトの販売見込み価格が70であれば、年賀状ソフトのほうが収益性が高いと判断できます。
しかし、ソフトを作成する人たちを自由に雇ったり解雇したりすることができないのであれば、ある期間の給与がきちんと支払える販売管理ソフトを実際に作成する可能性もあります。(年賀状ソフトを同じ条件で次々と作成し販売できるのなら年賀状ソフトですが、むこう3ヶ月間の仕事としてどちらかを選択するという場合です)
Q2:またベンツとマーチの生産性は比較できますか?
これは一応自動車の生産という範疇内に収まるので、まったく比較ができないというわけではありませんが、それなら、プレジデントとベンツのなかの同格車種を比較するほうがずっと妥当性があります。
異なる車格しかない自動車メーカーの生産性を推定的に比較したいのなら、異なる車格を1台対0.4台といった理論台数に換算することで可能になります。
ブランドや品質に関する差異は、マス販売商品であれば、価格差でほぼ埋めることができます。メーカーは、それを勘案しながら価格設定を行い、シェアの拡大を目指しています。(マーチを安くしたからといって、ベンツの購入層がマーチに乗り換えるのは極めて少ないはずですが...)
異なる会社の乗用車部門の生産に関する資本効率を比較したいのなら、台数ではなく同じ金額の売上げを達成するためにどれだけの投入資本量=総労働量が必要かで判断することができます。
そして、このような資本効率の比較は、別種の財を生産し販売している企業の比較にも幅広く適用できます。
Q3:極めて特殊な条件下「同一品質」でしか使えない定義が、「自然科学」とおっしゃる経済学で有効な定義といえるものなのでしょうか?
国民経済比較において極めて重要で有効な概念です。
「同一品質」を経済論理的に表現すれば、同じ使用価値を持つものということになります。
同じ使用価値を持つ財を同じ量だけ生産するのにどれだけの資本(労働量)を投入しなければならないのかという生産性の違いが、自由貿易条件における国民経済の成長を規定するからです。
19世紀の英国は、普及品綿布をインドよりも少ない投入資本量で生産できること(運送費を考慮しても)で成長を遂げました。(当時の英国は生存費的な賃金水準ですから、当時のインドと同じと考えることができます)
※ このあたりの説明は、前回提示した参照書き込みにあります。
現在でも、いわゆるマスプロダクト&マスセールスの財が主流ですから、同じ使用価値を持つ財を高い生産性で生産できる国民経済は貿易収支の黒字を計上することができます。
さらに言えば、無限大の生産性差異という状況も指摘できます。
自動車をエンジンから一貫生産できる国民経済は限定されています。
一貫生産できる国民経済のあいだでも、生産性に差がありますが、自動車を一貫生産できる国民経済とできない国民経済では、自動車という現代では主要な財の生産性において無限大の開きがあるということになります。
自動車を一貫生産できない国民経済に属する人たちも自動車を購入しますから、自動車をより高い生産性で生産できる国民経済は有利な経済成長条件を保持していることになります。
>一方、生産性をノーマルにインプットとアウトプットの関係ととらえれば、プログラ
>マ1人当たり、1時間当たり、プログラム1行当たり、といったような形で生産性を
>測定することができます。だからOECDの定義でも、「産出物を生産要素の一つに
>よって、割り算して得られた商」となり、米国の労働統計局でも、「一定の財貨量の
>生産と、一ないしそれ以上の投入要素量との比」と定義されるのではないでしょうか?
マイクロソフトがインドでソフト開発を重点的に行い、日本メーカーも開発拠点を一部中国に移しているように、「プログラマ1人当たり、1時間当たり、プログラム1行当たり、といった」比較では経済活動(経済事象)を把握することはできません。
なぜなら、日本人のプログラマよりもインド人や中国人のプログラマのほうが、1時間当たり多くプログラムを書けるわけではなく、プログラム1行当たり少ない時間で済むわけではないので、なぜそのような動きになっているかを理解することができません。
インドや中国でソフト開発したいと考えるのは、教育水準の高さと生活費の低さから、同じソフトを完成させるためのプログラマが確保できるとともに投入しなければならない資本量(総労働量)が少なく済むからです。
まさに資本量=労働量とも言えるソフト開発であれば、同じスキルを持つプログラマの人件費の高いか安いかが極めて重要になります。
米国の労働統計局の「一定の財貨量の生産と、一ないしそれ以上の投入要素量との比」は、財の生産における資本効率の比較方法としては正しいと考えています。
(私が定義している生産性は、資本効率と類似的なものですが、より根底的なものです)
また、資本効率を生産性と置き換えて元の書き込みに適用しても、説明はそのまま通用性を維持しています。
※ ソフト開発については、自動車を一貫生産できるかどうかと同じで、あるテーマを実現できる能力を持つプログラマと持たないプログラマの生産性を比較することはできません。