投稿者 dembo 日時 2001 年 10 月 09 日 17:01:14:
イスラムとケシとパイプライン ――きたるべき戦争の背景――第1部
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2001.10.6 リチャード・タンター
(翻訳:中尾ハジメ)
http://www.kyoto-seika.ac.jp/newdi/kankyo/maga/magazin108.htm
1985年の夏、私は当時ソビエト連邦の一共和国であったタジキスタンのタシケントで開かれた国連大学の軍縮問題の専門家ワークショップに招かれた。ワークショップに参加したソ連の専門家たちは、中東、特にイラクについてのスペシャリストであり、後にロシア諜報機関の長となり、さらに後にはボリス・エリツィン大統領のもとで首相となったエフゲニー・プリマコフに率いられていた。プリマコフは聡明かつ抜け目ない男で、肉づきのよい顔にトカゲのような目をしていた。その目は微笑んだとしても、ほんとうの温かみを感じさせるものではなかった――彼を訪ねてくる人間に好印象をあたえようとするとき、そして酔っ払っているとき以外は。ソ連の中央アジアの中心タシケントでの会合、プリマコフの西アジアについての専門知識、そして彼がまちがいなく政治的コネクションの中核深くにいるということ、これらのことが中央アジアのソ連――より正確には、ロシア――にとっての重要性を明かに示していた。
陰気なタシケントを後にしての、シルクロードの都市サマルカンドへの一日旅行は予期せぬよい経験だった。信じられないような景観の上を飛行機でとびサマルカンドにつくと、私はほんとうに別の国にいた。アジアの一部ではあっても、まったく経験したことのない世界だった。私は、パキスタン人のトロッキスト、タリク・アリと一緒だったが、彼は苦もなくサマルカンドの土地にとけこんでいた。道すがら会う男たちに挨拶するのに、柔らかな手つきと「サラーム・アライカム」――アラビア語で「平穏がありますように」の意味――の言葉をかわす。たちまち、その挨拶でタリクは、ウマット・イスラム――すべてのイスラム同朋――の一人と受けいれられる。そして私は突然のように、イスラムが国境を超越する力の深さを、そしてウズベキスタンはソ連の一部ではあってもその深部でイスラムの土地であることを悟ったのだった。
サマルカンドを上空から、あるいはその周囲の山岳の上から見れば、市の中央広場レジスタンの周りに立つ三つの大きなモスク、マドラッサの輝く青い瓦のドームが目に焼きつく。数世紀を経てなお教示の中心でありつづけるこれらのモスクを歩きながら、私はイスラムの美術と建築に驚嘆するしかなかった。あふれんばかりに焼きついたイメージを忘れることはないだろう。
一週間後、会議は終了し、私はモスクワの美術館を案内されていた。そこにある絵画にも、また政治問題についての会話にも関心を振りむけねばならないといった状態だった。突然、たくさんの絵がかかっている壁面のひとつに小さな、明るい絵があるのが目にとまった――19世紀中頃の油絵でレジスタンと三つの豪華なマドラッサを描いたものだった。マドラッサの美しさと、そこで過ごした友人たちとの時間を思い出して、私は幸福な気持ちになった。しかし、その絵をよく見るうちに、広場に描かれているのは兵隊であり大砲であることに気づいたのだ。ロシアの絵描きは、イスラム建築の美しさをたたえながら、南下する帝政ロシアが力づくでウズベク人、トルクメン人、カザフ人、タジク人を「平定」したというリアリティーをしっかりと記録していた。
ウズベキスタンの美しさ、深いイスラムの風土、そして膨張するロシア――そして後のソ連――帝国がウズベキスタンを支配するために行使した暴力。私はこの一、ニ週間、アメリカが、ウズベキスタンの隣国アフガニスタンにたいして開始するであろう戦争について考えたが、これらのことを思い出さないわけにはいかなかった。
■天然ガスとヘロイン
ニューヨークとワシントンでの惨事についてのマスメディアの時事解説は洪水のように溢れているが、これまでのところ、概してテロリズムの原因を見ようとすることには躊躇がある。大学教育を受けた、明らかに知的な若者たちが、自分自身のみならず数千人の罪のない人々を殺すことになったのは何ゆえだろうか。アメリカの中東における外交政策が危険な状況をつくりだしたことについて若干の議論はあったが、アフガニスタンにたいして始まろうとする戦争の背景となる二つの特に重要な側面については、ほとんど何もメディアの注目を受けていない。
その第一は、ビン・ラディンおよび他のテロリストにたいするアメリカの闘いと、石油と天然ガスをめぐる中央アジアの政治状況との関連である。アメリカは、中央アジアの広大であるが海から遠く陸封された油田および天然ガス資源をコントロールすることに、また炭化水素からなる金塊ともいえるそれらの資源を輸出するのに必要となるパイプラインをコントロールすることに、深い利害関係がある。アフガニスタンのすぐ北に位置するトルクメニスタンの巨大な天然ガスと石油資源に、アメリカ政府はこの10年来、アメリカ主導の企業グループによる計画を強力にバックアップしてきた。すなわち、トルクメニスタンからアフガニスタンを横切りパキスタンに至る石油パイプラインと天然ガス・パイプラインの計画である。そのようなパイプラインができれば、アメリカにとって重要な利益をもたらすことになるが、それは次ぎのような点においてである。
* 中央アジアの石油・天然ガス産出国を、ロシアの影響圏から引き離し、アメリカの立場を強いものにする基盤ができる。
* 天然ガスをめぐるトルクメニスタンとイランの繋がりを制限することによって、またアラビア海に抜けるトルクメニスタン−イランの石油パイプライン計画を挫折させることによって、イランが周辺地域への影響力を伸ばすことを阻止できる。
* アメリカの石油および天然ガス資源をさらに分散し、また生産拠点を増やし、価格を低く押さえることができる。
* アメリカの石油会社および建設会社にとって有利な状況をつくりだすことができ、企業は中央アジア地域でさらに利益をうることができるようになる。
* 中央アジア地域の経済的繁栄の基盤を準備することになり、それはおそらく政治的安定の基盤ともなるだろうと期待できる。
これらの利害・関心はたいへん大きなもので、それゆえ1990年代のほとんどの時期アメリカは権力の座を求めるタリバンを支援したのだ。すなわち、アメリカと同盟関係にあるパキスタンとサウジアラビア二国の直接的なタリバンにたいする財政的および軍事的支援を大目に見ることにより、またアメリカの石油会社への積極的な働きかけによってである。スンニ派イスラムのとりわけ初原的な世界観を信奉するタリバンは、アフガニスタン内部と隣国イランのシーア派イスラムに深い敵意をもっており、このこともアメリカにとっては有利に働いた。パイプライン建設に決定的な条件はアフガニスタンの政治的安定であり、一時はアメリカはタリバンがその安定性をもたらすことができると信じていたのである。かつてはアメリカによって支援されていたが公然と反アメリカを主張するようになったビン・ラディンをタリバンが許容することがなければ、また女性にたいする抑圧をはじめとする社会問題への目に見えて極端な弾圧的な方針がなかったら、おそらくアメリカはタリバンへの支援を継続し、パイプラインの建設は進められたにちがいない。イランは、タリバンへのパキスタンとサウジの支援の背後にアメリカがおり、それはイランを封じこめようという長期計画の一部であると信じていた。しかし、過去何度もそうであったように、「敵の敵は味方」という原理にもとづくアメリカの外交政策がもたらしたのは、ニューヨークとワシントンの大惨事を産み出すにいたる状況ばかりであったといえる。
マスメディアの時事解説では語られることのない第二の重要な側面とは、ヘロイン・コネクションであり、これもまたアメリカで「ブローバック・逆流」と表現される途方もない帰結である。
アフガニスタンは、少なくとも昨年まで、世界最大の阿片ケシの生産国であり、国連によれば世界の生産量の75%を占めていた。その95%はパシュトゥン人が優勢な南部、タリバンの本拠というべき地域で生産されていた。
数年にわたってタリバンは阿片ケシの生産と輸出のためのヘロインの生産を許容してきたが、昨年ケシの生産を全面的に禁止した。国連のオブザーバーによれば、この政策は実施されケシ畑は刈り払われている。しかし、20年にわたる戦争によって廃虚と化し貧窮にあえぐアフガニスタンの経済生活は、ヘロイン生産と輸出のためのケシに依存している。イランやパキスタンのような隣国には、ヘロイン中毒者が数百万人いると見積もられており、ヘロイン密輸入のもたらす膨大な利益がアフガニスタン周辺地域の社会秩序を崩壊させていることはまちがいない。
アメリカは、ビン・ラディンのアルカエダ・テロリスト・ネットワークの資金源の多くは麻薬取引の利益であると主張している。この主張そのものは、正しくても間違っていても、テロリズムのもう一つの驚愕すべき背景を思い出させることになる。1980年代アフガニスタンの反ソ連抵抗運動は、アフガニスタンのヘロイン経済をアメリカが助長することから作戦資金を得ていたのである。ニューヨークのテロリズムは、まさしくアメリカ人が「ブローバック」と呼ぶものだった。アメリカ政府のシニカルで心得違いの外交的操縦の帰結として、数千人のアメリカ人が犠牲となったと言わなければならない。