(回答先: 宗男の右腕“ラスプーチン佐藤”の正体 外務省の3人の”宝”の1人だった ZAKZAK 投稿者 倉田佳典 日時 2002 年 2 月 26 日 17:38:47)
ラスプーチン佐藤、モーレツ仕事師の悲劇
記者顔負けの夜討ち朝駆け、戦車も止めた男
「ソ連の要人の家に連日、夜討ち・朝駆けを続けている日本大使館員がいる」。モスクワでこんなうわさを耳にしたのは、ゴルバチョフ政権下でペレストロイカ(再編)が軌道に乗り始めた1987年秋のことだった。この外交官が当時まだ27歳でいわゆる「ノン・キャリア」の三等書記官「佐藤優」=写真=なる人物であることはすぐに知れた。(産経新聞モスクワ支局長 斎藤勉)
佐藤に会い、度肝を抜かれた。夜討ち・朝駆けの対象はソ連の政界、経済界、学界、マスメディア、ロシア正教会、国家保安委員会(KGB)関係者、果てはマフィアの親分…と、表と裏世界の隅々にまでおよび、しかもその手法は新聞記者の私も全く顔負けだった。
早朝、出勤前に平均2人、真冬の凍(い)てついた夜でもウオツカを手に深更まで昼間仕込んだ住所を探しあて、2人、3人、4人と相手のアパートの扉をたたき続けた。
佐藤のこの粉骨砕身の地道な努力が培った幅広い人脈は数年後、赫赫(かくかく)たる成果を生んでいく。
1991年1月、リトアニアのテレビ塔を死守する独立派民衆にソ連軍の戦車が襲いかかり、13人の犠牲者を出す「血の日曜日事件」が発生。戦車は「独立運動の砦(とりで)」・リトアニア最高会議に次の攻撃の照準を定めていた。現地入りした佐藤は人脈をフル利用し、攻撃側のリトアニア共産党・ソ連派幹部と独立派幹部の間を何度も行き来して説得工作を繰り返し、ついに戦車の進軍を阻止したのである。最高会議には数百人の民衆が立てこもり、武力衝突は大流血を意味していた。
「バルト三国の民族衝突拡大はソ連全体の行方を一段と不透明にし、これを阻止することは日本の国益に合致すると必死でした」。佐藤はのちに記者にこう述懐した。
同年8月、当時のソ連大統領、ゴルバチョフをクリミア半島に一時軟禁したソ連共産党守旧派(左翼強硬派)によるクーデター未遂事件が起きるや、佐藤はモスクワ・スターラヤ広場のソ連共産党中央委員会に陣取る「クーデター本部」に顔パスで潜入した。
ゴルバチョフの生死が世界中の関心を呼んでいた時に、佐藤は「ゴルバチョフは生きてクリミアにいる。表向きの病名はぎっくり腰だ」との情報を世界に先駆けてキャッチ、至急報の公電を東京に送った。
佐藤が衆院議員・鈴木宗男と運命的な出会いをするのは、このクーデター未遂事件の直後、一斉に独立宣言したバルト三国でだった。91年9月、日本が独立を承認した同三国に鈴木は政府特使として派遣され、その通訳と車の手配などを任されたのが佐藤である。「われわれは、“共産主義は悪”との信念を分かち合い、意気投合した」と佐藤は話している。
当時、外務省内外で「異能」との評判が立ち始めた佐藤だったが、彼自身は折に触れ「ボクの情報はどう活用されているのかなぁ」とぼやいた。佐藤のモノにつかれたような情報収集活動の主要な動機に「外務省内で認められ、はい上がりたい」との上昇志向が働いていたことは疑いない。
極論すれば、黙っていてもそれなりに昇進していくキャリアと違い、ノン・キャリアは仕事に骨身を削り尽くし、その成果が目立たない限り迅速な出世は望めない。日本の官僚機構はそんな歪(ゆが)んだ構造になっている。
政府内や外務省幹部のごく一部には「佐藤の情報収集能力と国際情勢の先読み能力の凄(すご)み」を素直に評価する向きも出ていた。だが、東京から出張してきた外交官は「佐藤の情報はキャリアの手柄にされたり、握りつぶされたりもしている」と明かしたものだ。佐藤の苦悩は異能ゆえに一層深かったはずだ。
佐藤はしかし、98年9月、突如、課長補佐級の主任分析官に抜擢(ばつてき)される。彼の力量から見れば当然のポストだったろうが、省内外では「鈴木人事」とうわさされた。鈴木は佐藤の異能を認め、自らの政治的野望実現の“頭脳”として重用し、キャリアに頭を押さえられてきた佐藤は政治権力と密着する道を選び取ることで初めて異能を開花させうる「自己実現」の場を得たのだ。
佐藤が一種の政治的うさん臭さを鈴木に感じ取っていたとしても、外務省を手玉に取れる権力を持ち、世界の情報機関さえ一目置くようになった自分のソ連・ロシアの人脈ネットワークを正当かつ高く評価してくれる鈴木に賭けたのだ。
だが同時に「鈴木の威を借りてかつての上司を怒鳴り上げる不(ふ)遜(そん)な態度も目立つようになった」(外務省筋)。政治権力の蜜(みつ)の味に外交感覚や人格までまひしてしまったのだとしたら、極めて遺憾なことだ。そして、鈴木の一連の疑惑に佐藤が仮にかかわっていたとすれば外交官の職分を踏み外した許し難い所業だ。
「佐藤優」は善きにつけ悪しきにつけ、外務省の歪んだ硬直構造と体質が生んだ象徴的な“落とし子”である。佐藤とそのグループを切り捨てるのは容易い。だが外務省は「良き面の佐藤イズム」を早急に幅広く育てる柔構造への抜本改革に邁進(まいしん)しない限り対露外交に明日はなかろう。
※文中敬称略
ZAKZAK 2002/03/01
http://www.zakzak.co.jp/top/t-2002_03/3t2002030107.html