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(回答先: 広瀬隆さんについて、評価と批判 投稿者 小川 日時 2002 年 6 月 30 日 23:38:25)
「危険な話━チェルノブイリと日本の運命」広瀬隆著(八月書館1987年刊)から
■日本のジャーナリズム
日本のマスコミを絵に描くと、民放のテレビ局は、これは東京の例ですが、すべて新聞社とこのように資本でつながっています。
4チャンネルが読売新聞と日本テレビ
6チャンネルが毎日新聞とTBSテレビ
8チャンネルがサンケイ新聞とフジテレビ
10チャンネルが朝日新聞とテレビ朝日
12チャンネルが日経新聞とテレビ東京
そこで、テレビ局を調べると、民放は最大のスポンサーが電力会社で、しかもニュース番組を完全におさえている。具合の悪いニュース番組は極力流さないようにできます。内部の人に会って話を聞くと、「テレビ局は、あれはジャーナリズムなんてものじゃない。恥ずかしいことだが、何も言えないのと同じだ。どうでもいいニュースばかりを追っていて、肝心の最大の問題を放り出している」と自分で言うぐらいですから、推察してください。
NHKは大丈夫かと言えば、経営問題委員が平岩外四、これは東京電力の会長ですよ。
解説委員の緒方彰、このいかめしい顔をしながら、原子力産業会議の理事です。
放送番組向上委員の十返千鶴子、NHK理事で放送総局長の田中武志が、いずれも原子力文化振興財団の理事です。この財団は、東京の新橋にオフィスを訪ねてみましたら、原子力産業会議と同じビルの同じフロアにあり、『原子力文化』というPR雑誌を発行している原子力の宣伝部隊です。これを開くと、チェルノブイリ事故直後の七月号に、放射線医学総合研究所の館野之男という人物が、「退避の必要なかったワルシャワ市民」というとんでもないことを書いています。彼こそ、日本の新聞紙上で「すべて安全」と言い続けてきた人物です。
4チャンネルから12チャンネルまでの民放はやはり同様の仕組みで、表に見られる通りです。ひとつずつ、ゆっくり読んでください。
朝日の一例を引きますと、原子力関係の記事は科学部がチェックすることになっている。検閲ですね。そして科学などまったく知らない人間が、当局の言葉通りに記事を修正する。悪名高い論説主幹の岸田純之助が、彼は原子力委員会の参与でしたが、「原発に反対する記事を書いてはならない」という通達さえ出している。彼に育てられた大熊由起子が、いまや論説委員に昇格して健筆をふるっているわけですから、いかに誠意ある記者がいても駄目です。
デスク・サイドで検閲をやれば、素晴らしい記事も最後のところで当局の言葉や数字が利用され腹の力が抜けるようになっている。勿論、朝日だけではありません。すべての新聞社が同じです。しかもこのごろの若い記者は、たとえば科学部であれば科学技術庁や原子力局に詰めて、これら当局の人間と毎日楽しく話をしたり酒を飲んで、その言葉しか知らない。それは、いつも一緒にいれぱ騙されますよ。ジャーナリストとして客観的に離れて見ることをしない。政治部は中曽根番とか竹下番というように、経済部は大蔵省や経済企画庁にべったりで、何ら批判する能力も勇気もない。
彼らはすでに記者としての資格を失っています。私のところへ来れぱその通り書く。記者でなくメッセンジャー・ボーイですね。記者としての自分のすぐれた調査と分析というものを、ほとんど見ることさえできない。これは私だけが言っているのでなく、最近非常に多くの人から耳にする言葉です。なぜここまで腐り切ってしまったのでしょう。数年前までは、このようなことはなかった。最近私は、自分の子どもたちを殺すのが、このジャーナリズムだという思いを痛いほど強く感じるので、ここはしっかり話しておきます。彼らが私たちを殺すのです。
いまや新聞記者は、超エリート集団です。ここにすべての原因があります。彼らが自ら受験戦争を鼓舞し、自ら誇りをもって競争に勝ち抜いてきた。しかし何と哀れな存在でしょう。それが社会を論ずる記者の態度ですか。
エリート意識などやめてください。たかが大学を出たぐらいで、何も知らずに鼻高々となっている。エリート意識というのは、劣等感があるからこそ生まれるものだ。自分が確固たる信念や哲学を持っていれば、劣等感など持つはずがない。ところがそれがないものだから、他人と競争して勝つことによって、ようやく自分の存在意義を発見できる。その瞬間、自分はエリートに変貌しているわけです。
しかし私たちにとってそこが問題なのは、彼らが新聞記者やジャーナリストになることを目ざしているのではなく、つまりさまざまの問題を自分個人の鋭い目で観察したり分析するのではなく、朝日新聞社やフジテレビの社員になることを目的地としている点です。エリート意識の一本道は、ただその目的地につながるのみです。だからこそ、チェルノブイリの深刻さがまったく記事として現われない。
「まったく情報が入りません」などという言葉を、平気で私たちに語りますからね。このような言葉は、本来はジャーナリストとして自分は失格していると告白しているような恥ずかしいものではありませんか。
私は彼らに言いたい。自分個人に戻りなさい、と。社会問題など、この世に存在しないのです。すべて自分の問題ではありませんか。読売や日経や毎日の新聞社の社員になってしまうから、そのような目でしか取材できないのです。
ジャーナリストが、なぜ原発反対のデモに加われないのですか。記者という職業観など、人生にとって何の意味もありませんよ。いや、ジャーナリストだけでなく日本人全体が、ほとんどの人がこの職業観という幻想に振り回され、そのためにこのような危険が差し迫っていることに気づかないのではありませんか?
ひどい物書きが氾濫しているので、気をつけてください。たとえば私の本を読んで、「ここに書かれていることを確認できない」と書き、したがってひどい本だという論旨の評論にずい分めぐり会いました。彼らは、あまりに無能力で、あまりにも子どもです。評論家と自負するなら、なぜ自分で事実を確かめる努力を怠るのか。なぜ調べることさえできないのか。
実は、『億万長者はハリウッドを殺す』の内容を最も高く評価してくれたのが、皮肉にも私と真っ向から対立するはずの財界人や商社マンでした。彼らは少なくとも子どもでなく、第一線でロックフェラーやモルガンの代理人とわたり合い、金融の世界でしのぎを削ってきたので、容易に内容を理解できるのでしょう。ところが物書きや文化人は、叙情に溺れ、正義などという世界に遊んでいるため、何も知らない。私自身、調べるまでは何も知らない子どもでした。ジャーナリズムの遅れが、今ではよく分ります。彼らは、自分の子どもが殺されようという時にも、まだ物書き、作家、評論家、記者として机に坐り、落ち着いているのでしょう。