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そう遠くない将来での「近代経済システム」の終焉を予測しているが、将来を考えるためのステップとして、まずは歴史を遡って、70年代が世界経済においてどのような意味を持っていたか考えてみたい。
(「近代経済システム」は既に終焉を迎えているが、代わるものが構築されないのでダラダラと生き延びているという見方もできる)
戦後復興期を経て、先進諸国の経済成長期(後進国の新世界経済システムへの組み込み期)であった50年代・60年代の後を襲った70年代は、世界経済にとって大きな転換期であったと考えている。
[70年代の主要な出来事]
● “ニクソンショック”と言われた「ドル兌換停止」 − 先進国変動相場制へ −
● “第一次・第二次石油ショック”として知られる原油価格高騰
● 先進諸国における「スタグフレーション」 − 日本の高度成長終焉 −
● 米中国交回復と中国のU.N.代表権 − 中国封じ込め政策の転換 −
● ローマクラブによる「成長の限界」レポート
● 「ベトナム戦争」終結
● イランにおける「イスラム革命」
● ソ連の「アフガニスタン軍事介入」
現在に通じる経済的価値観や経済政策は、このような出来事があった70年代を経るなかで台頭してきたものである。
70年後期から80年代にかけて、米英で軌を一にするように“新保守主義”が台頭し、サッチャリズムやレーガノミックスと呼ばれる、それまでの主流であったケインズ主義的経済政策を否定する経済政策が志向されるようになった。
日本も、中曽根政権がその価値観を採り入れ、それを政策的に実現する方向を目指してきた。(欧州先進諸国は、“新保守主義”を志向しながらも、根強い国民の抵抗のためにじわじわと政策を推し進めている)
[“新保守主義”の特徴]
★ 建前として「小さな政府」を掲げる
建前としたのは、サッチャー政権を別として、レーガン政権や中曽根政権は、赤字国債を増大させ、建前に反する「大きな政府」を推し進めたからである。
★ 民営化
米国は核エネルギー関連以外にそれほど国営企業があるわけではないが、英国や日本には巨大国営企業があり、それらの民営化政策が進められた。
★ 規制緩和
「規制緩和」のなかで最大の意味を持つものは、“柔軟な労働力市場が経済成長をもたらす”という論理を背景とした解雇規制の緩和だと考えている。
“新保守主義”の発展形態が「グローバリズム」である。
97年に発生したアジア通貨危機で経済的苦境に陥った国に対してIMFが導入しようとした政策は、「財政支出縮小」・「規制緩和」・「資本取引自由化」・「為替レート維持」であり、民営化に代わる「外資による企業買収促進」である。
「完全雇用」をめざし、そのための一時的な「財政支出拡大」こそが持続的な経済成長を支えるとしたケインズ理論とは180度異なる考え方である。
IMFも、発展途上国に対する実態から建前だけとは言え、通貨の安定による国際交易の拡大こそが世界のみならず各国の成長を支えるものという設立趣旨から180度異なる政策に転換した。
このような価値観=政策の一大転換が70年代を通じて行われた。そうであるなら、70年代の世界経済になんらかの意味があったはずである。
70年代は、「経済成長が行き詰まったことを先進諸国の多くの人が認識した時代」と言えるだろう。
80年代以降、持続的な経済成長を達成したのはアジア諸国のみと言える。(米国は92年以降00年まで)
ラテンアメリカ諸国は、80年代に過剰債務とハイパーインフレに苦しみ、その打開策として受け入れたIMF処方箋も、昨年末に現出したアルゼンチン危機で疑問符が付けられている。(ブラジルも危機を経験したし、現在も危機が予測されている。チリのみがIMFの期待の星である)
旧ソ連圏諸国も、89年から始まった市場経済への移行に失敗し、89年レベルのGDPにさえ現在なお達していない国が多い。(東ドイツも西ドイツを引きずり込むかたちで停滞し、例外は、バルト3国やポーランドくらいである)
中東産油国も、資源依存型から脱却できず、経済制裁や人口増加のなかで苦境に陥っている。
アフリカ(サハラ以南)諸国は、資源大国南アフリカも含めて、経済状況は悪化する一方である。資源を持たない国は見捨てられ、資源を持つ国は資源をめぐる争いに終始するといった状況である。
90年代に限ると、先進国で経済成長を遂げたのは米国だけであり、それにのっかったアジア諸国が97年まで順調な経済成長を維持してきたという構図である。
現在という微視的観点で言えば、中国だけが沿岸部という条件付きで経済成長を維持していると言っても過言ではない。
中国経済成長の原動力は輸出拡大である。
世界の総需要が増えないという前提に立てば、「中国の経済成長は他の国の経済を停滞させる」ことになる。(中国から工業製品を輸入する国は、総需要が増えない限り、別の国からの輸入を減らすか、自国の生産を減らすことになる)
日本の高度成長期であった時代は、英国を除く先進諸国も、日本レベルではなかったが経済成長を遂げた。
米国・日本・ドイツを牽引力としながら、国際交易を通じてそれなりの国際水平分業が実現されていたと言える時代である。発展途上国は、この過程で、原材料の輸出と工業製品や農産物の輸入という国際垂直分業のなかに位置づけられた。
米国←→その他先進諸国←→発展途上国という三角交易によって、世界経済は拡大を続けた。それを支えたのが、米国の金融“援助”・製品輸入・軍事的政府支出であり、IMFと世界銀行を中心とした金融“援助”である。
しかし、70年代のスタグフレーションを通じて、このような世界構造が経済成長を実現する原動力にはならないことが認識されるようになった。
現在では当然視されている自由な資本取引も、為替の変動相場制移行を契機にして、徐々に広がったものである。(固定相場制であれば、それを維持するために資本取引を規制するのが合理的で、日本・欧州先進諸国のみならず政府勘定(軍事支出)の赤字で喘いでいた米国さえも規制を行っていた。米国政府は、民間に、政府が垂れ流したドルを吸い上げるために外国でドルを調達するよう規制した)
73年に発表されたローマクラブの「成長の限界」は、人口問題と環境問題を切り口に、そのような認識が経済支配層から打ち出されたという意味で象徴的なものである。
いわゆる環境派の台頭も、ローマクラブのレポートが引き金になったと言えるだろう。
原油価格の高騰も、「増大する人口が食糧危機を招き資源を浪費する」というローマクラブ的考えに適合するものである。(価格が上がれば、貧乏人(国)はなかなか利用できなくなり、消費も抑えられる)
イランの「イスラム革命」は、その後、イラン−イラク戦争につながり、対象はイラクだが“湾岸戦争”まで進んだように、現在の“中東政策”の発端となった出来事であり、「イスラエル建国」に匹敵する変化と位置づけることもできる。
70年代は対共産国政策も大きく転換している。
中国を“世界経済”に組み入れ、ベトナム・ラオス・カンボジアの“共産化”も容認した。中国の現在の経済成長も、70年代の“米中和解”なくしては達成できなかったはずである。
その一方で、ソ連崩壊の一つの要因となった「アフガニスタン軍事介入」が始まった。
面白いことに、日本・フランス・米国などの左翼的な学生運動も、70年代を通過するなかで沈没していった。
このようなことを前提に、「世界経済の支配層は、70年代に何を見、何を考えたのか」を次回の書き込みで見ていきたい。