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回答先: 魔術師ゲーテとファウスト大予言!(『ムー』87年4月号) 投稿者 SP' 日時 2000 年 6 月 01 日 09:14:54:
『わが友モーツァルト』(井上太郎著、講談社現代新書)p92-104より抜粋。
フリーメイスンとは何か
フリーメイスンというと、何か不気味な秘密結社を連想しがちだが、実体はそのようなものでは全くない。自由、平等、博愛をかかげる団体である。現在でも続いており、会員数は全世界で約六百万人といわれている。特にアメリカに会員が多く、歴代大統領のうち会員は十数名に上る。
その起源は非常に古く、中世以来、築城や大聖堂建築にたずさわった石工の組合から始まるといわれる。彼らはロッジと呼ぶ小屋で共同生活をし、自分たちに伝えられた建築・土木の技術に誇りを持って、みだりに外部に漏らさなかった。そのために、秘密厳守のしきたりができたのである。
十八世紀になると大聖堂建築のような仕事は減り、石工組合も有名無実となる。そして次第に精神的な集団へと変って行くのだ。一七一七年に初めてロンドンに大ロッジが作られ、一七二三年にはこの運動の最初の憲章ができて、フリーメイスンは博愛主義をモットーとする団体として形を整える。つまり石工ではない「象徴的メイスン」の時代となるのである。
十八世紀に盛んであった啓蒙思想が、フリーメイスンの発展をうながしたことは間違いない。十八世紀はまさに、フリーメイスンの世紀といってもよいのである。
特にモーツァルトの時代は、その絶頂期であった。当時の著名な人物でフリーメイスンに加わった人は非常に多い。フリードリヒ大王、神聖ローマ帝国の皇帝でマリア・テレージアの夫であるフランシス一世、ヴァイマール大公カール・アウグスト、アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントン、ゲーテ、レッシング、スウィフト、ボーマルシェといった人たちがいる。
ヨーゼフ二世はフリーメイスンではなかったが、母親のマリア・テレージアが出したフリーメイスン禁止令を撤廃し、理解のあるところを示している。
宗教における絶対的な支配をかかげるローマ・カトリックは、フリーメイスンを邪教として排斥したが、フリーメイスンは宗教団体ではない。これに加わった人々の中には、熱心なカトリック教徒やプロテスタントの牧師もいたのである。モーツァルトも死ぬまでカトリックとして、これに加わっていたのだ。
薔薇十字団と啓明団
フリーメイスンには、会員相互の間の認識方法や、独特の儀式など、部外者にはうかがい知れないところが少なくない。それはモーツァルトの時代でも同様であった。彼らは、自分たちを排斥しようとするローマ・カトリックに気をくばると同時に、フリーメイスン内で対立する他の派にも、秘密を堅持したのである。
オーストリアのフリーメイスンの主流には、薔薇十字団と啓明団の二つがあった。薔薇十字団は、十七世紀頃からあった神秘主義の魔術に関心を持つ団体で、それが後にフリーメイスンの一派を名乗るようになったのだという。
この中の有力者に、催眠術と磁気療法で有名なメスマー博士がいる。彼はモーツァルト一家と親しく、モーツァルトの少年時代のオペラ《バスチアンとバスチエンヌ》(K五〇)は、メスマー博士の邸内で初演されたのである。
もう一つの啓明団は、ルソーやディドロの理神論から出発したもので、一七七六年に結成された。ドイツ、オーストリアにおけるフリーメイスンの主流は、啓明団であった。モーツァルトが一七八四年十二月十四日に入会した「善行」Zur Wohltatigkeit という名のロッジも、啓明団の系列に属する。彼と終生親しかったヴァン・スヴィーテン男爵も、啓明団の有力メンバーの一人であった。
会員には階級があり、石工組合時代の伝統で、徒弟、職人、親方と分かれている。モーツァルトは一七八五年一月七日に、徒弟から職人へと昇進している。
フリーメイスンの一番の特色は、会員は皆兄弟であるということである。そして兄弟は平等であり、たがいに助け合わねばならない、というのが基本的な考えである。
自由であるが不安定な生活をしていたヴィーン時代のモーツァルトにとって、フリーメイスンの教義は、まことに都合のよいものであった。晩年にたびたび借金を申し込んでいるプフベルクがフリーメイスンだったので、モーツァルトはいつも、同志よ、と呼びかけては相互援助の精神に甘えている。
一枚の油絵をめぐる新説
一七八五年、ヨーゼフ二世の命令でヴィーンの八つの支部が三つに統合され、会合記録と会員名簿を警察に定期的に提出しなければならないことになる。これは薔薇十字団と啓明団の支部の合体という事態を招くことになり、メイスン内部は大いにもめた。結局、啓明団には二つの新しい支部ができ、モーツァルトは新たな「新・授冠の希望」Zur neugekronten Hoffnung というロッジのメンバーになるのである。
ヴィーンの市立歴史博物館に一枚の油絵がある。これはモーツァルトと親交のあったティンティ男爵の子孫から一九二六年に寄贈されたもので、フリーメイスンの儀式の有様をリアルに描いていて、はなはだ興味深いものである。
モーツァルト研究の権威O・E・ドイッチュは、この絵を、「真の和合」ロッジの儀式を描いたものとし、右端の人物を、このロッジを訪問したモーツァルトと考えられないことはないとしていた。
ところが、一九八〇年に、ハイドンおよびモーツァルトの研究で知られるロビンズ・ランドンが、「新・授冠の希望」の会員名簿を発見し、この絵が、実はモーツァルトの所属するこのロッジの儀式であり、そこに描かれている人物はモーツァルトに間違いないという新説を、一九八二年に発表した。
この新説を裏づけているのは、従来フリーメイスンの会員であるかどうか明らかでなかったニコラウス・エステルハージー侯(ハイドンが長年つかえた貴族)と考えられる人物を始め、「新・授冠の希望」の会員名簿に載っている人物が、何人も描かれているということにある。
青い服を着て剣をつるし、隣の赤い服の男と話し合っている人物こそ、会員番号第五十六番のモーツァルトであることは間違いあるまい。ランドンの考えによると、この絵は一七九〇年の儀式を描いたものという。
中央の目かくしをされたのが新入会者で、その斜め前に剣を持って立っている人物が、ニコラウス・エステルハージー侯らしい。侯はこのロッジの中心人物の一人だったことも、新発見の名簿から判明した。
なおこの名簿には、モーツァルトと関係深いヴァン・スヴィーテン男爵、プフベルク、シカネーダーの名前は見あたらない。その代り、後に《魔笛》の台本をめぐって、自分が書いたものだと主張した俳優ギーゼッケの名前が見える。
ハイドンからの讃辞
一七八五年二月十一日、ハイドンはモーツァルトとは別のロッジに入会した。
翌十二日、モーツァルトの家でハイドンに捧げられた新作の六つの弦楽四重奏曲のうち、後半の三曲が演奏されている。演奏したのは、モーツァルト父子とティンティ男爵兄弟であった。ハイドンはこの時レーオポルトに、
「私は誠実な人間として神にかけて申し
上げますが、御子息は私が直接知っている、あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な方です。御子息は優れた様式感を持ち、その上に比類のない作曲の技術を持っておられます」
という有名な讃辞を述べたのである。
四月四日、レーオポルトは息子と同じロッジに入会する。そして十六日には早くも職人の位に、そして二十二日には親方の位に昇進している。息子が職人の位であったから、父親はその上にしなければならないという配慮の結果であろう。
フリーメイスンのための音楽
ハイドンはフリーメイスンのための音楽は一曲も書いていないが、モーツァルトには、かなりの数のフリーメイスンの音楽がある。
それらはロッジにおける儀式や集会の際に演奏された。多くは素人にも唱いやすい合唱曲だが、ロッジの有力メンバーの死を悼んで作られたとされる《フリーメイスンの葬送音楽》(K四七七)は、この種の音楽の最高傑作として有名である。
また最晩年の一七九一年に書かれたオペラ《魔笛》(K六二〇)は、フリーメイスンの仲間で、劇団を主宰するシカネーダーのために作られたもので、メイスンの儀式や試練などが取り入れられ、メイスンの音による象徴も至るところに散りばめられている。
ただ筋書の上では善玉と悪玉とが入れ変るなど、矛盾が多いとされて来た。それをフリーメイスン的な観点に立って、夜の女王派とザラストロ派との派閥争いという見方もある。
しかし聴衆はそのようなことにはこだわらず、舞台に拍手を送った。一七九二年十一月三日(つまりモーツァルトが死んで約一年後)には、百回の上演がうたわれている。ドイツ各地でも競って上演され、旅廻りの一座までが、そのヴァリエーションを上演したという。
ところがフリーメイスンへの弾圧は、一七九〇年頃から非常にきびしくなる。それなのに《魔笛》はなぜ上演され続けたのであろうか。モーツァルトの死後、上演禁止になるであろうという風評も流れたといわれるのに。
幸運な誤算
私はこれについて次のように考えている。《魔笛》はフリーメイスンのパロディーとして受け取られていたのではなかろうか、と。
そのカギはパパゲーノにあるのだ。
第二幕で、パパゲーノはザラストロに仕える僧から次のように言われる。
「パパゲーノ! お前は永久に大地の深い裂け目をうろつくにしか価しない。しかし心暖い神々が、お前の罪を免じて下さったのだ。そうは言ってもお前は浄められた人たちの、天国にいるような喜びを味わうことは、決して出来ないのだ」
これに対しパパゲーノは、
「ようがす。おいらのような奴はいくらもいますからね。今は一杯のぶどう酒がありゃ、言うことなしなんですよ」
と答えるのである。聴衆はここでドッと湧く。フリーメイスンのマジメ人間を茶化しているのである。しかもパパゲーノをやったシカネーダー自身、実は不品行のかどで追放された「落ちこぼれ」フリーメイスンだったのである。
だが、こういう面ばかりを見ることは、モーツァルトの本心に反する。彼は荘厳な場面まですべて笑い飛ばしたバイエルン人を怒って「パパゲーノめ!」と怒鳴っているのだ。
モーツァルトの本心は、フリーメイスンの勝利を描くことにあったことは間違いない。それは大団円が語っている。しかし、これをそのままオペラにすれば、禁止の憂き目に会うことを、シカネーダーともどもに感じていたのではなかろうか。そしてパパゲーノなる人物を登場させることで、全体をパロディー化することを試みたのではなかろうか。
しかし皮肉なことに、パパゲーノがこのオペラで最も受けたのである。モーツァルトが怒ったバイエルン人は、最大多数の聴衆を代表していたのだ。劇場を埋めつくす人たちは、パパゲーノに最も大きな拍手を送ったのである。これはモーツァルトにとって幸せな誤算であった。モーツァルトはたとえば第二幕のパミーナのト短調のアリアや、鎧を着た二人の男の二重唱のフガートに、誇りを持っていたに違いない。しかしそのすばらしさを認めたのは、宮廷楽長のサリエリだけであった。彼は序曲から最後の合唱まで非常に熱心に聴いて、最高の讃辞を呈したのである。
謎につつまれたモーツァルトの死
それから二ヵ月もたたないうちに、モーツァルトは死の床につく。フリーメイスンに対する弾圧は、レーオポルト二世配下の秘密警察の手によって、ますますきびしいものとなっていた。
十二月四日、モーツァルトの病状は、もはや回復の見込みがなかった。カトリックとしての最期を全うするため、終油の秘蹟を授ける司祭が呼ばれた。しかし司祭は、再三の要請にもかかわらず、ついに現れなかった。
翌五日午前一時前、病人は息を引き取る。
その日、モーツァルトと最後まで親しく、葬儀のすべてを取りしきったメイスンの同志ヴァン・スヴィーテン男爵は、宮廷の要職から解任された。そして翌六日、モーツァルトと同じロッジの会員のホーフデーメルは、美貌の妻に重傷を負わせ、自らの命を断つ。夫人はモーツァルトの弟子で、師弟は親密な関係にあったという。
多くの謎が、モーツァルトの死のまわりに立ちこめている。しかしその答は、彼の遺骸とともに、歴史の深い闇に呑まれたのである。