Tweet |
回答先: 思いやり予算の源流に/沖縄返還の「裏負担」 投稿者 5月30日 琉球新報 日時 2000 年 5 月 30 日 12:55:18:
<2000年5月30日>
外交文書公開
ほころびは広がるばかり
米軍の戦力保持は大前提
在沖米軍基地の実態を、次々明らかにされる米国や日本の外交文書に照らして考えると、納得がゆく。
そして、沖縄をめぐる日米の外交交渉に一貫しているのは、米国の基地機能を損なうことなく、できるだけ安いコストで基地を維持し
ていく姿勢であり、日本の対米追随的な外交姿勢であろう。
一九七二年の沖縄返還に当たり、日米両政府は「核抜き・本土並み返還」に合意し、復帰が実現した。
だがそれは、復帰後も米軍の施設・機能が従前通り維持されるという米国の基本原則が満たされてはじめて可能であったのだろう。
実質的に米軍基地の自由使用を保証し、核についても緊急事態(有事)の際の持ち込みを認めた密約の存在が、米外交文書などから相
次いで明らかにされていることも、そうしたことを実証していると言える。
二十八日付で公開された政府の外交文書からは、沖縄返還を実現した佐藤栄作首相が台湾の蒋介石総統に、沖縄の日本復帰が実現して
も「米国の極東防衛体制の弱化を招くことは本意ではない」と、伝えていたことが明らかになった。
沖縄の返還交渉が大きく進展した六七年十一月の日米首脳会談の二カ月前のことである。佐藤首相は、対米交渉方針を事前に台湾に伝
達したわけだ。
当時米側には、ベトナム戦争や中国の「核の脅威」への対応に追われる軍部を中心に「返還消極論」が根強かった。
また、台湾や韓国は、中国の脅威を深刻に受け止め、沖縄返還に伴う米軍基地機能の低下を危ぐしていた。
「沖縄が復帰しなければ戦後は終わらない」と言っていた佐藤首相には、台湾の不安を静めれば、台湾防衛義務を負っていた米国を説
得できるとの期待があったとされる。
とはいえ、沖縄には核貯蔵庫がある。沖縄返還で「極東米軍の戦力を阻害しない」ことを前提にすれば当然、核兵器の問題にぶつか
る。
首相は六九年三月、「核抜き・本土並み」返還を明言、同年十一月のニクソン米大統領との会談で合意に達した。しかし、この時の核
密約の有無がその後も問題になっている。
日本政府は否定しているが、首相の特使だった若泉敬・元京都産業大教授が著書で密約の存在を暴露して以来、それを裏付ける公文書
も明らかになった。
日本政府は追随するだけ
その意味では、沖縄返還は有事の際の核再持ち込みを含め、米軍基地の自由使用を保証することによって実現した。少なくとも、「極
東米軍の戦力を阻害しない」ことを前提に合意されたことは間違いあるまい。
佐藤首相の首席秘書官だった楠田実氏は、共同通信社のインタビューにこう語っている。
「米国に沖縄返還を求めるけれども『基地を撤去してくれ』と言っているのではない。『施政権を返してくれ』と言っているわけだか
ら『軍事バランスは変わらない。基地が大幅になくなったりしない』ということだ」
現に、復帰後、米軍基地の施設数は半減した。だが、面積では一七・一%の減少でしかないことも、米軍が基地機能の維持にいかにこ
だわっているか、一方では日本政府がいかに米側の主張をうのみにしてきたかをうかがわせる。
九六年には日米特別行動委員会(SACO)合意に基づき、普天間飛行場など十一施設の返還が合意された。
SACOは、普天間飛行場を目玉とする基地返還を、日本政府が初めて米国に求めた本格交渉といわれている。
しかし、普天間飛行場の代替施設には垂直離着陸機MV22オスプレイの配備が計画されている。普天間返還に当たっても、米側は基
地機能の維持という大前提を崩さなかったことは疑う余地がない。
移民政策でも米国に配慮
米側の基地維持政策は復帰前、すべての統治政策に優先された。
基地建設のために土地は「銃剣とブルドーザー」で接収され、住民は基地に職を求めざるを得なかった。金融政策や産業政策は輸入依
存、消費経済へと誘導する結果となった。
今回、公開された外交文書には敗戦後の重要施策として海外への移民再開を模索した関係文書が含まれている。
そうした移民政策でも、外務省は「軍用基地化に伴う海外移住には積極的に援助支援を」などと、南米の在外公館に指示する一方、
「米国の同意がない限り不可能」などと一貫性を欠いた。
ボリビアとの移住協定に失敗していた米国へ配慮したためだろう。「日本は米国に気兼ねして何もしてくれなかった」と証言する移住
経験者もいる。
基地が固定化されている現状も、その原点は沖縄返還交渉にある。米国を中心に外交文書などが公開されるほど、問われるべきは日本
の対米外交姿勢だろう。