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池田内閣が「政経分離」を掲げて対中華人民共和国貿易を推進した1964年当時、これに反発して駐日大使を召還するなど国交断絶の危機に直面した台湾・国民政府との関係をつなぎとめるため、極秘に「大陸反攻」への支持を約束し、「二つの中国」論に立つ「2重外交」を展開していた事実が、28日付で公表された外交文書や研究者の調査から明らかになった。池田隼人首相の意を受け訪台した吉田茂元首相は、「事実上の首相特使」と「私的立場」を使い分けながら、結果として台湾当局を懐柔する役割を演じていたことがわかり、現在の緊張する中台問題への対応にも新たな視点を提供している。
吉田氏は同年2月下旬、首相親書を携えて訪台し、蒋介石総統と会談した。内容は公表されなかったが、当時懸案だった中共向けニチボー・ビニロン・プラント輸出を「日本政府は少なくとも本年(64年)度中は承認しない」と約束する書簡(5月7日付)を、吉田氏が台湾当局に送っていた事実が後に分かった。
ところが、72年の日中国交回復に伴う日華断交後、台湾政府関係者は、吉田氏が当時、日華平和条約に準じた5項目の「中共対策要綱」に合意し、確認の書簡(4月4日付)も出していたと主張。日本外務省は、5月の書簡については「個人の私信であり、政府決定とは関係ない」との見解を示したが、4月の書簡については「承知しない」とコメントしている。
今回も、吉田訪台の関連文書は公開されないが、吉田・蒋会談の成果を受け、直後の3月上中旬に政府当局者として訪台した毛利松平外務政務次官の記録を公開。その中に、毛利氏と会談した蒋介石が、プラント輸出など個別問題と別に「帰国後は吉田先生に会談における合意の線に添って御活躍ありたいと申し上げていただきたいと述べた」と報告されている。
また、台湾の特務関係者と外交部顧問が、毛利氏に同行した外務省中国課長との実務者会談で「吉田・蒋会談の結論は、アジアにおける共産主義の脅威を認識し、両国が密接に提携し、反共のために闘うということであった」と念を押し、池田首相に「約束の具体化」を求めていた。
吉田・蒋会談の具体的内容は、日台関係史が専門の筑波大文部技官、清水麗氏が昨年、台湾の公文書館で、毛利訪台の直後、国民政府が同政府の駐米大使に「中日共同反共綱要5項目」を会談の合意として伝えていた公電を見つけて確認。今月、東アジア地域研究学会で発表した。
清水氏は「中台の分裂状態に、日本外交は清廉潔白というわけにいかず、吉田から佐藤内閣まで、常に二つの政府とのつき合い方を模索していた。日中国交回復後、対中関係を重視するあまり、二つの政府と関係を構築しようとする動きに、マイナスの評価を与えすぎていたのではないか。模索自体は、新たな日米中台関係の中で再検討すべき課題だ」と語り、「2重外交」の今日的意義を指摘している。
【外交文書取材班】
[毎日新聞5月29日] ( 2000-05-29-00:46 )