【ファティマの「秘密」解釈の試み】解説文A〜韋駄天へ保守派ぢゃないよさんの投稿を転載。

 
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投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2000 年 6 月 27 日 23:46:12:

回答先: 教理聖省【ファティマのメッセージ】解説文〜韋駄天への大サービス・ティラリラリさんの投稿を転載。 投稿者 FP親衛隊国家保安本部 日時 2000 年 6 月 27 日 15:25:13:

[11711] ファティマの「秘密」解釈の試み by ラッツィンガー枢機卿
投稿日 6月27日(火)22時58分 投稿者 保守派じゃないよ 削除

ファティマの「秘密」の第1と2はすでに関連の研究書の中で十分語り尽くされていますので、ここで再度詳しく取り上げることはしません。もっとも重要な部分についてのみ簡単に思い起こしていただこうと思います。子供たちは恐怖の一瞬間に地獄の光景を見せられました。「かわいそうな罪人たちの魂」が堕ちていくのを見ました。そして何故この一瞬にさらされたのか理由を聞かされました。「魂を救うため」?それは救いの道を示されるためでした。ペトロ第一の手紙の一節が頭をよぎります。「それはあなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(1:9)。
この目標に到達するために示された道はー驚くべき事に、アングロサクソンとドイツ文化圏の人々のためですー聖母の汚れなき御心への信心でした。これを説明するのは簡単なコメントで十分でしょう。聖書用語で「心」は人間の生命の中心や、理性・意志・気質・感性が集中する点を表し、人が自分の統一と内的な位置づけを見いだす場所のことです。マタイ5:8によると「汚れなき御心」という心は、神の恵みによって、内的な統一を完成させ、それゆえに「神を見る」心です。ですから聖母の汚れなき御心を「信心する」ことは、この心の態度に達することであり、「御旨のようになりますように」を意味するフィアットを生活の中心に定めることです。
我々自身とキリストの間に人間を置くなと反対されるかもしれません。しかしパウロは自分の共同体に向かって「私に倣う者になりなさい」(1コリント4:16,フィリピ3:17,1テサロニケ1:16,2テサ3:7,9)と躊躇わずに言ったことを私たちは覚えています。使徒パウロの中に彼らはキリストに倣うとはどういう意味かハッキリと見ることが出来たのです。しかしどの時代の人間よりも主の御母以上により学ぶべき人がいるでしょうか?
ついに我々は初めて全文が発表されたファティマの「秘密」の第3の部分にやってきました。ここに示されている文書から明かにされていますが、5月13日にソダノ枢機卿が読み上げた声明文のとおり、解釈はまずシスタールシアに個人に委ねられました。シスタールシアは幻視を与えられたが解釈は与えられなかったことを指摘しつつ返答しました。彼女が言うには、解釈は幻視者ではなく教会に属するものだということです。しかしながら彼女は本文を読んだあと、この解釈は彼女が経験したことと符号するし、彼女の立場から見るかぎり解釈は当たっていると思うと返答しました。ですから、以下に示すのは、すでに考え抜かれた判断基準を土台とし、幻視を解釈するために、より深い根拠を与える試みを提供するにすぎません。
「魂を救う」という言葉は「秘密」の第1と2でキーワードとして登場しますが、第3の秘密のキーワードは3回叫ばれる「悔い改めよ、悔い改めよ、悔い改めよ!」です。福音書の冒頭の「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という言葉が思い起こされます。時のしるしを理解するということは信仰の悔い改めー回心ーの緊急性を受け入れることです。これは歴史における現時点では、下記に描かれるイメージに描写された重大な危機に対する正しい応答であります。個人的な思い出を差し挟むことをお許しください。私との会話の中で、シスタールシアは言いました。すべての御出現の目的は人々を信・望・愛のうちにもっともっと成長させようというだと益々はっきりわかってきたーすべては成長を導くためのものだったと。
一つ一つのイメージをもっとよく調べてみましょう。神の母の右におられる燃えさかる剣を持った天使は黙示録と似たイメージをもっています。これは世界の上にぼんやりと現れる審判の脅威を象徴しています。今日、火の海によって世界が灰になってしまうという予測は完全におとぎ話だとは言い切れません。人間自身の発明によって燃える剣を創り出したのです。
次に幻視は崩壊の勢力に対抗する力を示しますー神の母の輝きで、ある意味でそれから生じているのは、悔い改めへの呼びかけです。このように、人間の自由が重要であると予告されています。事実、未来は変更不能で定められているものではなく、子供たちが見たイメージは何も変えることができないない未来を映画の予告フィルムのように見たものではありません。実のところ、この幻視の重要なポイントはその場面に自由を持ち込み、自由を正しい方向へおし進めることです。幻視の目的は、定められた変更不能な未来のフィルムをみせることではありません。まったく逆の意義を持っているのです。正しい方向へ変える力を呼び起こさせるという意義がありました。ですから「秘密」が運命的なものだとしている解釈はすべて度外視しなければなりません。例えば、1981年5月13日の暗殺未遂者は神の摂理に導かれた神の道具に過ぎないので、自由に行動することは不可能だったなどとする主張や、他にも世間に出回っている似たような考え方です。幻視はそれよりも危険についてと、どうすれば危険から救われるかを語っているのです。
本文の次の言葉は、幻視が象徴的なものであることをはっきりと示しています。神は測り知れなく広大で、我々の視覚をしのぐ光です。人間は鏡に映ったような姿で現れます。ここでは視覚的に示されていますが、幻視そのものには限界があることを常に頭に置いておかなければなりません。未来は単に「鏡におぼろに映ったもの」(1コリント13:12)として現れます。「秘密」の原文に示された個々のイメージについて考えてみましょう。一連の出来事の場所は3つのシンボルによって表されています。険しい山道、崩壊にひんしている大きな都市、そして最後に粗く切り出された大きな十字架です。山と都市は人類の歴史が繰り広げられる舞台を象徴しています。歴史は困難な頂上への登山、また人間の独創性と社会的な調和を繰り広げる舞台ですが、それは同時に人間が自分自身の作ったものを破壊する場所でもあります。都市は交わりと発展の場所となることができますが、また危険と極度の危険に満ちた場所でもあります。山の頂には十字架が立っています?歴史のゴールであり、道しるべです。十字架は破壊を救いという形に変えます。歴史の惨めさの象徴として立っていますが歴史の約束としても立ってあります。
この時点で人間が現れます。白衣の司教(「それは教皇様だという印象をもちました」)、他の司教たち、司祭たち、男女の修道者、違う階層と社会的地位の信徒たちです。
教皇は彼を取り巻いている恐怖のために震え苦しみながらも、他の者たちをひっぱっているように見えます。都市の家々は半分崩れかかっているだけでなく、教皇も死体の中を進んでいきます。そのため教会の道は暴力、破壊、迫害の時代を通る道程としてヴィア・クルチス(十字架の道行き)として描かれます。この1世紀の歴史はこのようなイメージで描かれます。地上の場面が十字架に向かっている山と都市という2つのイメージの合成で描かれるように、時間もまたこのよ うに要約された形でしめされます。
幻視の中で、最後の1世紀は、殉教の世紀、教会にとって苦しみと迫害の世紀、世界大戦と後半世紀はたくさんの地方戦争があふれ、前例のない残虐な方法で苦しみを追わせる世紀であることがわかります。この幻視の「鏡」の中に、我々の前を10年ごとに信仰の証し人が通るのが見えます。1982年5月12日にシスタールシアが教皇様あてに書いた手紙をここで引用するのが適切でしょう。
『「秘密」の第3の部分は聖母の言葉について語っているのです。「そうしなければ[ロシア]がそのあやまちを世界に広め、それが戦争や教会の迫害を引き起こします。正しい者は殉教し、教皇様はたくさん苦しまれるでしょう。多くの国は滅ぼされます』。
丸1世紀の十字架の道行きの中で、教皇の姿は特別の役割を担っています。彼の険しい登山の中にわれわれはそれが複数の教皇をひとつにまとめた姿であると疑うことなく見ることができます。ピオ10世から始まり現在の教皇まで、彼らはみな今世紀の苦しみを分かち合っており、十字架へと導く全苦悩を道連れに苦労しながら道を前進します。幻視の中で、教皇も殉教者たちと共に殺されます。1981年5月13日の暗殺未遂のあと、教皇様はファティマの秘密の第3の部分を持ってこさせましたが、教皇様がそこに見たものは、自分自身の避けることのできない運命だったのでしょうか?彼は死のたいへん間近にいましたし、彼自身が生きながらえたことを下記の言葉で説明しています。「弾の通る道をそらせ、臨終に瀕する苦しみの中で教皇を死への扉の前でおしとどめたのは母の手だった」(1994年5月13日)。ここでいわれた「母の手」は致命的な弾をそらせ、変えることのできない運命はないともう一度示したに過ぎません。つまり、信仰と祈りは歴史に影響を与えることができる力であり、最終的に祈りは銃弾より、信仰は軍隊よりも力があるのです。
「秘密」の結末の部分はルシアが信心の本で見たかもしれないイメージが用いられており、信仰の長年にわたる直観的知識からそれらの霊感が引き出されています。それは慰めに満ちた幻視で、血と涙の歴史から神の癒しの力へと開く扉をさがし求めるものです。十字架の腕木の下で天使たちが殉教者の血を集め、その血を使って神を求める霊魂たちに生命を与えています。ここでは、キリストの血と殉教者の血はひとつのものとして考えられています。殉教者の血は十字架の腕木から流れ落ちます。殉教者たちはキリストのご受難と一致しながら死んでいき、彼らの死はキリストと一つになります。
キリストの体のために、キリストの苦しみのまだ足りないところを彼らが満たして完成させます(参照 コロサイ1:24)。彼らの生命そのものがご聖体となり、一粒の麦が死んで豊富な実を結びます。テルトゥリアヌスは殉教者の血はキリスト者の種だと言いました。キリストの死から、その傷ついた脇腹から、教会は生まれましたから、証し人の死は教会の未来の生命にとって実となるのです。ですから、「秘密」の第3の部分の幻視は苦痛で始まりますが、希望のイメージでしめくくられています。無駄な苦しみはありませんし、苦しむ教会、殉教者の教会は神を探し求める人間にとって道しるべとなるのです。神の愛に満ちた腕が歓迎するのは、苦しみの中に大きな慰めをみつけ神秘的にキリストを象徴する者となったラザロのような者や、我々のためにラザロのようになりたいと願う者だけではありません。そこにはもっと大きなものがあります。証し人の苦しみからは、清め、刷新する力が生まれます。なぜなら彼らの苦しみはキリスト自身の苦しみを実現するもので、その救いのわざをこの時代、この場所で伝えるものだからです。
さて最後の疑問にやってきました。全体(3つの部分)としてファティマの「秘密」の意味は何なのでしょう?我々になにを語っているのでしょう?まず今となってはファティマ第3の「秘密」の出来事は過去のことであるかのように見えます」というソダノ枢機卿の言葉を肯定しなくてはなりません。個々の出来事が描写することに関して言えば、過去に属しています。はらはらさせるような世の終わりに関する終末的啓示や歴史の未来に関することを期待していた者は、がっかりさせられるでしょう。ファティマはそのような形で我々の好奇心を満たしはしません。キリスト教の信仰が全般的に単なる好奇心を満たすものに貶められないのと同じです。何が残るかと言えば「秘密」の原文をわれわれが考えはじめた時からすでに明かになっています。「霊魂の救い」の道である祈りに対する熱心な勧めと、また、悔い改めと回心への招きです。
最後に「秘密」の鍵であり、たいへん有名になったあの表現について話したいと思います。「私の汚れなき心は勝利するでしょう」。これはどういう意味でしょう?神に開かれた心、神を観想することで清められた心は銃やどのような武器よりも強いということです。マリアの「フィアット」、彼女の心からの言葉は歴史を変えました。なぜなら世界に救い主をもたらしたからです?なぜならマリアの「はい」のおかげで神はこの世に人となって生まれることができ、それ以来ずっとその状態を保っていらっしゃるからです。我々がずっと見たり経験しているとおり、あの悪の者はこの世に対して力を持っています。彼が力を持っているのは、我々が自分たちの自由を神への道から遠ざけさせ続けているからです。しかし神ご自身が人の心を持つようになり、人間の自由を善へと向けるようにしたので、悪を選ぶ自由はすでに最終的な決定権を持ってはいません。その時以来、広まっているのはこの言葉です。「あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。ファティマのメッセージはこの約束を信じるようにと我々を招いているのです。

ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿
教理聖省長官




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