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回答先: 臓器移植法について一言。 投稿者 かんちゃん 日時 2000 年 5 月 14 日 02:31:37:
経済行為としての医療 現代医学の大逆説(工学社)P264-268
(中略)
医療が一種の経済活動である以上、「メーカー」と呼ぶべき存在は
製薬メーカーだけではない。大学や研究機関は≪医療知識≫を生産す
る≪メーカー≫であり、医者の生産と供給を担っている医科大学は≪
問屋≫、町の診療所や病院は≪小売店≫そして患者は医療サービスの
≪顧客≫であり≪消費者≫だということになる。
(中略)
財やサービスでもっとも廃れやすいのは、消費者よりもメーカーや
ディーラーが犠牲を払わなければならない事物である。
逆に言えば、メーカーやディーラーの利益が大きいものなら、消費
者に多少の不便を強いてもその供給体制が維持される。
(中略)
臓器移植手術ブームとて、そうした外科学業界の流行現象にすぎな
い。
なぜなら、(臓器全体の移植が必要となるほどの)臓器の≪機能不
全≫を治す治療法は内科的にも外科的にも、移植(=臓器の全置換
術)という方法に頼る以外にさまざまな選択肢を追求できるのに、と
りわけ1960年代以降の工業先進国では産官医学複合体がそうした
技術の開発を怠って、ことさらに臓器移植という−20世紀初頭に≪
未来派≫的な生体工学テクノロジーとして夢想されていた−派手で冒
険的で≪一発解決≫狙いの安直な方法だけを追い求めてきたからだ。
(中略)
1968年に札幌医科大学で実施された日本初のヒト心臓移植実験
などは、患者よりも医者の利益を優先して行う≪供給者優先の医術≫
の戦慄すべき象徴といえる。
(中略)
「脳死」判定すら行わずに和田は「Y君」が「限りなく死に近い状
態」であると詭弁を使って母親から同意を心臓提供の同意を取り付
け、結局「M君」にも「Y君」にも必要な治療を行わずに、興味本位
の生体実験のために2つの生命を一気に≪渇尽≫してしまったのだ。
(中略)
「和田移植事件」は医者集団の証拠隠滅工作が成功して刑事犯罪と
して起訴されることなく終わったが、現代の外科的流行である「移植
医療」が≪医療供給者側の都合≫を優先して推進されていることを示
す端的な事例である。
(中略)
ついでにいっておくなら、臓器移植の実験段階で提唱するようにな
った「脳死」概念などは典型的な例なのだが、「いつ死なせるべき
か」「いつの時点をもって人は死に至るのか」という問いは、本質的
に経済学的な問題なのであって、医学や生物学の領分から出される≪
専門的意見≫なるものは、本質的には経済学的問題への解答に≪権威
付け≫を与えるためのレトリックにすぎない。