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【アジア国際通信:(00/05/9)】
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◆「核のゴミ」を地球上にばらまく手段と概念 その1
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●米政府の「核のゴミ清掃計画」
昨年の「ユーゴ空爆」と同様、アメリカは「湾岸戦争」の時も、
国際的な戦争回避の努力を害し、はじめに戦争ありきの路線を強行
突破した。
「湾岸戦争」は、巨大メディアを通じて、「クリーンなハイテク
戦争で、一瞬にして終わった」というイメージが強い。多くの人々
は今でもそう信じているに違いない。
米政府は現在でも、事実を公式に認めてはいないのだが、過去10
年間の戦争で、米軍は「通常兵器」のレッテルで覆い隠された「核
兵器」を使った。
覆いの裏側には、国内における大量の“核のゴミ”(劣化ウラン
:Depleted Uranium)処分という、言い知れぬ苦しみにのたうつ
アメリカの顔が浮かび、『劣化ウラン』のあれこれを調べているう
ちに、“核のゴミ”を湾岸諸国に分散・移転する「清掃計画」とい
うとんでもない狙いが、浮き彫りになってきた。
「いまさら湾岸戦争でもないだろう!何でこんなことを話題にす
るのか」という疑問を、読者が持たれたとしても不思議ではない。
それほどに、すでに“風化した話題”である。
だが、この戦争の始末に負えない本当の恐ろしさは、“風化”の
後にやってきた。
今がそのピークであり、明日はもっと惨たらしくなる。しかし、
対策は何もない。
劣化ウランは、本当の戦死者数が分かるまでには、何十年あるい
は何世代もかかる「遅発反応性」の核物質である。
米政府が明らかにしたところによると、1945年以来、アメリカ国
内に抱え込んできた核廃物(廃“棄”物ではない)は、数十億ポン
ドを超えているという。
棄てる(つまり自然に返す)ことのできない廃物である「劣化ウ
ラン」の処理問題、すなわち「分散・移転」は、長年アメリカを悩
ませ、苦しませてきた。
大なり小なり、他の核保有国も同様の悩みを抱えているはずだが、
アメリカはこの悩みと苦しみを、地球上のあちこちに分散・移転さ
せる「概念」と「手段」を開発した。
「劣化ウラン」という核廃物が、国内にあふれかえっている「核
超大国」アメリカにとって、「極秘・清掃計画」の実施は急務であ
った。この深刻な「核のゴミ問題」が、強引な「手段」(戦争)を
執らせた背景にあった。
●ドーハ米軍基地火災後の「放射能汚染」警告印
その一挙的な大量“不法投棄場所”に選んだのが、イラクを中心
にした湾岸諸国であり、「湾岸戦争」がそれを可能にした。昨年の
「ユーゴ空爆」中も連日イラクへの空爆を平行して行うという、執
拗に繰り返された「イラク空爆」や、「ユーゴ空爆」で締めくくっ
た10年に及ぶ「ユーゴ分割干渉戦争」においても、大量不法投棄
がつづいた。
91年7月11日、クウェートのドーハにある米軍基地の、兵器貯
蔵庫にあった実弾を積んだ車両1台から火災が発生した。火はたち
まちのうちに実弾を装填した大砲などに延焼し、激しい爆発が6時
間つづく大火災となった。現場で作業にあたった兵士たちの証言が
集められている。
この火災で、劣化ウラン弾や劣化ウラン装甲を施した戦車などが
破壊され、9000ポンドを超える目に見えない「劣化ウラン酸化物」
の粒子が、周辺に拡散した。
米軍兵員は防護用具を着用せずに、消火活動およびその後の清掃
作業を行ったが、彼らは「劣化ウラン汚染の警告」を受けておらず、
何も知らされないまま劣化ウラン粒子を浴びた。
消火活動の後、数人の士官がやってきて、飲料用のドラム缶など
をしらべ、それらに「放射能汚染」の警告印をつけた。
その中には、劣化ウラン撤甲弾の破片が入っていた。
暑い真夏の盛り、兵士たちが繰り返しこの水を使った後のことで
あった。
陸軍兵器軍用化学司令部が、「劣化ウラン撤甲弾が命中した装置
はどのようなものであれ、劣化ウランの汚染があるとみなしうる。
劣化ウランで汚染されたものは、汚染地区を洗浄し、被服を廃棄す
べきである」という警告が、湾岸地域の司令官に送られてきたのは、
43日間にわたる戦闘が終結してからであったが、それはこの部隊
まで届いていなかった。
「湾岸戦争」が終わるまで、「劣化ウラン汚染の危険」について
は、現地の米軍はじめ同盟軍に何も知らされず、極秘にされていた。
劣化ウラン撤甲弾の破片が入ったドラム缶に、「放射能汚染」の
警告印をつけるほどのものであったにもかかわらずである。
記録によると、ドーハの火災の際、「約8ノットの北西風に乗っ
て、劣化ウラン粒子は現場から数マイル離れた場所まで運ばれた」
という。
●長期の慢性疾患に苦しむ米軍帰還兵
湾岸戦争での米軍の死者は147人と発表され、「戦死者の数が圧
倒的に少なかったこと」が強調された。その半数は同士撃ち、すな
わち味方が放った劣化ウラン弾などによって焼き殺された。
米軍およびその連合軍の「戦死者数の少なさ」がセールスポイン
トとされ、この場合の「少ない」ということは、とりわけアメリカ
人の“心の均衡”を保つ上で、有効な「バランサー」となった。だ
から、戦後アメリカ人が、パウエルとシュワルツコフを熱狂的に凱
旋将軍として迎えた。
やがて、それが問題のすり替えによる、ひどい虚構に過ぎなかっ
たことが、「湾岸戦争症候群」として明るみに出るのだが、取り返
しのつかない人的被害が、誰の目にもごまかしようがなくなるまで
には、数年という年月の経過を必要とした。
それまで頑健であった湾岸戦争帰還兵数万人の青年男女が、次々
と原因不明の病に倒れたり慢性疾患に苦しむようになっていった。
政府や軍は、「湾岸戦争症候群」に苦しむ人々の訴えに、一切耳
を貸そうとしていない。それ以前から、放射線によって最も傷つけ
られた退役軍人や、ウラン採掘などに従事させられてきた先住民の
補償を拒否しつづける、政府の事実隠しの歴史が尾を引いていた。
湾岸帰還兵の一人、キャロル・ピコー元・米陸軍2等曹長は、<
br>1996年9月12日、UNチャーチセンターで講演をおこなった。彼女は
准看護婦として90年8月1日、陸軍に入隊。翌日、特命で湾岸に派
遣された。彼女は医療班150人の一員として前線で働いた。
女性では2番目に高い地位にあり、7人の男性兵士が前線に行く
のを拒否したため、代わりに7人の部下の女性を連れていくことに
なった。前線に行った全員が病気になった。後に後方に残った男性
兵士たちは健康そのもので表彰もされた。だが、前線に赴いた彼女
たちには、惨い仕打ちが待っていた。以下は彼女の講演の一部であ
る。
*【ピコー元・米陸軍2等曹長の講演抜粋】
最も前線に近い第41野戦病院に配属され、数マイルもつづく焼
けただれたイラクの車両の間を、負傷兵や病人の手当をしながら移
動して回った。死体が散乱し、あちこちで車が燃えていた。汚染物
質の警告は誰からも受けておらず。15日間滞在したが、敵味方の
別なく、治療に専念した。
イラクにいるときに、全身の皮膚に黒いシミがあることに気づい
た。からだの変調が始まった。腸と膀胱がおかしくなった。帰国後、
答を探していろいろ調べ回っていると、軍隊での仕事をなくすぞと
脅され、実際にそうなった。医療班として一緒に前線にいった150
人のうち、40人が病気にかかり、6人が自殺などを含めガンなど
で死亡した。
砂漠の嵐作戦に参加した兵士に何かが起きていることを公にする
ことにした。原爆にかかわった退役軍人から、「劣化ウランの毒に
やられている」と教えられた。劣化ウランがどんなものであるか全
然知らなかった。
長期的と短期的な記憶の喪失がある。毒物による脳腫瘍にかかっ
ている。甲状腺の機能も低下している。帰還兵からは、甲状腺のな
い子が生まれる。腸も膀胱もコントロールできない状態にある。陸
軍はおしめを支給してくれたが、92年からカテーテルを入れてい
る。
手袋もなしで患者を扱い、戦車によじのぼって入ったり出たりし
て死体を回収した。
私たちは国民に奉仕する。国に奉仕する。兵役につき、倒れた兵
士のそばに付き添い、守る。死にゆく兵士の手を握る。もう一度そ
うしたい。
国防総省は、私の検査、私との面会、私の質問への回答を拒否し
ている。
私は軍での仕事をなくし、夫も仕事をなくした。私は民間の健康
保険も生命保険もなくした。私の病気が戦闘に由来する病気だから
と、保険会社は言う。しかし、除隊させられたとき、国防総省は私
の病気が戦闘とは関係ないと言ったのだ。
国防総省は、このウランの影響を表面上は知らないようだが、94
年6月付の秘密報告によれば、実はすべての情報をもっていたのだ。
私は闘うみなさんと共にある。そして、自国に放置された汚染物
質で苦しむイラクの人であろうと、そのような人のために闘うみな
さんと共にある。■
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【アジア国際通信】編集・発行人 神保隆見
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