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回答先: 7・21・25・29・30 投稿者 SP' 日時 2000 年 2 月 14 日 18:23:42:
第三十八の手紙 死の教義
こちらに来てから今までの数か月に、私は人々が何の表情もないのっぺりした顔をして、最も深い眠りよりさらに深い無意識の状態で横たわっているのを、何度となく見てきた。最初はその眠りの性質がわからなかったので、実験のつもりで何人かの人を起こそうとしたのだが、うまくいかなかった。いくつかのケースでは好奇心がふくらみ、くる日もくる日も様子を見に行ったが、彼らはいつも同じように眠りを貪っていた。
「人間がこのように眠るとは一体どういうことだろう」私は自問した。「声をかけても体にふれても目覚めないほど深い眠りにおちるとは、何とも不思議なことだ」
ある日私は、師と共に、そうして意識を失っているある男の側を通りかかった。それは、以前私が見かけて観察し、起こそうとして失敗した男だった。
「こうして眠っているこの人たちは誰なのですか?」と私が尋ねると、師はこう答えた。
「地上で生きていたとき、魂が死後も永遠に生きることを否定していた者たちだ」
「それはひどい! 彼らはもう二度と目覚めないのですか?」
「いや、そんなことはない。何世紀も、幾時代もたてば、リズムの法則によって否応無しに眠りから引き離され、肉体を得て地上に戻るはずだ。生まれ変わりの法則は、リズムの法則の一部だからな」
「この中の一人を、そう、たとえばこの男を、起こすことはできないでしょうか?」
「お前は起こそうとしたのだろう?」師は鋭い目で私を見据えて言った。
「はい」
「しかし失敗した」
「その通りです」
私と師はしばし見つめ合った。それから、私はこう言った。
「師は私より大きな力をもち、知識もおありなのですから、私の失敗したことでも成功なさるのでしょうね」
師は答えなかった。それでかえって好奇心がつのり、私は熱っぽく言った。
「試してみてはいかがです? この男を起こしてみてはいただけませんか?」
「お前は自分が何を頼んでいるかわかっていないのだ」
「でも教えてください、師はこの男を起こすことができるのですか?」
「恐らくできる。しかし、この男は、人生を終えるとき、意識をなくして魂を消滅させることを願って、自分の魂に魔法をかけ、その魔法の法則によって眠りにおちている。その法則に対抗するには、それ以上に強い法則を作用させねばならない」
「というと?」
「意志だ。意志の力を働かせるのだ」
「師にはそれがおできになる?」
「さっき言った通りだ−−恐らくできる」
「では、やってみていただけませんか?」
「もう一度言うが、お前は自分が何を頼んでいるかわかっていないのだ」
「お願いです、どういうことか説明してください。これは今まで見た中でも特に驚異的な光景のように思えるのです」
師はひどく暗い顔で答えた。
「この男は、自分でわざと因果の法則を働かせたのに、私にこの身を挺してその法則から守ってやれというのか。この男が過去にそれほどの善行を積んでいるか?」
「彼の過去のことは知りません」
「ならば、なぜ彼を起こせと頼むのか、その理由を聞かせてもらおう」
「理由?」
「そうだ。この男の不幸な状態を哀れんでのことか、それとも、自分の科学的好奇心を満たすためか?」
男の悲惨な境遇を気の毒に思い、それでやむにやまれずお願いしたのだと言えたらどんなによかっただろう。しかし、これほど偉大な師に対して、嘘をついたり本音を偽ったりすることはできないので、科学的好奇心を満たすためだと正直に話した。
「それならば」と師は言った。「訓練された意志の力が実際に働くところを見せるためということで、この男を利用することは許されるだろう」
「そうしても、彼に害を与えることにはなりませんね?」
「それどころか、ためになるぐらいだ。それに、彼がショックを受けたとしても、そのショックは心に強烈な印象を与えるから、これから地上で何回生きたとしても、もう二度と、死はすべての終わりだと自分で信じたり、他人に信じろと説いたりはできなくなる。彼が大昔に自分にかけた魔法をといて眠りから覚ましてやるには、莫大なエネルギーを費やさねばならないが、本当はこんな男にそこまでしてやることはない。だが、それでも私が彼を起こしてやるのは、お前のためだ。お前が納得できるように、そうするのだ」
そのときの光景が君の目にありありと浮かぶように説明してやりたいが、そこまでできないのが残念だ。我々の足元には、その男が血の気の失せた表情のない顔で横たわり、師は美しい顔に力をみなぎらせ、目に考え深げな光を宿した偉大な姿で、それを見下ろしていた。
「この体は一見生気がなさそうだが、周りがうっすら光っているのがわかるか?」と師が尋ねた。
「わかりますが、本当にかすかな光ですね」
「それでも、この愚か者が永遠の真理を信じようとする力よりは、この光の方がずっと強いのだ。だが、お前の目にはこの横たわる体の周りにうっすらとした光しか見えなくても、私にはその光の中に、この男の過去の様々な姿が見える。この男は人間の意識が永遠に生き続けることを否定しただけでなく、自分の信じる死の教義を人々に説いて、自分と同じ考えをもつようにさせたらしい。本当につまらない男だ、こんな輩を目覚めさせても仕方ないのだが!」
「それでも、目覚めさせてやりますか?」
「ああ、そうしてやろう」
師は大いなる努力の末に、男を自らひきおこした疑似的な魂の消滅状態から目覚めさせたが、どのような言葉や行為によってそれをなしとげたかは、残念ながら許可がおりないので教えることはできない。私は今までにないほどはっきりと認識した−−わが師の個人的な力はもちろん、訓練を受けて方向づけされた意志がもつ力の抗いがたい強さを、はっきりと知ったのだ。
そして、同様の光景が新約聖書に記録されているのを思い出した。キリストが墓の中の死者に「ラザロよ、出て来なさい!」と呼びかける場面だ。
「人間の魂は永遠の命をもつ」師は目覚めた男の怯えた目をひたと見据え、意志の力でその目を釘付けにしておいてから、言い聞かせた。
「人間の魂は永遠の命をもつ」師はそうくり返すと、今度は強い口調で命じた。「立つのだ!」
男はよろよろと立ち上がった。ここにいる者が皆そうであるように、彼の体も羽根のように軽いのだが、今まで眠りこんでいたために、そんなちょっとした動作すらままならないほどエネルギーが衰弱しているのだろう。
「お前は生きている」師はきっぱりと言った。「死を経験したにもかかわらず、こうして生きている。自分が生きていることまで否定するな。否定はできないはずだ」
「しかし、私にはどうしても−−」男が喋り始めた。物質主義を奉じる彼の頑迷な心は、自分が存在しているという事実をなおも否定し、試練をくぐり抜けた後もまだ昔の記憶を保っているのだ。この最後のことが、私には何よりも驚きだった。だが、呆気にとられたの
は一瞬のことで、師が心の力で男の周囲に霊界の記録を浮かび上がらせたからこそ、そうした記憶が呼び覚まされたのだとすぐ気づいた。
「我々の間に座りなさい」師は目覚めたばかりの男に言った。「一緒に論理的に考えてみよう。お前は何某という名で地上を歩いていたとき、自分のことを大変論理的な人間だと思っていたのだろう?」
「その通りです」
「その論理が間違っていたことはわかるな。お前は確かに死を経験したのに、今こうして生きているのだから」
「でも、ここはどこなんです?」男は困惑したように辺りを見回した。「ここはどこで、貴方は誰なんですか?」
「ここは永遠の中だ」師が答えた。「お前はこれまでずっとここにいたし、これからもずっとここにいるのだ」
「それで、貴方はどなたです?」
「私は法則の働きを知る者だ」
「法則というと?」
「リズムの法則だ。魂が濃密な物質の世界を出入りしたり、潮の干満がおきたり、人間の意識が眠ったり目覚めたりするのは、皆その法則の働きによるものだ」
「でも、私を起こしたのは貴方でしょう? ということは、貴方がそのリズムの法則なんですか?」
師は微笑した。
「私はリズムの法則ではない。しかし、お前と同じように、私もその法則に縛られてはいる。ただ、私は自らの意志によって一時的にそれを超越することができる−−その点でも、お前と同じだ」
私は簡潔でありながら深遠なその答えに思わず息をのんだが、男はその答えの重みに気づいていないようだった。お前と同じように! つまり、師が正しく方向づけられた意志によって、自分の中の死すべき運命を超越したのと同じように、この男も、誤って方向づけられた意志によって、魂の不滅の法則を一時的に超越することができたのだ! 人間の心がもつ神のような可能性をかいま見た思いがして、私の胸の奥で魂がうち震えた。
「私はどのぐらい眠っていたんですか?」男が尋ねた。
「お前は何年に死んだ?」師がきき返した。
「一八一七年です」
「現在の年は、キリスト紀元で一九一二年とされている。お前は九十五年の間、死のような眠りの中にあったのだ」
「そして、私を起こしたのは、本当に貴方なんですね?」
「そうだ」
「なぜ起こしたんですか?」
「それが私の意に適っていたからだ」師の答えはかなり辛辣だった。「お前が目覚めさせるに値する人間だからではない」
「もし貴方に起こされなかったら、いつまで眠っていたでしょう?」
「それは何とも言えない。恐らく、お前と同時に出発した者が、進化の道筋でお前を残してはるか先に行ってしまうまで眠っていただろう。幾世紀も、幾時代も眠り続けたかもしれない」
「貴方は責任を一身に背負われたわけですね」
「それはお前に言われずともわかっている。私は自分の心の内でその責任全体の重みを計り、自分のためにその責任を負うことにした。意志はあくまで自由なのだ」
「でも、貴方のしたことは私の意志を超えてしまった」
「確かに。だがそれは、私の意志がお前の意志より強い力をもっているからだ。方向性が正しく、より大きなエネルギーに支えられているから、私の意志の方が強力なのだ」
「で、私をどうするつもりですか?」
「私は、お前を訓練する責任を引き受けようと思う」
「私を訓練する?」
「そうだ」
「物事が簡単に進むようにしてくれるんですか?」
「その逆で、お前を大変厳しい目にあわせることになる。だが、お前はいやでも私の教えを受けねばならない」
「貴方が個人的に指導してくれるんですか?」
「私が教えている上級の生徒に指導させる。そういう意味での個人的な指導だ」
「その生徒というのは誰なんです? この人ですか?」男は私を指さした。
「いや、彼にはもっと重要な仕事がある。今からお前の教師のところに連れて行ってやろう」
「その人は、何を教えてくれるんでしょうか?」
「永遠の生命の全体像だ。その教えを、忘れることも回避することもできないほどしっかり学んだら、地上に戻り、それを他の者に伝えるのだ。お前は、自分がかつて物質主義と死という偽りの教義で幻惑し道を誤らせたのと同じ数の人々に、永遠の生命の真理を信じさせねばならない」
「でも、私が拒否したら? 貴方はさっき、意志は自由だと言ったでしょう」
「お前は拒否するつもりなのか?」
「いえ、でも拒否したらどうなるんです?」
「その場合、お前は東洋で業と呼ばれる作用と反作用の法則のもとで成長発展することができなくなり、逆にその法則の犠牲となる」
「話がよくわからないんですが」
「この男は実に賢いな」師は言った。「因果の法則でもある業の法則を理解しているとは。だが、来なさい。新しい教師のもとへ連れて行ってやろう」
そして、師と新しい生徒は、私一人を残して灰色にかすむ彼方に消えていった。
私はその後も長いことその場にとどまり、自分が見聞きしたことをじっくり考察した。
第三十九の手紙 流転する神々
私がこれから話すことを聞いたら、人によってはショックを受けるかもしれない。だが、自分の意見には固執するくせに、他人が意見をもつのを認めようとしない者は、いわゆる生者の国と、決して死んではいない人々が住む国の境にあるドアを、他人を入れまいとして守っているのだから、それを自分で開けようなどと思うべきではない。
私が言いたいのはこういうことだ。神というものはたくさんいて、唯一神はその神々の総和である。神はすべて、唯一神の中に存在する。世の人々よ、君たちはこの発言を好きなように受け取るがいい。真実は、君たちや私を含めた誰の夢も太刀打ちできないほど重いものなのだから。
私が神を見たことがあるかって? 唯一神の子と呼ばれるイエス・キリストなら見たことがある。そして、君も覚えているだろうが、キリストは、神の子を見た者はその父も見たと言っているのだ。
だが君は、他の神々はどうかときくだろう。世の中には数多くの神殿があり、そこにたくさんの神々がいるからだ。そう、実は、神々の実体はこちらの世界にある。
なんですって! と君は驚き、今度はこうきくだろう。人間は想像力で神々を作り、霊界に居場所を与えたんですか? 答えはノーだ。神々は最初からここに存在していた。人間は、はるか昔に、心霊的・精神的な力でその神々を知覚し、彼らの存在を知るようになったのだ。人間が神々を作ったわけではないし、物質主義者は、人間は生命の法則を殆ど知らなかったと言っている。人間は、あるいは原始の人間は、神々に対する親和力や親近感を通じて、神々の存在に気づいたのだ。
君たちは、いろいろな神に関する民間説話を読んだ後、優越感のにじんだ哀れむような口ぶりで昔の神話作者のことを話し、自分たちは文明の開化した時代に生まれてよかったと星に感謝したことだろう。だが、古代の物語作者は、異界を覗いてそこに見たものを記録し
たのだから、本当に開化しているのは彼らの方なのだ。
世界各地の有名な神の多くは、人間として地上に住んだことがあると言われている。神々は事実、地上に住んでいたのだ。そう言うと君はびっくりするだろうか?
人間はどのようにして神になり、神はどのようにして人間になるのか。君はその問題を考えたことがあるかね? 人間は、神の意識を発展させることによって神になる。ただし、神の意識を発展させることは、神についての考えを発展させることとは違う。近年、大師と呼ばれる人々の話が喧伝されるようになったが、大師とは、超人的なことをなしとげた人、小さな快楽や世俗的な名誉を捨ててより大きなことを達成した人のことだ。
神々に対する人間の考えは、神々自身が変わるにつれて変わっていく。ヘラクレイトスが約二千四百年前に説いた通り、“万物は流転する”のだ。君は、神々は常に同じ場所にいて、自分だけが進歩すると思っていたかね? もしそうだったら、君はそのうち神を超えてしまい、もう目上として尊ぶ存在がないので自分自身を崇拝するはめになるだろう。
私は師に連れられて、古手の神々の何人かと直接対面したことがある。もし、自分の信じる神以外はどんな神も冷笑するような尊大な態度でこちらに来ていたら、そんな特権にはまず恵まれなかっただろう。神々は包容力があると同時に排他的でもあるので、自分たち神をありのままに見られる者の前にしか姿を見せないからだ。
これは多神論や汎神論や、人々の嫌悪するその他の論に通じる話だろうか? 何々論というのは言葉にすぎない。事実は事実として存在する。邪神を信じているという理由で人が火あぶりにされたのは過去の時代の話だ。とはいえ、私が今神々について学んだことを話すとしても、すべてを洗いざらい話す気にはなれない。それでもかなりのことは話すだろうが。
たとえば、古代ローマ人がネプチューンと呼んだある神を例にあげよう。君は、ネプチューンなど古代の神話作者の詩心の産物にすぎないと思っていただろうか? ネプチューンはただそれだけの存在ではない。彼は海を支配すると言われていた。そこで考えてほしいのだが、嵐や洪水を自在にひきおこす役目を、その能力のある者たちがそれぞれ分担しているとすれば、それが一番合理的で必然的なことではないだろうか? 我々は、自然の法則について様々な話を聞いている。その法を行使するのは誰か?“自然の掟”とは誰もが口にする言葉だが、地上だろうが天国だろうが、掟があれば必ずその執行者が存在するのである。
私が教わったところでは、惑星の生き物や惑星の神々というのも存在するそうだが、彼らと意識の交流をするという栄誉に浴したことはない。惑星の生き物が、図々しく近づこうとしても決して近づけない存在であるならば、神の中の神である唯一神に近づくときは一体どのようにふるまえばよいのだろう?
人間の心の何と矛盾に満ちていることか、召し使いの前では畏れおののきながら、主人には平気で近づいて行くとは!
地球という惑星の守護霊は、過去の生のサイクルの中では進化して膨大な力と責任をもつ神になっていた、と私は教わった。顕微鏡を一度でも覗いたことのある者なら、そう言われてもぎょっとしたりはしないだろう。無限に小さいものと無限に大きいものは、自らの尾をくわえた永遠の蛇の頭と尾に相当するのだ。
君は、未来の生のサイクルにおいて神になるのは誰だと思う? それは、この地球での人生において、死すべき運命をもつ人間を超えた者たちではないだろうか? 現存する人間の霊の中で、最も強く、最もすぐれた者たちこそが、神になるのではないだろうか? 神々といえども、休息期間は必要だ。今仕事をしている神々は、交替の者に来てほしいと望んでいるに違いない。
成長しようという志のある者に対しては、進歩のドアは常に開かれている。
第四十二の手紙 証人の群れ
こちらの世界の霊と地上の人間が想像以上に大きく違っていると知ったら、君は驚くだろうか? 我々の世界は君たちの世界より自由なのだから、それは当然のことなのだが。
私は自分の義務を果たしたいので、こちらには友好的でない霊もいることを、君にきちんと教えようと思う。私が教えなければ誰も教えないかもしれないし、身を守るためにはそのことを知っておく必要がある。
まず言いたいのは、こちらの世界の霊とそちらの世界の霊の間には、強い感応力が働いているということだ。そう、二つの世界にいるのはどちらも霊なのだ。両者の違いは主として着衣にあり、一方は肉の体を、もう一方はそれより希薄だが同じように実質のある体を身につけている。
気だてのよい霊というのは、聖書のいう“全うせられたる義人の魂”かもしれないし、あるいは単に全きを目指す者の霊かもしれないが、いずれにせよそういう霊は、自分の理想と響き合う理想をもつ地上の霊に強くひきつけられる。肉体をもつ霊ともたない霊の間に発生しうる磁力に比べれば、人間同士がひきつけ合う力はずっと弱い。異極はひき合うのたとえ通り、二つの世界の素材の差自体が引力になっているのだ。肉体をもたない霊は、肉体をもつ霊に対して、男が女に感じる程度の魅力しか感じない。男と女が理解し合っていないのと同じで、肉体をもつ霊ともたない霊も、普通はお互いを理解していない。それでも、相手との間にある引力は感じるし、こちらの世界の霊はその引力の発生源を君たちよりよく知っている。君たちはこちらの世界での記憶をなくしているが、こちらの霊は普通、君たちの世界にいたときのことを覚えているからだ。
愛でも憎しみでもその他どんな情動でもいい、人間が何らかの強い感情に心をゆさぶられているときほど、人間と霊の間の感応力が高まることはない。人間の中の火の要素が最も活発になるのはそういうときであり、霊は火にひきつけられるからだ。
(ここで突然筆記が中断され、数分後に再開されるまでは何の力も感じなかった)
なぜ急にいなくなったのかと思っているだろう? 実は今、我々二人の周りに、防護用の大きな円を描いて来た。霊の中には、私が君に話そうとしていることを秘密にしておきたいと思っている者もいるのでね。
では話を続けよう。人間が激怒したり、大喜びしたり、その他どんな形にせよ感情の働きを強めると、その人間の周囲に霊が寄って来る。アイデアというのはそのようにして浮かぶのであり、それこそが霊感による着想の秘密である。怒りが糧となるものを得て燃え上がるのもそのときだ。
この最後の点を、私は君の心にしっかり刻みつけたいと思っている。君が癇癪をおこせば、失うものは多々あるが、中でも自分を制御できなくなるというのが一番の損失だ。他の霊がどうにか君を制御できるのは、そのときだけなのだから。
私が主観の世界と呼ぶこちらの世界には、有害な霊が常に何人かいる。彼らはこちらの世界でも地上でも、争いを煽るのが大好きだ。彼らは他人の怒りにふれて喜びをおぼえ、憎悪の毒を浴びて興奮する。モルヒネに淫する人間がいるように、彼らはあらゆる種類の不和の情に淫して
いるのだ。
それがどんなに危険なことかわかるだろうか? 彼らは君の心の小さな怒りの種を育て、彼ら自身の怒りによって開花させる。その怒りの種は、特に君のものである必要はない。大抵の場合、彼らは君個人には何の関心もなく、ただ自分たちのひねくれた心を満足させるために、一時的に君にとりついているだけなのだ。彼らの実態については他にもいろいろ説明できる。
怒りっぽい人、あら捜しをしてまで怒りの種を見つける人の周りには、間違いなく、敵意に満ちた霊がひしめいている。私は、そうした霊が大勢集まって一人の男をとり囲んでいるのを見たことがある。彼らは自分たちの邪悪な磁力で男を刺激し、彼の激した心が反動でおちついてくると、再び怒りを煽りたてていた。
単に争いにひかれてある人間に近づいた霊が、その人個人に興味を移すこともある。怒れる霊にとりつかれた男が、四六時中癇癪をおこして荒れ狂っていれば、その霊は、この男にとりついていれば毎日何度も怒りの爆発のスリルを味わえると確信するだろう。人間にとってこれほど不幸な状態はない。へたをすれば、妄想に襲われ、最後には発狂ということにもなりかねない。
この法則は、肉欲や金銭欲といった他の好ましくない欲求にもあてはまる。肉欲には気をつけることだ。精神、つまり心の要素を抜きにした性的誘惑には絶対惑わされてはいけない。私は、君だけでなく誰の手を借りても記録したくないような事例をたくさん見ている。
金銭欲の方はどうだろうか。守銭奴が金貨を数えているのを見たときは、霊たちが彼を通じて金貨の感触を楽しみながら、貪欲そうに目を光らせているのも見えた。金は、その購買力とそれに付随する力の他に、金属としても特別な力をもっている。霊の中には、くだんの守銭奴と同じ欲深く鋭い情熱で、同じように金貨を愛している者がいる。金は最も重い金属の一つなので、その中には凝縮された凝縮力が潜んでいるのだ。
だからといって、金貨に気をつけろと言うつもりはない。金貨は使えば役に立つのだから、使えるだけもっていればよい。だが、金貨に見惚れてはいけない。富のシンボル、つまり家、土地、株、債券、あるいはそこそこの量の金銭をただもっているというだけで、貪欲な霊が寄って来ることはない。それでも、金残をためこんで悦に入るようなことはしない方がいい。
ただし、宝石は、ものによっては力をもつ霊をひきつけるので、そういう宝石をもつことは助けになる。宝石の場合は、自分が気に入ったものを選べば、賢い選択をしたことになるだろう。
ある種の欲望や、欲の強い霊に注意すべきだということは、ここまでで十分説明したので、警告の義務は果たしたと考えて、次に、その他の感情や、人間の周りにいる他の霊について話すことにしよう。
君は、太陽のように輝きを放っている人、部屋にその人がいるというだけで幸せになってしまうような人を見たことがあるだろう。どうしてそんなことがおきるのか、考えたことがあるかね? 実は、彼らの周囲には、その明るい気性にひかれて、人生の美と喜びの“証人の群れ”が集まっているからなのだ。
私自身も、地上にいたとき知り合いだったある優しい心の持ち主が発する光の温もりの中で、よく体を暖めさせてもらっている。彼の周りに集まった霊たちは、「ここにいるのは気持ちがいい」と言い合っている。そんな彼に災いが降りかかることなどあるだろうか? 彼の身に危険が迫りでもすれば、彼を愛し気づかう多くの霊が、われ先に警告しようとするだろう。
そしてまた、楽しい心は楽しい出来事を呼び寄せもする。
素直さや謙虚さも、肉体をもたない魂を強くひきつける。“幼な子のごとくに神の国を受くる者ならずば、これに入ることあたわず”と聖書に書いてある通りだ。
子供が目に見えない友だちと遊んでいる姿はよく見かけると思う。大人はそれを、想像上の友だちと呼んだりする。彼らは想像上の存在とも言えるし、そうでないとも言える。想像することは創造することであり、すでに創造されたものをひきつけることではないだろうか。
私は、他でもないあの〈美しきもの〉が、地上にいる幸福な人間の頭上をうっとりと漂っているのを何度も見ている。
他人をうきうきさせる心が喜びの歌を歌えば、歌い手と一緒になってその歌を楽しむ霊の群れが集まってくるだろう。前にも話した通り、二つの世界の間では音は自由に伝わるからだ。
めそめそしてはいけない−−失われた心のバランスを回復するとき以外に泣くのは禁物だ。といっても、めそめそ泣いている霊は、力が弱いのでさほど害はない。涙の嵐は、過ぎ去ってしまえば、周囲の空気をからりと晴れ上がらせることもある。しかし、泣いている最中は、その人の周囲には涙にくれる霊がひしめいている。悲しみの涙を流す人間自身はそんなに音をたてていなくても、霊たちが涙をこぼす音が霊気のベールを通して聞こえてくるほどだ。
“貴方が笑えば世界も笑う”という言葉は真実をついているかもしれない。しかし、人は泣くときも一人で泣いているわけではないのだ。
第五十二の手紙 魂の探求
これらの手紙の執筆作業が終わったら、他の星々を訪ねるつもりだということはすでに話した。が、私の考えでは、宇宙の中を行き来するそうした旅は、今までしてきた、あるいはこれからするつもりの、自分の心の奥底を探る旅に比べれば、霊的な価値ははるかに少ないので、そのことも話しておかねばなるまい。実際の時空間を旅するのは、人間にとっては大切なことだ。そういう旅をすれば、他の国や民族のことを知り、彼らと自分の違いを見極め、そこから物事の原因について学べるだろう。だが、成長するためには、静かに瞑想することが現実の旅以上に大きな意義をもつ。ここに霊的に開かれた感性をもつ人がいて、その二つのいずれかを選ばねばならないとしたら、山奥の小屋にひきこもり、自分の魂の内部を探ってその魂が守っている秘密を求める方が、そうした省察なしに地の果てまで旅するよりも、その人にとっては有益だと思う。
己の魂を熟知しなさい。自分はなぜこういうことをするのか、なぜこう感じるのか、その理由を知らなくてはいけない。どんなことでも疑問が生じたら、黙って腰をおろし、真実が心の奥底からわき上がって来るのを待つことだ。自分の中にどんな動機があるのか、常に考えなさい。「私はこれこれの理由により、こういう行動をとらねばならない。よって、私はその理由のためにこれをする」などと言ってはならない。そういう論法は自己欺瞞だ。親切なことをするときは、なぜ自分はそれをするのか考えなさい。そうすれば、親切な行為にさえ、自己探求という隠れた動機があることがわかるはずだ。そういう動機に気づいたら、自分に対しそれを否定してはいけない。その動機を、しっかり自覚するのだ。といっても、わが家の壁にでかでかと書いて宣伝する必要はない。そうやって、自分の動機を密かに自覚していれば、他人がどういう動機をもっているのか考えるときに、共感や思いやりを深めることができるだろう。
常に理想を求めるよう努力し
なさい。ただし、感情について考えるとき、本当は理想的でない感情にまで、理想的だというレッテルを貼ってはいけない。自分に正直になることだ。その勇気がもてるようになるまでは、自己の魂を探求しても、進歩は殆ど望めない。
地上での人生を終え、次にまた地上に戻るまでの間の時期は、瞑想するにはうってつけだが、それでも肉体をもっているうちから瞑想の習慣をつけておく方がいい。肉体をもっているときの習慣は、肉体を捨てた後もなかなか消えない。肉体的な習慣になるべく縛られないようにせよ、というのはそのためだ。
私のあの魅力的な友人、毎日夫のもとを訪れ、彼の手を借りて愛のメッセージを綴っているあの女性が、こちらの新しい世界について知識を得るためにもっと時間を割き、その知識で夫を啓発すれば、二人の交流は非の打ちどころのないすばらしいものになるだろう。だが、残念ながら、現状はそうなっていない。だから、私はもう一度彼女を捜し、父親のような思いやりをもって忠告しようと思う。彼女はのみこみが早く、聞く耳ももっているから、私の忠告を受け入れるだろう。夫の方も、彼女の経験には興味をもつだろう−−それが単に、他ならぬ彼女の経験だから興味がある、ということにすぎないとしても。やはり、彼女にはもう一度会っておかねばなるまい。
私は、己の魂という記録保管所で、いくつものすばらしい発見をした。そこには、気が遠くなるほど古い時代も含めて、私の過去すべての記憶があったのだ。一つの人生で用意された原因が、別の人生でどんな結果を生むかを理解する中で、私はこれから他の星々をめぐって学ぶであろうことより多くのことを学んだといえる。
すべては魂の内に存在する。知識は全部そこにあるのだ。できればそのことを理解してほしい。自分の中で一番信頼のおける部分は、隠れた部分であり、そこには我々自身が光をあてねばならない。肉体を離れたら、地上の幻惑から目をそらし、地上の生への未練を断ち切るべきだと私が説く理由が、これでわかっただろうか? 何ものにもとらわれない、心穏やかな状態でなければ、魂が自らの秘密を明かすことはないのだ。といっても、私は地上にいる愛しい者たちに無関心なわけではない。それどころか、地上で愛していた人すべてに、前にもまして深い愛情を感じている。ただ、愚かに愛するのではなく、賢明に愛することができれば、その方が彼らのためにも自分のためにもなると気づいているだけだ。
それでも、ときに地上からの呼び声が大きくなると、私の心はベールのこちら側からそれに答えてしまう。