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★阿修羅♪

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投稿者 SP' 日時 2000 年 2 月 14 日 18:23:42:

回答先: 遊星への霊体X(Letters from the Light) 投稿者 SP' 日時 2000 年 2 月 14 日 18:17:44:

第七の手紙 物質の力

“霊界”に住む者の心に、地上の記憶は突然甦る。
「何てことだ!」と彼は言う。「俺がいないのに世界は続いている。あっちは今どうなっているんだろう?」
 自分がいないのに世界が続いているというのは、許しがたいことのようにさえ思える。彼はいらだつ。自分は時勢に遅れている、のけ者にされ、取り残されている、と思う。
 辺りを見回しても、四次元の場が静かに広がっているばかり。ああ、物質のもつ鉄のような力にもう一度とらわれたい! 何かをがっちりとつかみたい!
 そんな気分はやがて過ぎ去るが、ある日二倍の強さで戻って来る。この希薄な環境から脱け出し、濃密な素材に満ちた手ごたえのある世界に戻らねば。だが、どうやって?
 そうだ、思い出した! すべての行為は記憶から生まれる。前にやったことがあるからこそ、無謀な実験にならずにすむのだ。
 彼は目を閉じ、霊界でくるりと向きを変える。人間の生に、人間の集団が発する強烈なバイブレーションに、引き寄せられていく。そこには共感がある−−今交流している人々の魂と過去に共有した経験による共感なのか、あるいは気分や想像力が生んだ共感にすぎないのか。いずれにせよ、彼はつかんでいた自由を手放し、意気揚々と人間の生に身を沈める。
 しばらくして彼は目を覚まし、緑の野原や、人々のしっかりと実体のある丸い顔を、困惑の目で眺める。そこで泣き出し、戻りたいと願ったりする。くじけてしまえば霊界へ逆戻り−−そうなれば一からやり直しで、物質を求める苦しい道のりがまた始まるだけだ。
 意志が強く頑固なら、逆戻りせず、そのまま成長して人間になる。希薄な素材に囲まれていた前世は、ただの夢だと思いこむかもしれない。夢の中ではそこへ戻れるからだ。その夢は彼につきまとい、物質を味わう喜びを台無しにする。
 歳月が流れ、彼は物質界での闘いに疲れ果て、エネルギーがつきてしまう。彼は再び霊界の腕の中に沈みこみ、人々は声をひそめて、彼は死んだとささやく。
 だが、彼は死んだのではない。もといた場所に戻っただけだ。

第二十一の手紙 輪廻の蛇

 今夜は永遠について話してみたい。私はこちらに来るまで、永遠というものが全く理解できなかった。月や年や世紀の単位でしかものを考えられなかったのだ。今の私には、ぐるっと一周する円環の全体が見えている。物質界の中にいる時間とその外に出ている時間は、自我という心臓の収縮期と弛緩期にすぎない。そして、永遠という時間から見れば、どちらの期間もごく短いものだ。君には一生は長い時間に思えるだろう。私もかつてはそう感じていたが、今は違う。
 人はよく、「この人生をもう一度生き直せたら、今度はこんなふうにしたい」などと口にする。だが、人間がある一つの人生を二度生きることはない。それは、心臓が今打った鼓動をもう一度打ち直せないのと同じだ。しかし、どんな人間でも、次の人生に備えることはできる。たとえば、ある者が人生に失敗したとしよう。最高の理想に達したか否かで考えれば、大抵の人間は失敗すると言える。だが、考える頭のある人間なら、前世から持ち越すことのできた経験はしっかり吸収しているはずだ。地上でまた別の人生を生きることになっても、前世での体験を思い出すことはできないかもしれない。ただし、十分な訓練を受け、強固な意志をもてば、思い出せることもある。とにかく、ある人生に、一定の傾向、あるいは、説明のつかない衝動や欲求がついて回るとすれば、それは前世から持ち越されたものだと思ってまず間違いない。
 人間は、この世の人生はただ一度しかなく、死後の世界の生は同じ状態で永遠に続くと思いがちだが、そういう考えは捨てなくてはいけない。君たちは、今閉じこめられている濃密な素材の世界で永遠に生きることには耐えられないだろう。それと同じで、精神世界の希薄な素材に囲まれて永遠に生きることにも耐えられないのだ。ずっと生きていたら、そのうち飽きて、我慢できなくなるはずだ。
 つまりはリズムの問題だ、そのことをよく覚えておきなさい。存在するものはすべて、リズムの法則に従っている。神々も例外ではない−−ただ神の場合は、我々人間より大きな尺度で従っているし、干満の周期も人間より長いのだが。
 私は地上を離れたくなかったので、最後の最後まで抵抗した。だが、今にして思えば、あの状態ではやはり離れるしかなかったのだ。もっと早くから出航の準備をしていれば、より多くの糧食を備蓄でき、もっと長く航海を続けられたかもしれない。だが実際には石炭も水もつきていたので、寄港するしかなかった。
 命という小さな船でも、十分な糧食を積みこんで、七十年とは限らずもっと長く航海することができないわけではない。ただし、石炭も水も節約して使わねばならない。人々の中には、水は命の液体だと知っている者もいる。
 死後の生は永遠ではない、人間は霊界で永久に進歩を続けるわけではない、と言うと、そんな馬鹿なと怒る人がいる。だがそういう人に限って、霊界とは何なのか、ろくにわかっていないことが多い。
 どんな魂でも、永遠に生き続けることはできる−−それは事実だが、一つの方向だけに進み続けることはできない。進化の道筋はカーブを描いている。永遠は、自らの尾を呑みこんだ蛇のように、輪になっているのだ。まず物質界に入り、入った上で出て来なければ、物質を超越することはできない。人によっては、自分の意志で内か外にとどまることができ、しかも本人が望めばいつまでも−−といっても相対的な意味でだが−−そこにいられることもある。ただし、そういう人は決して恐れているのではない。彼らはどちらの生に踏みこむ勇気ももっているのだ。
 私はかつて、自分が死と呼ぶものを恐れていた。こちらの世界にも、自分たちが死と呼ぶものを恐れる人々がいる。彼らは何を死と呼ぶのか? 再び地上に生まれることだ。本当に、それを死と呼んでいるのだ。
 そちらの世界では大部分の人がリズムの法則のことを知らないが、こちらにも同じように無知な人々がいる。私が会った中には、自分たちが再び地上に生まれることすら知らない者もいた。彼らは、地上の人間が死のことを話すのと同じ口調で“大いなる変化”のことを話していた。そして、境界のこちら側にあるものは“証明されていないし、証明しようがないもの”ばかりだというのである。ここまで馬鹿げた話を聞くと、あきれるというより悲しくなってくる。
 私自身は、自分が死ぬとわかったとき、記憶と哲学と理性は失わずにそのままもって行こうと決意していた。
 ここでちょっと驚くような話をしよう。ある男は、『心霊現象の法則』という著書の中で、人の心は二つの部分に分かれていると述べ、それぞれを主観性及び客観性と呼んでいる。彼の説によれば、主観的な心は帰納推理ができず、客観的な心が提示する前提をすべて受け入れた上で、ずば抜けた論理力によってその前提から結論を導き出すが、前提そのものの当否を論じたり、結論から前提を導いたりすることはできないという。
 さて、前にも言っ た通り、私が今いる希薄な素材の世界では、人は原則として主観的な生を生きており、逆に地上の人々は原則として客観的な生を生きている。こちらの世界の人々は、主観的な心をもっているので、地上にいたとき、つまり客観的な心をもっていたときに与えられた前提をもとに結論を出す。前回地上にいたとき、いわゆる西洋に住んでいた人の殆どが、自分が再び地上に生まれることはないと信じているのはそのためである。西洋ではリズムの法則、つまり輪廻転生の考えは一般的ではないからだ。このように、大部分の人は、やはり前提条件から結論を導いている。
 君が、自分はあの世に行ったらこうなるだろうと思っている姿は、実際に行ったときの姿を決定する大きな要因になる。そのことを知っているかね? 輪廻転生を信じていない者でも、輪廻のリズムから永久に逃れ続けることはできない。だがそういう者は、リズムの波の高まりに押し流されて濃密な素材の世界に戻るまで、自分の考えにしがみついているので、こちらでの生の記憶を殆どなくして、何の準備もないまま戻ることになる。彼らがこちらに来たとき地上での生を覚えていたのは、あらかじめ覚えていようと決心していたからだ。
 昔から輪廻転生を信じてきた東洋人には、前世を記憶している者が多いが、それもやはり、記憶しようと思っていたからそうできたのだ。
 そう、私は地上を離れねばならないと気づいたときに、自分にまじないをかけておいた。地上の世界を出て行くときのことも、後で入って来るときのことも、両方覚えておこうと決心したのだ。もちろん、今度濃密な素材の世界に戻ったとき、何から何まで覚えていられるとは言い切れない。しかし、できればそうしようと決めているし、母親をうまく選べば、ある程度は成功すると思っている。その点は十分注意して、母親には輪廻転生の考え方になじんでいる女性を選ぶつもりだ。できることなら、−−という名だった前世の私を実際に知っている女性を選びたい。幼児になった私が、自分はお母さんが娘のころ知っていたあの−−と同一人物なのだと告げても、そんなはずはないと叱って私の考えを変えさせたりしないような女性がいい。
 子供たちの多くは、こちらの世界にいたときの記憶をもって地上に生まれてくるのだと思う。しかし、お前は新しく造られたのだとか、“神の手から生まれたばかり”などと始終言い聞かされるうちに、せっかくの記憶を失ってしまうようだ。
 永遠というのは本当に長い時間だ。そして、地上と天国には実にたくさんのものがあり、子供たちを教える並の教師の世界観ではその全体はとてもカバーしきれないのである。
 君たちが、永遠の生という考えをしっかり理解し、その考えを守り通せたら、と願わずにはいられない。自分は始まりも終わりもない存在だと認識できれば、そのときこそ価値ある仕事にとりかかることができるだろう。永遠を意識するのはすばらしいことだ。百万年という単位で自分を見る者には、ちっぽけな悩みは本当にちっぽけに感じられる。百万年が十億年になろうが何年になろうが同じことだ。百万年にしろ百万ドルにしろ、その他の何にしろ、百万という概念は実感できるものではない。百万という数字は歳月であれ金銭であれ、莫大な量を表すシンボルにすぎないのだ。その量は確定できるものではなく、確定したつもりでも必ず何かがこぼれ落ちている。どんな百万長者も、ある瞬間に自分がどのぐらいの財産をもっているか正確に知ることはできない。利息は常に増え続けているし、金の価値自体がどんどん変わっていくからだ。永遠の生についても同じことが言える。自分のことを考えるときは、百万年生きてきたとか一兆年生きてきたなどと思わないで、始まりも終わりもない、真に永遠の命をもつ存在なのだと思いなさい。自分が裕福だと知っている者は、多額であれ少額であれ一定量の金残をもっていると言う者よりずっと裕福なのだ。だから、永遠を意識して休息し、永遠を意識して働くようにしなさい。
 今夜はここまでにしよう。

第二十五の手紙 砂に描いた円

 私はこちらの世界で、夢想の楽しみを知り始めたところだ。どうやら私には、昔から夢想を好む気質があったらしい。だが、居場所を変えるまでは、その気質を自由に開花させる暇もチャンスもなかった。地上にいたときは、いつもやることがありすぎて、仕事に追われ、何やかやと忙しかった。ここでは私は自由だ。
 前にこちらの世界にいたときのことを思い出せなければ、君には自由の意味はわからない。そして、君はまだそれを思い出していないと思う。
 私が“夢想”と言うのは、生きる上での魔術、人生の灰色の面をバラ色に変える不思議な力のことだ。わかるだろう?
 夢見る暇や、夢を実現する暇があるのはすばらしい。ここでは、夢とは実現されるものなのだ。あらゆるものがこよなくリアルで、想像はこよなく大きな力を秘め、ものを結び付ける力はこよなく強い−−限りなく強いと言ってもいい!
 こちらの世界の夢想家は決して怠け者ではない。ここでは夢を見るのは一種の建設的な行為なのだ。よしんばそうでなくても、我々には好きなことをする権利がある。それなりの働きをしたからこそ、今休暇を得ているのだ。いずれまた労働に戻る日が来る。そうなれば濃密な素材の服に着替え、その重みに耐えねばならない。
 そうなのだ、地上で重い足をもう一方の重い足の前に出して、五十キロなり百キロなりの体を一キロメートル進ませるには、こちらの世界で地球を一周するより多くのエネルギーが必要なのだ! こう言えば、我々が楽しんだり夢を建設したりするのに使うエネルギーがどれほどたくさん余っているか、想像がつくと思う。
 地上にいる君たちは、恐らく働きすぎだ−−本当に必要な量以上に働いているのだ。君たちが周りに山と積み上げている不要な品、必需品だと思っている人工物、それらを調達するために目まぐるしいスピードで進む生活、そういったものは我々の目には愚かしく、哀れにさえ映る。君たちの政治や経済は子供の遊びにすぎないし、政府は不要なことばかりするポンコツ機械だし、君たちの仕事の大部分は無意味だ。君たちは苦しんでおり、自分の努力の大半はむなしいものだと、苦しみを通じて嫌々ながらにでも気づいているが、その認識さえなかったら、君たちの人生は殆ど不毛なものになっていただろう。
 私もかつては苦しみつつ努力したものだが、努力してやっていたのは、砂の上に小さな円を描くことでしかなかった! 今にして思えば、あの頃もっと考える暇を作っていたら、以前の生で得た知識のいくらかを取り戻せたかもしれない。その上でなお、砂の上に円を描かねばならないと感じたとしても、それはもっと簡単に、半分の時間でできただろう。
 ここでは、その気になれば、雲の色が移り変わるのを何時間でも眺めていられる。あるいは、もっと嬉しいことに、仰向けに寝転がって記憶を辿ることもできる。記憶を辿るのはすばらしいことだ。心を過去に溯らせ、何年もの時を経て、いくつもの人生を経て、何世紀もの時を経て、どんどん戻っていくと−−自分は亀になっている! 逆に、未来 を見つめて、どんどん先へ進み、いくつもの人生を越え、何年もの時を越え、何十億年も先を見れば、自分は大天使になっている。過去を見るのは回顧であり、未来を見るのは創造だ。言うまでもないが、我々の未来は我々自身が造るのだ。他に誰が造れるだろう? 我々は他人に影響を受け、他人に動かされ、他人に助けられたり邪魔されたりする。しかし、どんなときでも、鎖を作るのは我々自身なのだ。我々は自分で作った結び目を自分で解くことになる。それも、苦労して、悩みながら解くことになる。
 過去に過ごした様々な人生を溯るうちに、私は前回の人生のいわれや因縁を知った。ある意味で、前回の人生は、これまでで最も−−いや、二番目に満足感の少ない人生だった。だが、今の私にはその目的がわかるし、前回こちらにいたときそのための計画を練っていたのも思い出した。特定の人々と出会い、彼らを友だちにするために、地上に戻る時期を調整してさえいたのだ。
 だが、今や私は転機を迎え、再び上昇を始めている。次に地上に戻るときの計画もすでにたて始めているが、別に急いでいるわけではない。当然だ! ここの生活の自由や楽しさを満喫するまでは、地上に戻る気はない。
 それに、勉強しなければならないこともたくさんある。これまで忘れていた以前の人生を思い出せたので、それらの人生で学んだことを復習したいのだ。
 君も学校時代には数週間前や数か月前に習ったことを時々復習したと思うが、どうやっていたか覚えているかね? 復習という習慣は、きちんとした原則に基づいている。私は今、前に習ったことを復習している。もう少ししたら、地上に戻る前に、復習事項を見直して、特に地上にもち帰りたい記憶を意志の力で定着させるつもりだ。過去の経験を見つめる心の目の前で繰り広げられている壮大なパノラマを、そっくりそのままもって行くのは不可能に近い。だが、根本的な事柄や、哲学的な原則や実例の中には、忘れるわけにはいかないものがいくつかある。その他、ある教義の知識や、君たちならオカルトと呼びそうなある儀式の習慣も、もち帰りたいと思っている。それらを利用すれば、新たに肉体を得て再び成長したとき、今目の前に展開している様々な経験の記憶を、いつでも好きなときに甦らせることができるだろう。
 いや、君自身の過去の話ではない。君の過去は、君が自分で取り戻すべきだし、取り戻せるはずだ。記憶と想像の違いを知っていれば、誰でも過去は取り戻せる。その違いは確かに微妙だが、昨日と今日が違うのと同じぐらい本質的な違いでもある。
 君もいつかはこちらに来てそのままとどまるだろうが、どうか急がないでほしい。今いる場所に、できるだけ長くいなさい。我々がこちらでやっていることの多くは、まだ肉体の中にいるときでも、殆ど同じぐらいうまくできるはずだ。もちろん、使うエネルギーは地上の方が多いが、エネルギーというのはそもそもそのために−−使うためにある。使わずに蓄えるときでも、将来使うためにそうしているのだ。そのことを忘れないでほしい。
 私が今休息したり夢見たり遊んだりしているのは、一つには、できるだけ多くのエネルギーを蓄え、力をつけて地上に戻るためでもある。
 君が私の忠告に従ってのんびりする時間を作り、自分の魂を知ろうとしているのはよいことだ。己の魂を探求する旅にゆっくりと足を踏み出した者には、様々な驚きが待ち受けている。魂は怪しげな鬼火などではない。物質主義や忘れっぽさといった岩礁を避け、ぶじに航海を続けるために頼りにする、灯台の光なのだ。
 古代ギリシアで過ごした前世に戻ってみたときは、大変楽しかった。あの時代のギリシア人の集中力には驚かずにはいられない。彼らは博識だった。たとえば、その水を飲むと生前の一切を忘れるという忘却の川の話−−何とも凄い考えだが−−は、すばらしい記憶力によってこちらの世界からもち帰ったものだ。
 人間は、記憶を辿りさえすれば、つまり、それまでに送ったすべての前世について時間をかけて考えさえすれば、自分がこれからどうなるかということについて、もっと希望をもつはずだ! それこそ、人間は神に−−というか、普通の人間に比べれば神に近いといえる偉大さと崇高さを備えた存在になれるかもしれない。驚いたときに使う慣用句の「イー・ゴッズ(汝ら神々よ)」は、単なる比喩ではないのだ。
 私はイエス・キリストに会い、霊的交流をもった。そこにいたのは、人間であり−−なおかつ神である者だった! 世界は今、イエス・キリストを必要としている。

第二十九の手紙 魔術師とシルフ

 もし君が物質のベールを透視できて、パリ市の周辺や上空に広がる希薄な素材の世界でおきていることを見たとしたら、きっと驚きに息を呑むだろう。私は最近、パリで多くの時間を過ごしている。この目で見た不思議な出来事について少し話してみようか?
 セーヌ左岸のヴォージラールという通りに、魔術師のようなことをしている、出無精の中年男が住んでいる。男には空気の精、すなわちシルフと呼ばれる元素の霊がつきそい、常に世話をしている。そのシルフを男はメリリンと呼ぶ。彼は数か国語を話すということで、ヘブライ語も知っているらしいが、メリリンという名をどの言語からとったのかはわからない。私はメリリンが彼のアパルトマンに出入りするのを見ている。いや、正確な住所は伏せておこう。シルフは国勢調査員の目を逃れられるとしても、男の身元がわかってしまうといけないから。
 メリリンは、ベッドを整えたりスープをこしらえたりはしない。そういう雑用は家政婦がやる。メリリンの仕事は、街に出て、男のためにものを見つけることだ。男は古い書籍や写本を集めており、彼の宝の多くは、セーヌ河岸に並ぶ露店や、それよりは立派そうな本屋で、メリリンが見つけてきたものだ。
 男は悪魔崇拝者ではない。ただの人畜無害な熱狂的オカルトマニアで、わが目から元素の世界をさえぎっているベールを透かし見ようと躍起になっているだけだ。ブランデーとワインをもう少し控えれば、ひょっとしたら、はっきり見えるようになるかもしれない。男はこれでも真の学徒なのだ。しかし、彼は肉体にこだわり、そのために魂を苦しめているのだった。
 ある日私は、男のために用足しに出かけたメリリンを見かけたので、手まねを交えながら自分の名を言って、自己紹介をした。妖精は興味をひかれたようで、側に来て立ち止まった。
「どこへ行くんだね?」と尋ねると、彼女はあごをしゃくって川向こうを示した。
 善良なる魔術師に仕えるこの妖精には、ご主人様の用事についてきいたりしない方がいいかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだので、私は少しためらった。彼女もためらっていたが、やがて口を開いた。
「でもご主人様は、人間の霊に興味がおありなんです」
 これで話がしやすくなったと思い、私はこう尋ねた。
「君は彼のために使い走りをしているんだね?」
「ええ、いつも」
「なぜそんなことをするんだい」
「ご主人様に仕えるのが好きだからです」
「なぜ好きなんだ ろう」
「私はご主人様のものですから」
「人はみな自分自身の所有物だと思っていたが」
「でも、私は人じゃありません!」
「じゃあ、何なのかね?」
「シルフです」
「いつか人になれると思っている?」
「もちろん! ご主人様は、一生懸命仕えたらなれると約束してくださいました」
「しかし、彼はどうやって君を人間にするんだろう?」
「わかりません。でも、そうしてくれるのは確かです」
「なぜそう言い切れるんだね」
「ご主人様を信じていますから」
「なぜ信じる?」
「ご主人様が私を信じているからです」
「すると、君はいつも彼に真実を話しているんだね」
「ええ、いつも」
「真実とは何かということは、誰に教わった?」
「ご主人様に」
「どんなふうに?」
 目の前の妖精が、この質問に困惑したようなので、私は彼女が行ってしまうのではないかと恐れた。そこで、彼女をひきとめるためにすかさずこう言った。
「君が答えられないような質問をして、困らせるつもりはない。どんな経緯で彼に仕えるようになったのか、聞かせてくれないか」
「言わなくてはいけませんか?」
「では、君は良心をもっているんだね?」
「ええ、ご主人様にそうしろと言われましたから」
「しかし彼は、人間の霊に興味があるんだろう」
「そうです。私はよい霊と悪い霊を見分けることもできます」
「そのやり方は彼が教えてくれた?」
「いいえ」
「なら、どうしてそんなことができるようになったんだい」
「昔からできたんです」
「すると、君は随分長く生きているわけだね」
「そうなんです!」
「じゃあ、いつ魂をもてる、つまり、人間になれると思う?」
「ご主人様が、私たちのいるこちらの世界に来られたときです」
 その答えの大胆さに、私は唖然とした。善良なる魔術師は、シルフを欺いているのだろうか、それとも、約束を果たせると本気で信じているのだろうか?
「そのことについて、彼はどう言っている?」
「私が今ご主人様に仕えれば、後でご主人様が私に仕えてくださるそうです」
「彼はどうやって君に仕えるつもりなんだろう?」
「わかりません」
「きいてみたらどうだい」
「私は質問はしません。質問に答えるだけです」
「たとえば、どんな質問に?」
「ある人が今どこにいて、何をしているか、というようなことを、ご主人様に教えています」
「その人たちが、何を考えているかも教えられる?」
「しょっちゅうでは−−というか、いつもというわけではありません。教えられるときもあります」
「人の考えがどうやってわかる?」
「感じでわかります。ある人の側にいて暖かく感じれば、その人はご主人様に好意をもっています。寒く感じれば、その人はご主人様の敵です。何も感じなければ、その人はご主人様のことは考えていない、つまり、無関心だということです」
「で、今夜の用事は何かな」
「あるご婦人に会うことです」
「やきもちは焼かない?」
「『やきもち』って何ですか?」
「彼がご婦人方に興味をもつのはいやじゃない?」
「いやだなんて、どうして思う必要があるんでしょう?」
 私はシルフの性質を知らないので、この質問には答えられなかった。彼女の言ったことは少々意外だった。女というのはすべからくやきもち焼きだと思っていたからだ。だが、このときも、彼女が立ち去りはしまいかと心配だったので、急いで質問を続けた。
「彼とはどうして知り合った?」
「ご主人様が私を呼んだんです」
「どうやって?」
「魔法でです」
「どんな魔法?」
「シルフたちを呼ぶ魔法です」
「そうすると、彼がシルフたちを呼んで、それで君が来たわけだ!」
「その通りです。私は親切なご主人様が好きでしたから、ご主人様に私が見えるようにしてあげたんです」
「一体どうやって?」
「うんと眩しくして、ご主人様が目をつぶるようにしました。それから見えるようになったんです」
「今は、彼にはいつも君が見えるの?」
「いいえ、でも、私がそこにいることはわかります」
「今でも、時々なら見える?」
「ええ、しょっちゅう」
「一番最初に見えたときはどうだった?」
「ご主人様はとても喜んで、私に優しい言葉をかけて、いろいろ約束してくださいました」
「人間にしてやるという約束も、その最初のときに?」
「そうです」
「じゃあ、それまでもずっと人間になりたかったんだね?」
「それはもう!」
「しかし、どうして?」
「私たちの多くは人間になりたがっています。私たちはみんな−−というか、殆どの者は、人間が好きなんです」
「なぜ好きなんだね?」
「そういうふうに生まれついているんです」
「でも、みんながみんなそうではない?」
「空気の精の中には、心のねじれた者もいますから」
「魂をもてたら、そのときはどうする?」
「肉体を手に入れて、地上に住みます」
「では、今仕えているご主人とは別れるんだね?」
「まさか! 私は、ご主人様の側にいたいからこそ、肉体がほしいんです」
「すると、彼も君と一緒に地上に戻るのかな?」
「そう仰っています」
 私はここでまた唖然とした。この魔術師、なかなか面白い男のようだ。何と大胆な想像をするのだろう。
 はたして空気の精が人間になれるものだろうか、と私は自問した。彼は己を欺いているのか? それともやはり、この愛らしい使者が欺かれているのか?
 このときは、考える時間が少し長すぎたらしい。というのも、不思議な友人に話しかけようと再びそちらを向いたときは、もう彼女はいなかったからだ。私はあとを追おうとしたが、むだだった。彼女がすぐ戻ってきたとすれば、別の道を通ったに違いない。私はあらゆる方向を見たが、彼女の姿は見えなかった。
 君の頭には、こんな疑問が浮かぶかもしれない。フランス人魔術師の召し使いである空気の精と、私は一体どんな言語で会話をしたのか? 私は自国語で話していたと思うし、彼女の方も同じ言葉で話していたようだ。なぜそんなことができたのか? 私にはわからないが、多分実際は、二人とも思考そのものをやりとりする微妙なやり方で話していたのだろう。
 自分とは違う言葉を話す人に会ったとき、目つきや表情や身振りで考えていることが伝わるように感じることはよくあると思う。あの感じが百倍強まったと思ってもらえばいい。私とシルフの単純な質疑応答はそういうものだったのだろうか? 絶対にそうだとまでは言えないが、私はそうではないかと思っている。なぜなら、さっきも言ったように、私とシルフは、私の母語で話し合っていたような感じがするからだ。
 こちらの世界で、人は何と不思議 な経験をするのだろう! 地上で過ごす長く退屈な時間を思うと、戻るのはどうも気が進まない。この自由で生き生きした生活を、長い嗜眠の期間とそれに続く人生、つまり哺乳瓶を吸ったり、九九の表や、ギリシア語やラテン語の動詞を暗記したりする期間と交換することなどできるだろうか? 多分、いやでもそうしなくてはならないだろう−−だがそれはまだ先のことだ。
 おやすみ。

第三十の手紙 至福を失うとき

 君は時々、私の存在を感じていると思うが、そのときの生き生きした感覚で、私が今どんなに力強い生を生きているか、見当がつくだろう。私は、墓場の露をしたたらせた生白い幽霊などではない。しっかり実体もあるし、どこかしら具合の悪い体で地上を歩いていたときと同じぐらいには健康でもある−−とにかく、自分ではそう感じている。
 君たちが私を恐れたりしなければ、それは文句なくすばらしいことだと言えただろう。しかし、君以外の人が私の存在を感じると、恐れを抱いてしまうこともあるのだ。
 ある晩、友人の部屋のドアをノックしたとき、私は歓迎されるものと半ば期待していた。だが彼は、ぎくっとしてベッドを飛び出したと思うと、また慌ててベッドに戻り、毛布を頭からひっかぶった。私だったらどうしようと、本気で恐れていたのだ! これで彼が心臓麻痺をおこしたり、昔の歌にあるように“一夜にして白髪に”なったりして、お前のせいだと責められてはかなわないので、そのまま大人しく帰った。彼は翌日、あれは羽目板の裏のネズミだったのだと自分に言い聞かせたに違いない。
 だが、もし君までが私を恐れたら、私は情けなく思っただろう。君にはちゃんと分別があるのだから。大抵の人にはその分別がない。
 時々戻って来て君と話すのは本当に楽しい。“旧友に勝る友はなし”だ、昔親しかった友人にことごとく敬遠されたら、いくらシルフや霊との付き合いがあってもやはり寂しく思うだろう。
 シルフと言えば、このあいだ話したフランス人魔術師が、召し使いである空気の精との約束を本当に果たせるのか、人間の女の肉体をもつのに必要な魂を得られるように、彼女を助けてやれるのか、ゆうべ師に会ったとき尋ねてみた。師は「むりだ」と答えた。
 もちろん、その理由も尋ねた。師によれば、我々の言う元素の霊、すなわち元素に宿る力のまとまりは、その一生の中では、元素を抜け出して人間の体に入ることはできないのだそうだ。
「彼らは絶対に人間にはなれないのでしょうか?」と私はきいた。
「わからない」と師は答えた。「しかし、地上の周辺にいる未発達の霊は、いずれも人間の方向へ進んでいると思う。人間というのは、彼ら全員がいつの日か辿り着く発達段階だが、その日は今生のうちには来ないだろう」
 私は師に、パリに住むあの魔術師を知っているかときいた。すると、千年も前から知っているという答えが返ってきた。師の話によると、あの魔術師は、ずっと昔、ある前世で、力に通じる道を歩んでいたが、利己心から快楽を求めたために、脇道にそれてしまった。本物の哲学的真理の道に戻るまでには、まだ長いことさまよわねばならないだろうという。
「彼のことは、非難すべきでしょうか、それとも、哀れむべきでしょうか?」と私はきいた。
「この場合、哀れんでも仕方ない」と師は答えた。「人は、自分の望むものを追求するのだから」
 師が行ってしまうと、私は自分に問いかけた。この私は、一体何を追求しているのか、そして私の望むものとは何だろう? 答えはすぐに出た。“知識”だ。一年前だったら、“力”と答えたかもしれないが、知識は力に先立つものだ。真の知識を得れば、力をもつことにもなるだろう。
 私が何度も何度も戻って来て君に話しかけているのは、君に、そしてできれば他の人々にも、他の方法では知り得ない知識を少しでも与えたいと思っているからだ。
 私が与えたいと思う最大の知識は次のようなものだ。人間は、意志の力を行使することによって、死後も客観的な意識をもち続けられる。こちらにいる者の多くは、いわば主観の至福に浸りきってしまい、そのせいで地上や天国の出来事に無関心になっている。私も、ひとつ間違えばそうなるだろう。
 前に言ったと思うが、地上の人々は客観的意識と主観的意識の両方をもっているものの、主として客観的意識の中で動いている。一方、こちらの世界の人々は、やはり客観的意識と主観的意識をもっているが、主観的になりやすい傾向がある。
 君たちは、心を鎮めて自分の内面を覗けば、死と呼ばれる境界線のこちら側にいる者が享受しているのと同じような主観の至福の状態に、ほぼいつでも身をおくことができる。実際、人間が霊界について知っていることの大部分は、そうして潜在意識を探ることによって学んだものだ。肉体のもつ情熱の嵐が静まれば、人は己の内面の生をかいま見ることができる。内面の生は、こちらの四次元の世界の生だ。この話に矛盾や曖昧さを感じても、どうか責めないでほしい。私が言っているのは、我々が客観的意識をもてるように、君たちも主観的意識をもてないわけではないが、どちらもその逆の傾向の方が強いということなのだ。
 何週間か前に書いた、恋人たちの話を覚えているだろうか。男の方は、随分前からこちらに来て恋人を待ち、生の二つの状態の間に横たわる不安の沼を、彼女が越えるのを手伝ってやったのだった。
 先日、あの二人にまた会ったが、彼らは私の顔を見ても少しも喜ばなかった。それどころか、迷惑にさえ思ったようだ。ようやく二人でいられるようになって以来、主観の至福に浸り続けていたのに、私が声をかけてその状態から目覚めさせてしまったからだ。
 男は長年彼女を待ち続け、その間は期待感によって自らを目覚めさせていた。一方、彼女は地上にとどまったまま、こちらの世界にいる彼のことを常に考えていたので、極性が保たれていた。だが、今や二人はお互いを得た。男が希薄な世界の希薄な素材で彼女のために喜々として建てた“小さな家”に、彼らはいる。外を見ても内を見ても、互いの顔が見える。二人とも満足している。もう望むものはない(とにかく、本人たちはそう言い合っている)。というわけで、二人は主観の至福の腕に抱かれることになったのだ。
 彼らには、この至福の状態を楽しむ権利がある。誰もそれを奪うことはできない。彼らは、地上やその他の場所での活動によって、その権利を勝ち得たのだ。リズムの法則が正しく働いたことで、それは彼らのものになった。二人は長い時間をかけてその状態を楽しみ、一緒だったときや離れていたときに経験したことを味わい直すだろう。そしていつか、二人のどちらかが、その甘美な喜びに飽きる日が来る。彼(または彼女)の魂の筋肉は、うんと伸びをしたくなる。彼(または彼女)は霊のあくびをして、その反作用によって出て行く−−そして戻っては来ない。
 彼(または彼女)はどこに行くのかって? もちろん、地上に戻るにきまっている!
 彼(または彼女)が、自分たちの到達点と見なしている主観の至福から目覚め、神聖にして健全な 孤独の中で短い散歩に出たとしよう。彼(または彼女)は、朝目覚めたばかりの溌剌とした目と心の働きによって、地上にいる一組の恋人に引き寄せられる。すると突然、物質の呼び声が、血と体温と活動の怒涛のような呼び声が、最大限に高まり、霊的物質に満ちた世界にいる目覚めかけた魂をとらえ−−
 彼は物質界に戻ってしまう。彼は地上の人々の間に潜伏し、誕生のときを待つ。それまでの休息の反作用による大きな力で、彼は地上に生み出されるだろう。彼という力のまとまりが強力であれば、“産業界の指導者”にもなれるかもしれない。私は“彼または彼女”という言い方で話を始めたのだが、やはり“彼”に統一しよう。彼の方が正極だから、先に目覚めるのはほぼ間違いない。
 あの恋人たちの様子をこうして思い描くことで、魂が地上に戻るときは常にこうなるという公式を打ち立てるつもりはない。私は単に、あの二人が(彼女の方も、目覚めて自分がひとりぼっちだと知ったら、すぐさま彼のあとを追うだろうから)地上に戻るところを想像しているだけなのだ。彼らがこういう形で戻るだろうと思うのは、今当人たちが主観の至福に溺れきっているからだ。
 彼らはいつ地上に戻るのか? 私にはわからない。来年かもしれないし、百年後かもしれない。彼らのもつ力のまとまりの絶対値がわからないので、激しい反作用をひきおこさずに主観の至福にどこまで耐えられるかが、計算できないのだ。
 私自身も、今説明した主観の至福の状態にいつかは身を沈めるのかどうか、君はそれが知りたいだろう。恐らく、そうなると思う。私はその状態を楽しむべきなのだ−−そう長い期間ではないし、今すぐにというわけでもないが。ただ残念ながら、私はこちらの世界に恋人がいないので、二人で一緒に楽しむことはできない。





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