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回答先: 「第三遊牧民」と三島由紀夫 投稿者 倉田佳典 日時 1999 年 12 月 31 日 16:48:02:
『情報社会のテロと祭祀』−−その悪の解析−−
倉前盛通 創拓社 1978年3月25日初版
P25
第三遊牧民のテロと祭祀 理性と本能の狭間を流れゆく祭祀とテロとは?
一九七〇年代の終り
あと二年で一九七〇年代も終り、いよいよ一九八〇年代を迎えようとしている。一九六〇年以降の約二十年間をふりかえってみるとき、そこに新しい時代の薄明がみられる。と共に、時代の波に押しつぶされて苦しむ人々の姿も多く見られる。
世間で騒がれていた情報革命、第二次産業革命論は、ペトナムからの米軍撤退、石油ショック、円高問題等で忘れ去られようとしているかに見える。がしかし、それはむしろ、情報革命の定着化、土着化を示すものであって、消滅を意味しているのではない。それはやはり、米国とソ連の威信のため、巨費を投じて推進された宇宙開発が、膨大なコンピューター網を完成させ、システム工学上の発展をひきおこし、その余波が米国の世界観、ソ連のイデオロギーそのものに、重大な変質を及ぼした事に起因するといえる。つまり、情報科学の発達が哲学的な問題にまで波及効果をおよぼし、政治軍事政策上の混迷までひきおこしてしまったからである。
これは、言葉と文字記号が内蔵している巨大な潜勢力について、今までの人間が余りに無智であったことへの報いである。とくに物質生産の動きを基本にして組み立てられていた今までの世界観が誰も予想しなかったような不可解な情勢の進展によって大きな挑戦をうけはじめているという、このような急激な国際環境の変化は、実は爆発的な情報量の増加に伴っておこったものである。しかも、漠然とした曖昧な情報ではなく、高度に精密化され数量化された情報を必要とする。ところが、実際に流布されている膨大な情報は、一体、どれを信用していいのか、誰にもわからないほど複雑で、しかも怪奇である。その中から、自分達のグループや、自国が生き残るための情報を選別し、整理し、武器として役立てるための作業には、超人的努力を必要とする。これに耐えられない者は今日の国際社会から疎外され、脱落するほかはない。勿論、現代の社会は多種多様な要素を含んでおり、いたずらにオロオロしないで肚をきめてしまえば、誰でもそれぞれ自分に似合った情報を生かして生活してゆけるのであるが、とかくエリートを自負する人々は新しい時代の先端をゆくことに憧れやすいし、その反動として、ついてゆけない場合、反抗と反撥を招きやすい。
人間の記憶は大脳の新しい皮質の働きでおこなわれるという。しかし、この記憶が大脳の皮質に定着するためには、古い大脳皮質につながりをもたねばならぬという。ところが、この古い大脳皮質は動物としての基本的な生き方のプログラムが内蔵されている部分であって、情動(喜怒哀楽)や本能的行動はここからでてくるとされている。であるから、痛みや恐怖、悲しみなどを伴った痛切な体験は古い皮質へ直接ひびくので、記憶が鮮明にあとあとまで残るといわれる。単に表面を撫でて通っただけの知的学習は一向に身につかず、すぐ忘れてしまうのも古い皮質へ届かなかったせいかもしれない。
だから人間は余りに沢山の情報がいっぺんに入ってくると、古い皮質が拒否現象を示すようになる。「ほっといて! ききたくないわ!」と、情報を受けつけなくなる。数年前月着陸に成功したアホロ十一号のコンピューターが着地寸前、余りに多くの情報が入りすぎて、処理が不可能になり、赤信号を発するという事態が生じた。幸い、コンピューターのスイッチを切って手動で着陸し得たから良かったけれども、ちょっとしたスリルをNASA(米航空宇宙局)の連中は味わったらしい。機械でさえ、この調子なのである。まして生身の人間が、余りに膨大な情報洪水にさらされると、少しおかしくなる。とくに大脳の古い皮質はその人の「人がら」を左右する領域であるから、ここが弱い人、つまり強い意志や動物的な逞しさを持たない人は、忽ち、アホロ十一号のコンピューターのように赤信号を出して降参してしまう。
その結果、情報をうけ入れてうまく処理している人々との間にギャップが生じてくる。「それでもいいさ、どうせ大した差じゃない」とタカをくくっておれる人は真の賢人である。しかし、怠け者のくせに、自己顕示欲だけ強い人間にとってはこれは耐えられない事である。だから、自分だけが拒否するのでなく、社会全体をひきずりこんで、みんなと一緒に拒否的態度をとろうという衝動にかられる者が出てくる。まして、古い皮質は本能と動物的情動の巣であり、新しい皮質のような理知の巣で はない。理窟抜きの反抗、破壊、アナーキズム的暴走など、最近、世界各地でひきおこされている異常事態の一つの原因は、古い大脳皮質のストレスに起因しているといえよう。
だから、日本赤軍のようなグループに、いくら道理を説いてきかせても無駄である。道理や理窟は 新しい皮質に根ざすものである。だが、新しい皮質は古い皮質の反抗の前には無力である。理性より情動(エモーション)の方が強い。まして、破壊行動を弁護するイデオロギーの免罪符が与えられ、一部のマスコミがおだて、外国筋の謀略機関が資金援助までしてくれ、日本政府が気前よく身代金を払ってくれるとなれば鬼に金捧であろう。とうてい、常識家のお説教位でおさまる筋のものではないし、「人命は地球より重い」などというゴマカシの逃げ口上など、彼等にとっては滑稽にしか見えないで あろう。もともと情動から発した行動である以上、痛みや恐怖や挫折感が古い皮質に直結して、はじめて暴走行為にブレーキがかかるのである。だからこそ、イスラエルも、西ドイツも特殊部隊を派遣して、思いきり、テロリスト達を叩きのめして見せたのである。実は、これが一番効果的な処方箋なのである。情報社会におけるテロリストの暴力は最も苛烈な形を今後もとるであろうが、そのうちに、国際社会全体が変態を完了し、脱皮をおわってしまえば、おのずから鎮静する性格のものである。
反体制の心理、農民と遊牧民の対立
過去の歴史をふりかえってみても、時代の変革期、人類文明の大きな境口には、必ず、衝動的な反抗と憎悪、怨恨が生じ、常識では考えられないような対立と衝突が生じている。このような変化をくぐりぬけるたひに、人類の文明は新しい飛躍をとげてきた。今から数千年前、人類がはじめて農業社会を形成した時にも、この新しい農業体制についてゆけず、反撥する者が少なくなかったようである。
人類は猿人の時代まで含むと数千万年の間、狩猟、採集の生活を送ってきたと見られるのであるが、採集民一人を養うには数平方キロの面積が必要であるという。しかし農業技術が発達すれば、その数十分の一の広さで人間一人を養うことができる。そこで、一カ所に沢山の人間が集まって村をつくり、共同生活をするようになってくる。だが、広い山野を自由に歩きまおり、木の実などを拾っていた人間にとっては、たとえ、百人、二百人程度の人口でも、それが一カ所に集中することに耐えられず、ノイローゼ気味になった者も多かろう。現在でも田舎出の人が東京の人混みに閉口して頭が痛くなるのと同じである
。
しかも、農耕という仕事は時間に縛られる。きまった時期に種子を蒔き、それがよく育つように手入れをし、一定の時期に収穫しないと生きてゆけないのである。ブラブラ好きな事をしていては飢え死するのであるから、怠け者に対する集団の制裁もきびしい。穀潰しの怠け者は原野に追放されるか、消されてしまう地はない。これは狩猟採集民時代の呑気で、無計画で、しかもスリルと冒険に満ちた放浪の生活とは正反対のものであった。たしかに農耕によって食料の安定供給は確保できたかも知れない。だが、たとい飢えに苦しんでも、山野を放浪して、そこに実っているものを採り、貝を拾って食べる生活の方が、自分の性に合っていると感じた人間も多かったに違いない。
採集民は目の前にある食糧はすぐ食べてしまう習性であった。しかし、農業社会ではモミや種イモは、どんなに腹がへっても食べる事は許されない。これはすべて村の中心の神殿の倉庫に収められて、タブー(禁忌)として手をつけることを禁止されたであろう。つまり、農耕社会には狩猟採集民社会より格段にきびしい宗教的タブーと戒律が発生し、その規律にしたがって農作業が集団的にすすめられるようになったのであって、そのため農耕社会は狩猟採集民社会より遥かに高度で精密な労働規定と生活技術情報を含んだ「祭礼」を発達させたのである。文字通り「まつりごと」をおこなうことは、天体の運行を観測し、農事暦をつくって人民に教示し、虫を防ぐための防除作業や、雑草をとりのぞく作業や、「虫よけ」「水害よけ」「暴風よけ」の呪法や〃まじない〃などを、神聖な義務として、農民に指示する事を意味していた。「農耕社会を管理し、統御する人」は、すなわち「まつりごとをおこなう人」であるという原則が確立されていった。こうして、耕す人「農民」と、農耕生産情報を含んだ「農業祭礼」と、作物を育てる「農地」の三要素によって農業社会は成立した。
その一方、この整然とした農業社会のルールの確立と並行して、これに反撥するグループも明確な形をとって発生し始めていたであろう。一定の土地にしばりつけられ、汗を流しながら地を這いずりまわって耕作することに、本能的、生理的に抵抗を感ずる人々、時間に束縛され、農耕社会の大地母神的な祭祀のそラルにしばられる事を、人間の基本的な自由への侵害と感じたグループは、農耕社会を脱走して遊牧民になっていったと思われる。中央アジアのカザフ族の〃カザフ〃という言葉は「オアシス農業の生活を嫌って、草原へ逃亡した者」という意味であるという。また、バイプルの中にしるされているように、そーゼが黄金製の牛の像を礼拝する人々をきびしく罰したという物語も、農耕神を祭ることを拒否した遊牧民の姿を示している。
農業祭祀への反撥
遊牧民は土を耕す者を軽蔑する。いな、土地を耕すという事を、神に対する許し難い冒涜と感ずるのである。それゆえ、遊牧民の農民に対する呪咀と憎悪は理窟をこえた激しいものである。それは牛の像を祭る者を見て赫怒したモーゼのように、「農業祭祀」そのものへの否定を含んでいる。農耕信仰の裏に、農業に必要な経営管理の技術と、天文、暦法の情報が控えている事を知っているがゆえに、遊牧民のモラルと生活技術に基礎をおいた遊牧民信仰に立つ者、とくに遊牧民信仰の司祭者が、農耕信仰を否定し、これを地上から抹殺しようと猛り立ったのも無理はない。農民は大地の恵みに感謝する気持から大地母神的な信仰に傾き、遊牧民は広大な原野の中で家畜とともに放浪する生活の中から、天にまします父なる神を崇拝するようになる。遊牧民は、「我々は強いから草原にいるのだ。農民は弱虫だから、土を耕すのだ。」と称した。たしかに、危険に満ちた遊牧社会の中で生きてゆくには強壮でなければならず、それゆえに誇りをもつこともできた。日常生活が戦いの道統のような遊牧民は男性中心の父系社会をつくり、母系社会的な農民より武力では優っていよう。
人類の歴史の大半は、このような遊牧民の農業社会に対する不断の攻撃と侵略によって彩られている。勿論、多くの場合、農民と遊牧民は共存共栄の立場にあったが、しかし、本質的に両者は常に相対峙する対立勢力であった。遊牧民の方が遥かに人口も少なく、文化的な再生産能力も低かったが、人間としての自由、勇気、体力、決断、団結、信義などという最も基本的な美点を遊牧民社会は失わなかった。遊牧社会の情報量は、農業社会に比べ、生産技術の面でも、文化の面でも、遥かに少かった。それだけ知識の蓄積も少なかった。しかし、遊牧社会は壮者の体力がものをいう世界であって、農業社会で尊重されるような長老の知恵や豊富な経験は必要ではなかった。であるから、単純にして強力な信仰によって集団を統一することが可能であった。そのような集団は狂信的になりやすい。それゆえにこそ強力でもあり得た。例えばサラセン帝国をきずいたアラビア人がそれである。農業社会は豊富な情報を有し、多元的なので、遊牧民ほど強烈な一元的信仰を持つことはない。
それゆえ、農業社会が、その多様性のために強烈な駆動力を失なって、停滞し、保守化し、動脈硬化におち入り、自閉化したとき、必ずその惰眠を叩き破るかのように、遊牧民の攻撃と侵略が加えられた。だが、その刺激によって農業社会はホルモン注射をうけたように蘇生し、立ちなおった。モンゴルとシナ、カザフと中央アジアのオアシス社会、セム族とチグリス、ユーフラテス河やナイル河流域の農耕社会などの永年の対立にも示されている通り、農耕社会からはみ出していったグループは、そのアンチテーゼによって農業社会全体の衰亡を阻止し、鼓舞する役を常に演じてきたのである。
工業祭祀への反撥
これと同じ現象は農業社会から工業社会へ移行するときにも生じた。数千年間、農業社会に適応していた人類は、工場生産方式の発展に伴う環境の激変に先ず抵抗を感じた。それは狩猟採集民が農耕・文化に移行するときに感じた抵抗と基本的には同じものであった。それは、生活を支えるモラルと信仰の基盤が変化することを意味していたからである。とくに人口の密集、スラムの発生は人々を苛立たせ、腐敗させた。のんびりした農村の生活に比べ、朝から夕方まで連続する労働とシンの疲れる機械操作を強いられ、これについてゆけぬ脱落者が生じたのは当然のなりゆきであろう。
かつて農耕文化がはじめて出現したとき、地上にはまだ多くの空間が未開拓のまま残っていた。であるから遊牧民として農業社会から逃げ出すことも可能であった。しかし、工業社会への移行がはじまったときには、もはや逃げてゆくべき原野は残っていなかった。とすれば、新しいタイプの遊牧民として、都市や工場周辺のスラム街の中に住んだまま疎外されてゆくほかはない。マルクスは、これを〃妖怪がヨーロッパを彷徨する〃と称した。これこそ工業社会から疎外されたグループの怨恨の深さを示した声であった。
こうして農業社会に対する遊牧民の憎悪と怨恨が、そのままの形で新しい「イデオロギー遊牧民」に引き継がれることになる。それは何よりもユダヤ人マルクスの深層心理から発したものであった。イェルサレムを追われてからの二
千年にわたる放浪の歴史の中で、ユダヤ人ほど徹底的にヨーロッパの農業社会から迫害され、疎外された民族はない。アラピアの砂漠を彷徨している古代から、常に遊 牧民としてのきびしい信仰を守りっづけてきたユダヤ民族は、サラセン帝国の時代にはむしろ優遇された。同じセム族同志として、また同じ遊牧民出身の部族として。(註。アラブとユダヤが対立しはじめたのは、ごく最近のことで、それもヨーロッパの反ユダヤ思想の影響である。)
ヨーロッパでもまだ農業社会が完成される以前には、ユダヤ人はそれほど差別されず、むしろ、その知識と技術を評価された。しかし、農業社会としてのヨーロッパの体制が確立すると共に、土地に定着しないユダヤ人は迫害と差別の対象とされはじめた。農民は、耕すべき土地を持たず、放浪して歩く者を賎民として軽蔑する。遊牧民が農民を軽蔑する以上に、農耕民は遊牧民を恐れ、差別した。
農民と遊牧民は、ヨーロッパでも中近東でもインドでも、中央アジアでも北シナでも人むね食卓を共にしない。これはある意味では食性の差からきている。食べるものがちがうと衛生観念が異なり、ものの価値が異なってくる。そこに嫌悪と蔑視と差別が生じやすい。例えば、豚肉を食べる中国人と豚肉を食べない回教徒のマレー人は決して食卓を共にしない。オリンピックの選手村で、一番気を使うのはこの食性の差であるという。
ことにユダヤ人は故国を追われたあと、生きた羊を飼う代りに黄金の羊(金銭)を飼育し、増殖させるという方法をとった。これは定着農民には真似のできない芸当であった。ユダヤ人は良い草のあるところに羊を移動させるように、金利の高い方へ黄金の羊(資本)を移動させた。そのため、金銭の計算にも長ずるようになった。土地をもたぬユダヤ人にとって頼みのツナは「金銭と知識と情報網」だけであった。モンゴルが「騎馬戦と鉄冶金と射撃」を得意としたように、ユダヤ人は「金銭操作能力」と「計算能力」と「情報収集能力」にたけた新型の遊牧民として、ヨーロッパ農耕社会に絶えることのない脅威を加えたといえよう。
であるから、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題は多分に「遊牧民と農民との対立抗争の歴史」として理解すべき面を含んでいるように思われる。モンゴルやタタールやサラセンのような羊と牛馬を追う昔ながらの遊牧民も脅威ではあったが、これには一応対抗の道も残っていた。遊牧民より強い軍団を組織すれば良かったし、羊や家畜の人りこめぬ森林の奥へは、モンゴルも入ってはこれなかった。
しかし、羊を金銭に替えて自由に移動させ、その上、当時のヨーロッパ農民はきわめて程度が低く、数の計算など一種の魔法のようなものであったから、その魔法の算数にすぐれたユダヤ人には対抗の方法がなかった。知性と情報を武器とする遊牧民ユダヤにヨーロッパ農民が魔法使いのイメージを抱いたとしても、無理からぬ点があったろう。
ユダヤ人は選民思想を抱いていると非難される。しかし、これはユダヤ人に限ったことではない。遊牧民はすべて、自分達を農民より強い種族であると自認することによって、おのれの生活の貧しさや、人口的な少数者としての〃ひけ目〃を蔽いかくしてきたのであって、この発想はイデオロギー遊牧民にも引継がれた。
「我々はえらばれた前衛である」「我々は革命の起爆剤となる中核分子である」という選民意識的高言は、まさに遊牧民のものである。マルクスの共産党宣言以来、今日まで約百年余りの間、工業社会は常に新しい「イデオロギー遊牧民」の攻撃にさらされてきた。勿論、農民が遊牧民に反撃したように、工業社会も「イデオロギー遊牧民」に激しい反撃をおこなった。そして、これによって、工業社会はかえって若返り、成長し得たのであって、もし、このグループの攻撃がなかったら、工業社会はもっと早く行きづまり、動脈硬化におち入っていたであろう。
新しい神の律法
マルクスは農業社会から工業社会へ移行する過程を、「封建社会から資本主義社会へ」という表現であらわし、工業社会が成熟しきったあと、次の社会へ移行するであろうという予感を、「資本主義社会から共産主義社会へ」と表現した。これは読み方によっては、工業社会の優位性を、認めたものともいえる。しかし、この一見冷静な科学的分析は、果してマルクスの本心だったであろうか。いな、彼自身自覚せずとも、彼の心の底に潜んでいて、彼を行動にかり立てたもの、理性以前の情動的(エモーショナル)なもの、彼の古い大脳皮質に染みついていたものは、二千年来のユダヤ人としての怨恨ではなかったのか。
モーゼが「黄金の牛の像」に象徴ぶされる農耕神を破壊したように、第二のモーゼ、マルクスは新しい「牛の像」つまり〃工業神〃を見て赫怒し、これを破壊しようと決意したのではないのか。それでなくては共産党宣言の中に盛りこまれているあの凄じい呪咀の調子が理解できない。社会自身のもっ自動的なタイムテープルにしたがって、必然的に共産主義社会になるというのなら、あのような呪咀の言葉は無用である。第二のモーセ、マルクスは新しい「牛の像」(工業神)を礼拝する者を罰し、地獄へ追放しようと考えたのかもしれない。共産党宣言以来百年余にわたって、マルキシズムがこれほどの破壊力を示し得た最大の理由は、マルクスが抱いた呪咀の深さにある。決して、あの理論が力の源泉になったのではない。
モーゼはシナイ山でヤーウェの神と契約をむすぴ、神の律法をうけたとユダヤの神話は伝えている。これと全く同じように、マルクスは、百年前に、すでに初期工業社会を形成していた英国において、ヤーウェの神と新しい契約を結び、神の律法(つまり、弁証法的唯物論)をうけたのだといえるかも知れない。かつてモーゼにあらわれた神が、三千数百年ぶりにマルクスにあらわれたのだ。まさにマルキシズムは、工業社会から疎外され、これに怨恨を抱いた「イデオロギー遊牧民」に与えられた神の律法なのである。全世界のマルクス主義者の行動と思想は、この点についての洞察がなければ、到底、正しく理解できないであろう。
農業社会が「農民」と「天文暦法を主とする農業祭祀」と「土地」の三要素から成り立っていたように、工業社会は「労働者」と「資本操作を主とする工業祭祀」と「工場」の三要素から成り立つ。農業社会では「天文暦法」を司る者が支配者であった。工業社会では「資本の操作を司る司祭者」が支配者であった。そして次の知識情報社会では「情報祭祀の司祭者」が支配者となるであろう。
農業社会では「祭祀」の中に農耕生産に必要な一切の情報が包含されていたように、工業社会でも「資本祭祀」(株取引や銀行業務)の中に一切の情報が含まれているといえよう。
立春正月と冬至正月
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例えば、日本や南シナや東南アジアの大陰太陽暦では「立春」を年の始めとして天地の神々を祭り、ここを基準にして一切の農事暦を組み立てた。八十八夜、二百十日など、すべて立春の日から数えた農業の節季である。それに比べ大陸内部の遊牧民社会や、ヨーロッパ社会では、「冬至」を年のはじめとして祝った
。グレゴリー暦の一月一日は冬至の日から約十日おくれているが、これは古代の天測技術の未熟さからきた誤差の名残りと思われる。クリスマスも本来はヨーロッパに古くからあった冬至祭のなごりであるという。
日本の「大祓ひ」神事も、今日では十二月三十一日と六月三十日におこなわれているが、もとは 「冬至」と「夏至」の日におこなわれた祭祀であり、大陸の狩猟遊牧民系統の信仰の影響ではないかと私は考えている。日本の農耕社会においても、シナから正確な暦法が入ってくる以前から、「立春」を一年の農業はじめの祭りの日としていた事は明らかである。そして、グレゴリー暦の一月一日(冬至正月)が、真の「冬至」より十日おくれているように、日本の古代の農耕社会でも二月三日の「立春」の日から約八日おくれた二月十一日の前後を、立春正月として農耕の祭祀をおこなっていたのである。東西ともに、天測技術のずれは約十日間位であったということは興味深い。これは地上に棒を立て、その棒が示す影の長さを測って夏至、冬至、などを知っていた古代大の測定法では、約十日の誤差を必ず生ずるからである。その誤差から生じた「しきたり」が、正確な暦が出来たあとまで、一つの伝統として残ったものと考えられる。このように、二月十一日前後は一年間の農事暦のはじめの節、つまり文字通り紀元の節として、古くから日本や東南アジアで祭祀の日にされていたのであって、それが、やがて「祖先が村を拓いた日」であり、「遠い世の神々が国を開いたはじめの日」であるという神話を生んでいったのである。(註。ベトナムの旧正月、テトも二月十一日前後である。閏が入るので年によって若干ずれることがあるが、二月十日前後がほぼ正しい立春の日であると、モンスーン・アジアの古代の稲作民は昔から信じていたのであろう。)
だが、農耕祭祀を否定し、攻撃するのが、遊牧民の本分であるから、日本の「イデオロギー遊牧民」が二月十一日の建国記念日(私はこの名称は好きでない。農事暦のはじめの節として紀元節の名の方が妥当である。)を執拗に攻撃するのは当然かも知れない。考えてみれば明治初年に太陰太陽暦を廃して、グレゴリー暦の採用にふみきった時、日本は「冬至正月」へ移行したのであって、これは、「立春正月」を基礎とする農業社会の祭祀から、「冬至正月」を基礎とするヨーロッパ的工業社会の祭祀へ移行してゆく姿を暗示している。生産方式の変革、社会構造の変革には必ず、祭祀の変革を伴うというしるしであろう。グレゴリー暦採用の数日後、時の明治政府は穴のあいた立春正月の部分に紀元節を設けて、立春正月の伝統も残したのである。日本書紀に神武天皇が立春正月の日に位についたとしるされているのは、キリストが冬至正月の日に生れたという伝説と同じ発想のものであり、歴史的史実性があるかないかなどと騒ぐ連中は、少し頭のおかしい連中である。クリスマスも本来、冬至正月の祭りであった。紀元節の本当の意味は立春正月ということであって、この点を右翼も左翼も勘違いして騒いでいるのはおかしいという外はない。
上天父神と大地母神
明治維新直後の冬至正月の採用は天測と暦法を社会経営の中心とする農業祭祀が、資本の投資と利潤を社会経営の中心的な尺度とする工業祭祀にとって代わられた事を意味する。ということは、工業祭祀の中には多分に遊牧民が抱いていた上天父神的なものが含まれている事を示している。日本でも 「飛騨のたくみ」の伝説や、木地屋などの存在にも示される通り、技術系の人間は山の神つまり上天父神を奉ずる民の系統が多かった。立春正月が母系社会的な傾向を持っとすれば、冬至正月は父系社会的な傾向を持っているように思われる。このような理由からユダヤ人が、羊のかわりに飼っていた 「黄金」が、工業社会の「祭祀」の中心にすえられるようになった事は、ユダヤ人の遊牧民的生活意識を侵害し、変質させたのかもしれない。ユダヤ人の一部は資本家として、工業社会の中へ入っていった。それによって過去千年の迫害の歴史から、のがれられると信じたユダヤ人も少なくなかったかもしれない。事実、ロスチャイルド家のように、ヨーロッハ社会の支配階級の一員になった者も多い。ことに数学や理学にすぐれた才能を示していた知的遊牧民ユダヤ人は、工業社会のマネージメントの役を担当する適任者であった。今日でもソ連や東欧では、工業企業体の管理者層や経済官僚には多数のユダヤ人が活躍している。米国でも、キッシンジャーや、プレジンスキーなどにその良き例が見られる。
だが、これをユダヤ人の堕落と感じた者もいたであろう。古代のヘブライ人が農業祭祀をうけ入れ、黄金でつくった「牛の像」(農業神)を礼拝したように、一九世紀はじめの欧州ユダヤ人の中にも、工業祭祀をうけ入れて「工業資本の管理者」、つまり、工業社会の司祭者になる者、工業神を礼拝する者が続出したであろう。
新しい予言者であり、第二のモーゼであると自負していたマルクスはこのような社会の変革を見て、神と新しい契約を結ぶ必要がある、と考えたのかも知れない。かくして生れた新しい神の律法「マルキシズム」を奉ずる「イデオロギー遊牧民」が世界を放浪することになった。ユダヤ人とは血統的な種族をさしているのではなく、白、黒、黄の人種の差を越えて、ユダヤ教を奉ずるものをユダヤ人と呼称するという。同じように、マルクスの律法を奉ずるものは人種の差をこえてマルキストである。
「古いモーゼの律法を千年一日の如く奉じている者は、今や工業神信仰の前に屈服し、異端の道を歩きはじめた。(その代表がアメリカ資本主義である。米国には五百万人以上のユダヤ人が住んでいる。イスラエルのシオニズムも同じ道を歩いている。)その中で我々、マルキストこそ新しい神の律法をうけた本当の選民である。」
このような意識はソ連はじめ全世界のマルキストだけでなく日本の左翼陣営にも濃厚であって、左翼文化人が貴族趣味をひけらかして、一段高い所から一般庶民を見下すようなポーズを示すのも、そのあらわれであろう。上天父神の信仰はドグマの宣布に適した心理的基盤を与えられるからである。
情報祭祀を拒否するグループ、第三遊牧民の役割
ところで、ジンギス汗のシナ大陸支配の例を見てもわかる通り、遊牧民が農業社会を征服したとき、その領域が小さいときは中央アジアのオアシスのように破壊しっくすが、シナのように大きいときは、農業社会の最もきびしい支配者として君臨し、徹底的に収奪するようになる。
同じように、イデオロギー遊牧民が工業社会を手に入れた場合、ロシア共産党支配下のソ連のように、もっともきびしい工業社会の支配者として君臨し、徹底的に収奪するように一変する。その点、プハーリンらのようなアナーキストの方が、工業社会そのものの否定をより徹底的におこなおうとしていたといえる。日本共産党もロシア共産党と同じように、日本という大型工業社会の管理権を奪取し、徹底的なきびしい収奪を実施しようと目論んでいるにすぎない。その点、毛沢東の方は工業社会そのものの否定に近い発想をもちっづけていた。だが、毛沢東の死後、共産中国の指導者達は大急ぎで工業化を急
ごうと狂奔しはじめている。だが、それは第二のソ連をつくるだけの事である。
さて、いよいよ工業社会が知識情報社会、いわゆる〃大脳化〃社会へ脱皮しはじめた一九六〇年代(とくに日本では一九六七年以降のことであるが……)に、この情報社会の祭祀に反撥する第三の遊牧民が登場した事は、決して偶然ではない。(三島由紀夫氏が楯の会を結成したのもこの頃であった。)
狩猟採集民社会が、農業社会に移り変り、古代帝国の建設期に入ったとき、高等宗教が主な農業社会に続々と発生した。それには中近東(エジプト、メソポタミア、ペルシア)で発生したゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、マホメット教、印度で発生した仏教、シナで発生した儒教、道教などがある。
そして農業社会から工業社会へ移るときには多くの社会科学者が登場し、さまざまの理論を提示した。アダム・スミス、マルクス、エンゲルス、ケインズ、などが多くの仮説を発表して後世に影響を与えた。これと同じように、工業社会から情報社会に脱皮する過程でも、必ず何らかの形で、「高等宗教と社会科学」を乗りこえた「新しい何ものか」が生れ出ると思われる。現下のさまざまの激しいアナーキスト的暴走も、日本赤軍やドイツ赤軍の暴虐もその前兆のひとっにすぎない。彼等はそンゴルやサラセンの騎馬軍団が農業社会を攻撃したように、そして、ソ連の戦車軍団が西欧や日本の工業社会を脅かしているように、新しい情報社会に対して破壊と侵略をあきることなく繰り返すであろう。それは情報祭祀、つまりコンピューターや、それの利用技術、神秘めいた応用数式の羅列、一般人には理解できないコンピユーター用の言語など、密教の秘儀のような祭祀をおこない得る者が支配する社会への反抗である。もちろん、日本赤軍などはこのことに気がついていない。相変らず幼稚なマルクス的言辞で自己正当化をおこなっているが、彼等が自覚していようといまいと、彼等の攻撃目標は情報化された日本の管理社会であって、パレスチナ・ゲリラの目標とは全く異っている。
だが、農業社会がそンゴルやトルコやサラセンの攻撃にさらされて、かえって強化されたように、また、西欧や日本や米国なぞの工業社会が共産主義の挑戦をうけて、かえって強化されたように、きたるべき情報社会、〈大脳化〉社会も第三の遊牧民ともいうべきグループの攻撃にさらされてこそ、真に力強いものに成長しうるであろう。その意味で彼等の存在価値はみとめてやってもよかろう。スターリンがロシアの支配権を手に入れたあと、工業祭祀を否定する分子をかたっぱしから粛清し、ソ連共産党の幹部の九〇パーセントまでが処刑されてしまったため、かえって、今日ではソ連の工業社会の発展が阻害されている。コンピューター時代の管理社会に反撥するグループを絶滅させてしまっては、かえって健全なコンピューター時代の日本社会の発展も阻害されるであろう。日本共産党は、もっともきびしい管理社会の権力者集団になろうと志向しているから、もし彼等が権力をにぎれば、第三遊牧民的なグループ、左右を問わず現下の日本社会に反撥するグループ、日本赤軍のようなグループをトロツキストあるいは反革命分子という名目でみな殺しにしてしまうであろう。そうなれば、日本の社会は沈滞して、民青的な陰惨さを帯びた管理社会に堕してしまうであろう。最近の学生の間で日本共産党と民青の人気が頗る悪いのは、そのような本質を本能的に見抜いてしまったからであろう。ただ、残念なことは第三遊牧民的グループが毅然とした勢力とならず特定の国の情報機関(主として、ソ連のKGBやキューバのDGI)の支援や、マスコミの煽動や、外国筋のつまらぬ資金援助に毒されて、自滅の道をたどっていることである。しかしもっと根源的な「問い」を、管理社会に投げかけるだけの力をもった第三遊牧民は左右の枠組みを超えた勢力として必ず繰返し登場してくるであろう。今から九年前の昭和四十四年、『〈前頭葉〉国家論』(外交時報社刊)を世に問うた時、その序文の中で筆者は次のように述べておいた。この序文は昭和四十四年五月十五日付で書きしるしたもので、三島由紀夫氏の自決の約一年半前にあたる。ところが、不幸にして、この序文の中に三島由紀夫氏の自刃を予言したような箇所があり、筆者は大変寝ざめの悪い思いをした。まして、三島氏と共に自刃した森田必勝君に、この序文の掲載された著書『〈前頭葉〉国家論』を進呈していたので、一層、心が傷んだものである。その序文の一部を抄録してみよう。
三千数百年前、アラピアの一角にあのようなきびしい農耕神否定の予言者モーゼがあらわれた事は、当時のオリエント、肥沃な三日月地帯が最も進んだ農耕文化を持っていたからでありましょう。同じように、百年前のイギリスに、あのような激しい口調で、工業社会と資本祭祀を否定し、呪いの言葉を投じた予言者マルクスがあらわれたことは、当時の英国が世界で最も進んだ.工業社会だったからであります。
そして、今日とくに米国と日本において、管理社会という名の〈大脳化〉社会への反撥を示すグループが登場しはじめている事実は、米国と日本が世界で最も急速に、情報化革命への道を突っ走っている証拠であるといえましょう。今後、〈大脳化〉社会への拒絶反応は、左右両翼から湧きおこってくると予想されます。いわゆる心情三派と称する人士が案外多い理由もこの辺に伏在していそうです。むしろ、左翼とか右翼とかいう概念そのものが工業社会のものであって、〈大脳化〉社会では、「高度の知的創造と知的操作に参加する多数派」と、「一切の知的創造と知的活動を拒否する少数派の高貴な(?)ものぐさ太郎グループ」とに分かれるだろうと思われます。
それもまた、面白いではないか−−−と私は感じています。
農業祭祀を否定したモーゼも、工業祭祀を否定したマルクスもともにユダヤ人でした。それはユダヤ人がたまたま、最も進んだ農業社会と工業社会に住んでいたからでした。ところで次に登場すべき「情報祭祀を否定する第三の予言者」は、日本人の中から出るのか、それとも米国に数百万人もいるユダヤ人の中から出るのか、興味ある問題です。どちらかといえば日本の民族性の中には予言者的性格や、ドグマ的な発想は希薄ですから、やはり、第三の予言者も米国にいるユダヤ人の中から出てくる可能性が強いかもしれません。
どうも、ユダヤ人と日本人は、「上天父神を信奉するグループ」と、「大地母神もしくは海洋母神を信奉するグループ」の代表になりそうな気がします。しかし、ユダヤ人の余りに予言者的な性格は民族の不幸と受難を運命づけているようですし、日本人の非予言者的な海洋的性格は日本人の恵まれすぎた運命を暗示しているようにも思われるのであります。
しかし、あの高貴な日本刀を生んだ日本人の心の中には、意外にきびしいものもひそんでいますから、もし、日本人の中から「情報祭祀を否定し、コンピューター社会の打倒を宣言する第三の予言者」が登場するとすれば、それは三島由紀夫君が第一の候補者といえましょう。彼は日本人には珍らしいほど、上天父神の信仰に徹した男だかちです。羽仁五郎のごときは最も堕落
した母系社会の囲われ者にすぎませんから問題外です。〈大脳化〉社会に挑戦する第三遊牧民の先頭に、日本刀をふりかざしたミシマサムライ汗が立っている姿を想像するのも、なかなか楽しいではありませんか。コンピューター社会は情報サイクルが固定された場合、自閉化し易い性格を持うているかも知れませ.ん。これを打ち破るものは第三遊牧民の暴力しかないでしょう。その意味で遊牧民が数千年来つねに暴力を是認しでいた事は人類のひとつの知恵であったかも知れません。
悪源太義平という源平の武将の名は私の好きな名前ですが、この「悪」とは「強い」という意味 でした。コンピューター時代には、この悪が絶対に必要です。目下流行中の「猛烈」という言葉 も「悪」の一側面でしょう。現在の大学にはこの悪の要素が欠落していますから、コンピューター革命がはじまると同時に騒ぎにまきこまれてしまった訳です。それゆえ日本の社会全体に、こ の「悪」の要素が回復するまでは、今の騒ぎはおさまりますまい。
また、万葉集の中に「醜の御盾」「醜の醜草」という言葉がでてきますが、これは「頑強で不死身な」という意味でした。「殺しても死なない不死身の兵士」「抜いても抜いても生えてくる生命力あふれた雑草」という時、万葉人は「しこ」という言葉を使いました。〈大脳化〉社会には、この「しこ」の要素も絶対不可欠です。「悪」と「醜」の要素を欠いたコンピューター社会は「情報祭祀を拒否する遊牧民」の暴力によって滅び去るでしょう。私は「悪・日本人」「醜・日本人」になる決心でいます。大学で接する学生達にも、「殺しても死なぬ悪大学生、醜大学生になれ」と要求しています。そのためには、こちらも、猛烈な「悪・大学教師」「醜・大学教師」にならざるを得ない。私は新入の大学生に、「毎日、日本の新聞三紙、外国紙二紙、計五紙を読め。毎月五冊、年六十冊の新刊書を読破せよ。これが最低の線であり、これ以下の者は、コンピューター社会の脱落者になる」と強調しています。
私は平和憲法という名の占領憲法から、この「悪」と「醜」の要素が全部抜いてある点からも、一国の憲法の名に値しないと信じています。国家は「悪」と「醜」の面がなくては存立し得ないものであるからです。いな、生物そのものが「悪」と「醜」の要素なくしては本来、生きてゆけないものであります。まして、コンピューター社会は、今までに数十倍する「悪」と「醜」の要素を要求しているのです。
私はニセ文化人、ニセ平和主義への挽歌として、この書を世に問いたいと思います。(以下略)
以上が九年前、昭和四十四年五月に書いた文の抄録である。その後、例の事件があり、三島さんの「楯の会」は解散したが、その中から、先日の経団連事件(昭和五十二年三月三日)をおこした人物が現われた。筆者もこの事件の裁判に証人(弁護側)として出廷を要請されて証言したが、証人席に坐りながら、テロと祭祀の歴史を思いおこし、少なからぬ感慨を覚えた次第であった。私は三島さんとは面識も交際もなかった。森田必勝君はじめ楯の会の人々とは、よく知り合っておりながら、三島さんに会う機会も話す機会もなかった事は、今から考えてみれば、不思議に思われるのであるが、それがかえって良かったのかも知れない。
いずれにせよ、日本国内で沈潜している楯の会的なグループと、ハイジャックなどによって、アラプ社会の保護を頼り、ソ連やキューバなどの秘密機関の支援に甘えている日本赤軍派と、両者を比べてみて、果してどちらが、大脳化社会日本へのきびしい批判者となり得るか、今後の日本の重要な課題であると言えよう。