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回答先: 東ティモールの独立運動指導者、インドネシア国軍が住民を殺害と非難(ロイター) 投稿者 一刀斎 日時 1999 年 9 月 08 日 23:26:15:
1999年9月8日(水) 10時50分
無法な民兵 東ティモールから帰国の2人に聞く(京都新聞)
インドネシア東ティモールの住民投票監視団に参加していた京都府八幡市橋本
堂ケ原、清水祐子さん(30)たちが七日、関西国際空港に無事到着した。併合派民
兵の襲撃が激化し、無秩序状態となっている現地の混乱ぶりや、間一髪脱出した
様子などを生々しく語った。
帰国したのは、清水さんと大阪市住吉区の大森雄二さん(34)。二人は非政府組
織(NGO)「国際東ティモール連盟」(IFET)投票監視プロジェクトに参
加して、八月上旬に現地入りした。
清水さんは東部のバウカウ県に、大森さんは南部のアイレウ県に向かい、国連
がすすめる住民投票の準備や武装勢力の動きなどを見守っていた。
選挙に不慣れな住民が多く、国連が選挙のリハーサルを行うと「鉛筆を持った
ことがなく、投票用紙に記号さえ書き込めないおばあさんもいた」。先月三十日
の投票日、朝六時半の投票開始を前に、二十キロの山道を歩いて集まった人々が
列を作った。「本当にこの日を待ってたんだな」と、胸が熱くなった、という。
投票の翌日、大森さんは民兵の駐留地近くで、後頭部から血を流してよろめい
ている男性を見つけた。事務所へ連れ帰り、手当をしたが、「銃を持った民兵も
こちらにやってきて、一触即発の状態になった。警察は一応、外国人を守ってく
れるが、無法な民兵を取り締まる意思はなく、機能していない」と憤る。
間もなく清水さんと大森さんは活動の拠点がある中心都市ディリに戻ったが、
治安は急速に悪化した。
「いつ、何が起きるか分からない。食料と水を買いだめし、民家を借りた宿舎
にこもり、外出できなくなった」。脱出するまでの数日間は、インスタントラー
メンだけで耐えた。
四日の開票で独立派の圧勝が明らかになると、ディリ市内でも民兵による襲撃
事件が急増した。現地語が話せない清水さんは、「これ以上とどまっても、他の
スタッフの足手まといになる」と、日本政府のチャーター機で脱出を決めた。
翌五日、空港へ向かう途中、おびただしい人が港をめざして歩いていた。「投
票監視の役目は果たせた」と考える半面、「私たちは危機になると逃げ出せるけ
ど、苦しんでいる人々を残していくのがつらかった」との思いも募る。
大森さんの宿舎は、五日夜に武装した民兵に包囲された。「マシンガンを威嚇
射撃され、これはやられるかな」と覚悟した。一度恐怖を感じると、耐えられな
くなって、翌朝のNGO会議で残留か脱出かを迷った末、脱出を選び、六日に現
地を離れた。
「東ティモールでは、人が簡単に殺される。命がこんなに軽くていいのだろう
か」「住民は、独立というより、戦争がなく、警察に脅されない平和な生活を望
んでいるだけ」。二人が、約一カ月の体験から感じ取った現地の印象だ。
日本はインドネシアの最大援助国でもある。「国際社会の目が悲劇の抑止力に
なる。日本は見て見ぬふりをせず、インドネシア政府にプレッシャーをかけてほ
しい」。二人は、口をそろえた。