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回答先: 未知との遭遇 in USSR 投稿者 SP' 日時 1999 年 3 月 12 日 19:31:18:
…レニングラードのプルコフ天文台は急いで「あの物体は隕石のような性質のものと思われるが、詳細な調
査を命じられているので後日発表を待ってほしい」というコメントを出した。だが、記録されている限りで
は、発表は行われなかった。ヘルシンキからの報道によると、ソ連における飛行物体目撃の数分前、フィン
ランドの首都を横切り、市上空で4分間程静止したように見えた物体は、恐らく地球大気圏に再突入したソ
連の人工衛星だったのではないかという。
過去30年間、UFO現象の研究に専念してきた、世界的に著名なソ連宇宙工学者であるモスクワ航空研究所
のフェリックス・ジーゲル教授は「目撃された物体は、UFOの特徴を全て兼ね備えており、疑問を差し挟む
余地は全くないと考えている」と語っている。
有名な地球物理学者で、UFO研究者でもあるアレクセイ・ゾロトフ教授も同意見である。「他のものであ
る可能性は全くないと言っていい。その特徴や見たところ不安定な航跡は典型的なUFOそのものである」
ペトロザボーツク気象台のユーリ・グロモフ「その物体から突然小さな別の物体が発進し、空中で方向を
変えました。物体は膨張し始め、周囲は白く中心部はピンクがかった赤色の長円形に変化しました。巨大な
ジェット機の排気のように赤く輝きながら、オネガ湖上空の雲に接近し、次第に見えなくなりました」
米国のUFO研究の最高権威ハイネック博士とNASAの研究員に、この件についての見解を求めたところ、
ペトロザボーツクから200マイル離れたプレセトスクの発射台から、事件の15分前に打ち上げられたソ連の
コスモス955号の第2段ロケットである、と断言するだけで何の説明もなかった。
SF作家で物理学者のアレクサンドル・カザンツェフ「ハイネック博士の話は私達も聞きました。彼は間
違っています。しかし無理のない事です。全ての事実を知っている訳ではありませんからね。特にこの事は
知らないと思いますよ。つまり、科学アカデミーの特別調査団が現地を訪れてからは厳重な報道規制が行わ
れたのです。UFOはそれから少なくとも2度戻って来ました。丁度1ヵ月後の10月20日には市上空に6分間静
止していました。それと26日です…でもアカデミーが結論を公表するまで、何の発表もないでしょう」
あれがソ連のブースターだったとすれば、どうやって2度も戻って来れたのだろう?
「当惑したのはアカデミーだけではありません。最高責任者アレクサンドロフも早く謎を解くよう、科学者
達にはっぱをかけています。彼はアカデミーが今迄とってきた、UFOなんて存在しない、という姿勢に疑問
を持ち始めたのです。彼だって真実は知りたいのです。縦え結果がどうあろうとも」
それから彼は、科学者仲間の情報ルートから漏れて来た事を聞かせてくれた。調査団が何度も訪れている
事、調査は終了するどころではない事、最近の調査旅行では目撃者の1人が撮影したカラースライドを入手
した事。その前の調査では、市内数戸の建物のガラス窓を丸ごと押収した事。ガラスには物体から発せられ
たと思しき放射能の跡が残っていたし、溶けて穴が幾つもあいていた…等々。現在は目撃者全ての証言や、
スケッチを含むあらゆる物的証拠を手中に収めている…。
「20日夜、プルコフ天文台で最初に発見された事は確かです。まるで、さあよく注意して見てくれと挑戦す
るように。ヘルシンキに現れたのはその後です。ソ連とフィンランドの国境警備隊も目撃しています。数分
後、医師と衛生兵を乗せてペトロザボーツクに向っていた病院の車が、思うように動かなくなった。運転手
は車を止め、3人が出たその時、クラゲのような物体が頭上に漂っていたのです。見ていると、市上空まで
進み停止しました。そして突然、霧雨の様な光線を降らせ始めたのです。物体が静止している間中、市は光
線の雨を被り続けました。人々は起き始め、家々の窓が明るくなりました。それから飛び去ったのです」
「あれは他の惑星から来た宇宙船に間違いありません。彼らは何度も戻ってくるでしょう。私達よりもずっ
と高度な知性を持った生物達が、測りしれない何らかの目的で、地球を重点的に観察し続けているのです」
オネガ湖を見渡せるこの町に常駐するミロフが書いた記事は、国内に、更に外国通信に流される−この事
件を彼は9月21日に送信し、記事は23日付の新聞に掲載された。「事件は調査中です。報道規制が解除され
るまでは私も、他の誰も一言も発表できません」彼は100人以上の目撃者にインタビューしている。
「ただ1人、建築技師のワレンチン・コズロフがカラー写真撮影に成功しましたが、すぐ押収されてしまい
ました。他に3人の画家が、目撃後、イーゼルに向い、目撃したものを色彩まで忠実に描きあげました。そ
の1人は湖上を飛行中の物体をも含めて、6枚の絵を仕上げました。それらは全てモスクワへ運ばれました」
「何らかの原因で、鶏の卵程の穴が幾つもあきました。クラスナヤ通りの4階建てのアパートの裏窓の1つは
レーニン・プロスペクトを向いています。物体が飛行すると、そのガラスに、光線が貫通したような穴があ
きました。まるで目に見えないダイヤモンドカッターで切ったように綺麗な仕上がりで、周囲にはひびも入
っていませんでした。長円形の破片が部屋に落ちましたが、後で床の上に完全な形で見つかりました。そこ
で、窓は丸ごと取り外され、モスクワへ送られました」
レーニン・プロスペクト沿いの国立大の窓も穴があき、冶金研究所の窓も数階に渡って被害を受けたとい
う。しかし、どのガラスもひびは入ってないが、大きさの違う同様の穴があいていたという。
「これは全て、物体が静止した15分間に起ったのです。きっかり15分でした。その事は目撃者も証言し、証
拠もあります。人々は戸惑い、恐怖を感じ、それに調査を受ける時は言いようのない不安に駆られるもので
すから、皆の証言を纏めるのは容易ではありませんでした。でも誰もが、つきまとう不安をすっかり吐き出
して心を軽くしたいと願っていました。ある人々は、証言を続けながらヒステリックに笑いました。目撃し
たものの為にすっかり興奮していたのでしょう」
「クラゲ」は夜間勤務中の港の沖仲仕にも大混乱を巻き起こした。彼らは口々に「カーナ!」(世の終り
が来たという意味の海員語)と叫び、避難場所を求めて逃げ散った。やがて1人2人と戻って来たが、まず考
えたのは、核爆弾が市上空で音もなく爆発したという事と「米軍がやって来たぞ!」という事だった。
ルヴォフの戦闘で片足を失った元軍人が旨い表現をしている。ミロフは語る。「彼−ワレンチン・ニコラ
エビッチ・ティホーミロフから事情を聞きました。彼は市に隣接
するラプサスリヤの町外れに住んでいます
が、とても怖かったですよと言いました。でも君には戦闘の経験があるじゃないかと尋ねると、彼は答えま
した。戦闘では何をしたら良いかが判っています。姿勢を低くするとか、穴に飛び込んで隠れるとかね。で
も彼奴に見下ろされると、どこにも逃げる所はありません。恐ろしさで体が動かなくなります。しかし、何
事も起らなかったので、体も動くようになり、立ち上がって物体が飛び去るのを観察し、手を振って別れを
告げさえしたそうです」
物体は、貨物船「第16回全国共産党大会」号の乗組員にも同様の影響を与えた。船は、湖北端のポヴェネ
ッツの町沖を通って白海運河に向っていた。物体は「月よりも大きく」見えた。午後11時、約100km南方の
ペトロザボーツクに出現してから19時間後である。「やがて騒ぎが静まると、彼らも甲板上の持場に戻り、
度々上空を見上げては、まだいるか確かめていました。物体は1時間以上静止した後、飛び去ったのです」
「市民も知りたいのです。当局は説明すると約束したにも関わらず、既に6ヵ月も過ぎました。大勢の人が
タス通信、プラウダ、イズベスチヤ、その他の新聞社に質問状を送っています。彼らは真実を知る権利があ
ります」タス通信だけで1500通に上る投書を受取っており、全てペトロザボーツクから送られて来たもので
ある。殆どが市に残っていて安全かどうかを尋ねるものだという。
9月20日夜、レニングラード付近でも短時間目撃された。他にも、エストニアのプスコフに近いオストロ
フ、カレリア全土、白海のベロモルスク、更に北極圏からも報告が送られている。
「その夜早く、モスクワ郊外でもUFOが目撃されました。モスクワ発シンガポール行の定期旅客機乗員から
も報告がありました。あまり広範囲に渡っているので、ジーゲル教授などは“同じ特徴を持つ数個の物体が
その夜領空に出現したのではないか”と考えています」
「まるでUFOの大編隊が飛行したようです。だとすると、この大編隊は数度戻って来たのです。3度目−10
月26日には、市上空に火球が現れ数分間停止していました。しかし、ノヴィコヴォ地域で目撃された物体は
巨大な葉巻が立ち上がったような形でした」
アジャジャは以下のように報告してくれた。その夜の目撃は地上だけでなく、パイロットからも報告があ
ったという。彼は市の管制塔へ飛行方向に何か物体がいる為飛行場へ進入できない、と無線連絡した。管制
塔はレーダーにはそのような物体は見えないと返答した。しかし、彼は黒い棒を突き出した火球がはっきり
見えると報告しているという。「同夜、キエフ発レニングラード行の旅客機機長から、火球のようなUFOが
1機彼の機と編隊を組んでいるという報告が入りました。このUFOは旅客機の邪魔はしませんでした。レニ
ングラード到着直前に、見えなくなったと報告しています。
丁度同じ頃、ウラル山脈東側のチュメニでも数機のUFOが目撃されました。巨大な球形で緑と黄色の光を
交互に発していました。目撃者の中にはプラウダのストレルニコフ記者もいました」
「77年後半から78年前半にかけてソ連では、その前の数年を合計したより沢山のUFOが出現しました。地球
上で起りつつある何かが他の惑星の関心を集めているのでしょうか? それは局地的に継続している戦争が
原因でしょうか? それとも核兵器の増産により地球の安全が危機に晒され、その為銀河系連鎖の安定が失
われようとしているからなのでしょうか」(増野一郎訳 1979 by Henry Gris)