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(回答先: 戦争責任者の問題 伊丹万作 投稿者 dembo 日時 2001 年 12 月 12 日 16:48:40)
さっき、同じような主題に通じる書き込みを「戦争7」で行いました。
伊丹万作氏のことは、この文章の存在も知らず、わずかな知識しかありませんが、やはり良質な“文化人”だと思いました。
>だまされたもの必ずしも正しくないことを
>指摘するだけにとどまらず、私はさらに
>進んで、「だまされるということ自体がすでに
>一つの悪である」ことを主張したいのである。
自分の価値観を何らかの表現方法で世に発表することを職業にしている伊丹氏などの立場にある人に対しては、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と、私も主張する。
しかし、警防団や婦人会で“ダマス”言動をしていた人が、敗戦後にそれをどう自分で受け止めるかは、その個々人の生き様の問題であり、公に非難しようとは思いません。
ですから、一般にまでその対象を広げている伊丹氏の主張には同意できません。
また、だまされているフリをしていた人も多かったことにも思いが至っていません。そうやって、家族や自分のために生き抜いた人も多かったのです。
>このことは、過去の日本が、外国の力なし
>には封建制度も鎖国制度も独力で打破す
>ることができなかつた事実、個人の基本的
>人権さえも自力でつかみ得なかつた事実と
>まつたくその本質を等しくするものである。
すごい「進歩史観」ですね。
「外国の力によって、封建制度も鎖国制度が打破されてしまった事実」ならわかるんですが...。
いけません、危ないです、これもだまされていることになります。自由主義やグローバリズムと同じように...。
もっとじっくり考えなければド壺にはまります、伊丹氏さえも。
>そして、このことはまた、同時にあのような
>専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴
>隷根性とも密接につながるものである。
許すも許さないも、そういう国家社会のなかで生まれ生活していかなければならないのが多くの国民の立場です。2・26でもああいう結末です。一人が命をかけて反旗を翻しても結末は見えています。
奴隷も、最後の最後には反乱します。
一般庶民はけっこうしたたかですし、“文化人”のように思想や理屈にコロリとだまされない人も多いのです。
>我々は、はからずも、いま政治的には一応解
>放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せ
>しめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担さ
>せて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真
>剣に反省しなかつたならば、日本の国民とい
>うものは永久に救われるときはないであろう。
この主張には全面的に同意します。
「大東亜戦争」の責任を東京裁判なんかで終わりにしたことが、戦後日本が犯した最大の誤りだと思っています。今のような日本になった「原点」だとも思っています。
それは、戦犯が誰かというだけの問題ではなく、あの戦争の起因・開戦の是非・開戦の仕方・戦争の仕方・終戦の仕方を含め、明治維新後の歴史を全面的に総括するレベルで「反省」(哲学的意味合いで)しなければならなかったのです。
だから、今なお国民は救われていないのです。
>「だまされていた」という一語の持つ便利な
>効果におぼれて、一切の責任から解放された
>気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見
>るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹た
>る不安を感ぜざるを得ない。
「赦し」は大きな問題だと思います。私は出来るだけヒトを赦せるようになりたいと思っています。
しかし、赦せないヒトに対しては、最大限の攻撃を仕掛けます。
>「だまされていた」といつて平気でいられる国
>民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだ
>ろう。いや、現在でもすでに別のうそによつて
>だまされ始めているにちがいないのである。
そうでしょうね。あの戦争を総括しないでここまで来たんですから。
私もよく「あっ、だまされていた」と思うことがあります。
>この意味から戦犯者の追求ということもむろ
>ん重要ではあるが、それ以上に現在の日本
>に必要なことは、まず国民全体がだまされた
>ということの意味を本当に理解し、だまされる
>ような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解
>剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力
>を始めることである。
だまされた自分の分析云々ではなく、前述したような総括が必要です。そして、それを通じてこそ、だまされた自分を分析したり、そのような情況から抜け出る努力が生まれると思います。
>こうして私のような性質のものは、まず自己
>反省の方面に思考を奪われることが急であつ
>て、だました側の責任を追求する仕事には
>必ずしも同様の興味が持てないのである。
こういう思いにならないように、私は書き込みを続けています。
>いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であ
>り、いじめられたものは業者である。これ以上
>に明白なるいかなる規準も存在しないと私は
>考える。
ガックリの主張です。それこそ、奴隷根性です。
この主張により、伊丹氏のせっかくの文章が死んでしまいます。
自分の価値観(美意識や政治意識など意識活動で行われるあらゆる判断の基盤)をある表現方法を通じて世に問うことを職業にしている人が言っちゃーいけません。
戦中既にだますことはしたくないと思っていた文化人に、それなら反戦活動をすべきだったというのでありません。なんらかの言い訳を見つけ、筆を折るなりすべきです。
そして、結果として、自分が悪を為したと思う人は、職を辞すべきです。業者についても同じことが言えます。
そうした人たちがいなくても、いや、そうした人たちが職を辞したことによって、さらに素晴らしい“文化”が続々と生まれてくるでしょう。