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「田中外相更迭問題」の収拾策として、川口新外務大臣が『外務省改革』に積極的に取り組む人材であることが強調されている。
しかし、『外務省改革』はまったく進まないと断言する。それは、外務省が、公金を横領するというふざけた犯罪レベルを超えた“自国破壊者の巣窟”だからである。
最低でも、これから述べることをきちんと総括しない限り、『外務省改革』は始まらないのである。
1941年12月8日の「日米戦争」開戦が“パールハーバー騙し討ち”で始まったことが、米国民の敵愾心を激しく煽り、その後の日米戦から敗戦・占領までの対日政策に多大な影響を与えたことは間違いないだろう。
当時のルーズヴェルト政権が「真珠湾攻撃」を事前に知っていながら以降の世界戦略を有利に進めるために日本海軍の奇襲攻撃を放置したという問題は、米国民が解決すべき問題だと考えているのでここでは触れない。
ただ、9・11空爆テロでも明らかになったように、米国政権は、はなはだ人迷惑で低レベルな世界戦略を推進するためであれば、平気で自国民の生命をも犠牲にし、他国をその妄動の中に強権的に引きずり込むことを実行するということだけは言っておきたい。
■ 「騙し討ち」に関する外務省の53年ぶりの公式謝罪
外務省は、平成6年(1994年)11月20日、戦後の調査委員会の史料『「対米覚書」伝達遅延事情に関する記録』を公開した。そして、外務省は、日米開戦からなんと53年ぶりに、“米国への通告遅れ”を公式に謝罪した。
[外務省見解]
「当時の外務省の事務処理上の不手際により対米交渉打ち切りに関する対米覚書の伝達が遅延したことは事実であり、そのような事態が生じたことについては極めて遺憾なことであり、申し開きの余地のないものと考えている。
外務省としては、国家の重大な局面にこのような遺憾な事態を生じたことにつき、従来より、このようなことを二度と繰り返してはならない教訓として受け止め、執務体制などの改善を心掛けているところである。」
この「見解」は、一見、外務省がその非を国民に詫びたように思える代物だが、事実は、まったく反省していない居直りのものである。
米国政府への“最後通告”は、「事務処理上の不手際」で遅れたわけでもなく、「国家の重大な局面にこのような遺憾な事態を生じ」させたキャリア外交官は、処罰されないどころか“独立”後の日本で外務省事務次官にまで登り詰めているのである。
(53年間も公式に謝罪すらしなかった外務省の厚顔無恥については語るのもアホらしい)
■ 真珠湾奇襲攻撃が“騙し討ち”となった「対米覚書」手交遅れの責任問題
※ 以降の日付及び時刻は、すべて1941年(昭和16年)12月の出来事で米国東部標準時間である。在ワシントン日本大使館の問題なので...
日本の外務省は、米国に対する開戦が決まった後、陸軍参謀本部及び海軍軍令部と相談し、「対米覚書」(最後通告)を米国国務省(できるだけハル長官)に手交する時間を東部時間(ワシントンD.C.)で12月7日午後1時とした。
通告文書の発信開始時刻は6日午前2時で、送信は7日午前8時に終了し、国務省に7日午後1時に手交し、その30分後に攻撃開始となっていた。
全部で14部という長い「通告文書」を細かく分けて送信することで開戦を米国に悟られないようにした。
東郷外務大臣は、まず、「第901号電」を6日午前6時30分に打電した。これは、パイロット・メッセージと呼ばれているもので、11月26日に決定した「対米覚書」(英文)を送ること、長文なので順次送ること、緊迫した情勢下であり極秘扱いであること、手交時刻はのちに指定するがいつでも手交できるよう文書作成について万端の手配を行うことを伝えている。
※ 開戦時の外務大臣東郷茂徳は、江戸時代に朝鮮から薩摩にやってきた陶工である朴家に生まれ、朴茂徳(パク・ムドク)として育った。朴家は、明治維新後に、薩摩藩東郷家の士族株を買い取り、姓を東郷と改めた。(このことは日本人のあいだであまり知られていないようなので、参考まで)
その後、13部までが順次打電され、最後の14部が送信された時刻は、7日午前2時である。
また、別電で、タイピストを使わず書記官クラス(キャリア外交官)がタイプを打って公文書を作るようにという訓令も送られた。
7日午前3時30分に送信された「第907号電」は、「本件対米覚書は7日午後1時を期し米側に(なるべく国務長官に)貴大使より直接手交ありたし」となっていた。
これは、「至急」となっていたので、7日午前10時30分までには解読されていた。
だが、それまでに送信されていた13部のタイプはまだ上がっていなかった。
第13部が送信されてから、日本が対米戦争を決意と理解される第14部を送信するまでには、14時間の時間差(余裕)があった。
在米日本大使館は、「第901号電」を6日午前中に、「第902号電」の第13部までを午後3時ころまでに受電したという。
6人の電信課員は、1台しかない暗号解読器にかけ、そのほかは暗号ブックを使って解読した。(外務省からの訓令で3台あった暗号解読器のうち2台は6日までに解体されていた。それほど日米関係は緊迫していたのである)
平成6年の公開史料によれば、第13部までの解読そのものは、6日午後8時頃までに完了していた。
(その後、寺崎書記官(戦後事務次官)の送別会が行われ、大使館に戻った職員は深夜12時に解読文書の整理を終えた。このあたりの進行状況は「極東軍事裁判」の結城司郎次氏の証言もほぼ同じだが、キャリア外交官の不都合を隠す内容となっている)
しかし、解読された文は、タイプに打たれることなく翌日7日午前9時頃まで放置されたままになっていた。
第13部が送信されてから14時間経って送信された第14部(最終部分)は極めて短いもの(70ワードで8行)であり、第13部までをそれまでにタイプしていれば、解読後すぐにタイプできる分量である。
外務省は、「日米開戦直前の経緯と若干の考察」というGHQ向け文書らしきものを昭和20年10月31日に作成している。それは、「通達を故意に送らせたことはないと立証された」というものである。
宣戦布告ともいえる「対米覚書」タイプの遅延は、一等書記官奥村勝蔵氏(高等外交官として在米大使館で唯一タイプが打てる人物)が直接の責任者である。
奥村氏は、6日、第13部までがほぼ解読されて送別会に出掛けたあと、知人宅にトランプをしに出掛けていた。(東郷外務大臣秘書官加瀬俊一氏、在米日本大使館海軍武官補佐官実松譲氏と大使館員藤山楢一氏の証言あり)
運命の日となった12月7日に電信課員が全員出勤してきたのは午前10時頃だったが、非常時でありながらこのような時刻に出勤してきたのは、事務を取り仕切っていた井口貞夫参事官(館務総括)の責任である。
電信課の責任者であった堀内正名氏が宿直を申し出ていたが、井口参事官が不要とした。(宿直は、館務で最下位の地位にある27歳の文書担当館務補助員野原常氏が担当。このため電信課員が7日に至急電(「第907号電」で手交時刻を指定)の連絡を受けたのは午前9時半頃になった。「第907号電」は日本から午前3時30分に送信され、午前7時から8時ちょっとすぎには配達されていた。午前9時頃の大使館玄関前に電報が放置されていたという実松海軍武官補佐官の証言や横山一郎海軍武官の出勤時(午前8時頃)に電報の山があったという証言がある)
館務総括の地位にあった井口参事官は、東京の外務省から「第901号電」で指示を受けた内容を無視し、手交が遅れても当然の事務処理態勢を敷いたことになる。
7日午前4時頃電信課員が一斉に引き揚げたのは井口参事官の勧告によるものという「極東軍事裁判」での結城氏の証言もある。
井口参事官は、昭和17年に帰国したとき東郷外務大臣に遅延の理由を訊かれて、「あれは自分の管掌事務ではないので承知いたしません」と述べたという。
このような経過がありながら、「対米覚書」手交遅延の原因については、外務省内で、ノンキャリアの電信課員だということになっていた。
これを知った電信課の責任者堀内氏が怒り心頭となり、開戦時のニューヨーク総領事森島守人氏に訴え、外務省に「調査委員会」ができた(昭和21年4月)という。
この外務省「調査委員会」を担当した総務課長大野勝巳氏は、総括した意見書「日米交渉打切に関する対米通告電報の処理振りに関する意見」で次のように述べている。
「(1)大使館首脳部が電信課員のみによる電信非常時執務体制を整備せしめて置かなかったということは、あの国家非常の時に際しての在外公館の事務遂行上不行き届きであったという非難を免れない。
(2)12月6日深更までに解読を領していた13本分のテキストの浄書が時を移さず着手されていたとしたら、翌7日の朝に浄書のために費やした時間と労力を省き得たものと考えられる。即ち最も好調に進行していたとしたら、翌朝は訂正電を挿入するのと14本目の解読分を付加するのみで仕事は完成していたと思われるがこの点は直接電信課を統轄し且つ浄書の任に当たった首席書記官の任にあった館員の職務懈怠乃至注意不十分たるの責めを免れない。」
とんでもなく“優しい”総括だが、ともかく、大使・参事官・首席書記官の責任であることを認めている。
■ 「国家反逆罪」とも言える重罪キャリア外交官の戦後
このように、開戦当時の在米日本大使館で「対米覚書」手交遅れの直接の責任者(むろん、野村吉三郎駐米大使の責任がもっとも大きい)と断定できる井口貞夫参事官と奥村勝蔵一等書記官の戦後がどんなものであったかを考えてみれば、当然、厳重な処罰が行われたと思うであろう。
しかし、あの有名な写真として今なお語り継がれる「昭和天皇とマッカーサー元帥の第1回目の会見」(昭和20年9月27日)で通訳の任にあたったのが、なんと奥村勝蔵氏である。当時の外務大臣は吉田茂氏である。
「極東軍事裁判」の被告となった東郷茂徳氏の弁護人は、真珠湾攻撃が計画的な「騙し討ち」ではないことを証言できる人物を捜していたが、あの日(12月6日)の送別会の主賓であった寺崎氏が事務次官となっていた外務省は相手にしない。
結局、前述の結城氏が証言を行ったが、結城氏は、証言に先立ち、「昭和16年12月7日対米最終覚書手交遅延事情に関する軍事法廷に於ける証言の要旨並びに華府(ワシントン)大使館当局の責任問題に関する私見」を外務省に提出し、「過去数年間処分しないで放置してきた問題を、世間が問題にしたからとあわてて渋々ながら処分したとの印象を与えることは、外務省の威信という点から賢明な策とは考えられない」(現代語風に記述)と、吉田茂氏の責任隠しに同意していた。
日本国民が「真珠湾攻撃」が騙し討ちであったことを知ったのは、戦時中ではなく、「極東軍事裁判」を通じてである。
占領下の日本では、この問題を論議することをGHQによって抑え込まれた。
そして、当時の吉田茂内閣総理大臣は、日本の占領が解除される前後に、とんでもない外務省人事を行った。
吉田首相は、あの井口貞夫元参事官(公職追放で外務省を離れていた)を、占領末期の昭和26年1月30日、外務省に呼び戻し外務次官に就任させたのである。
さらに、昭和27年10月17日、天皇とマッカーサーの会見内容を漏らしたことで外務省を辞めさせていた奥村勝蔵氏を外務省に呼び戻し外務次官に就任させたのである。
これらは、わずか50年ほど前の出来事である。
開戦時の在米日本大使館の海軍武官補佐官であった実松氏は、戦後巣鴨に収監されているとき、被告となっていた東郷元外務大臣のための証言者探しのために訪れた弁護人に対し、「あのような重大問題に失態があったのだから、切腹してお詫びするのが当然である。彼ら(井口氏や奥村氏)は今何をしているのか?」(現代語風に記述)と述べている。
そのような二人が、占領を終えた日本の外務省で事務次官に就任し、“独立”後の外務省の礎を築いたのである。
「国家反逆罪」相当者が処罰されないどころか、事務次官就任という栄誉を受けるという歴史を持っている外務省のキャリア官僚が、よってたかってやっている「公金横領」をなんとも思わず、一人のノンキャリア官僚を生け贄に捧げることで幕を引いてしまうのは至極当然の話である。
心ある外務省職員が、「歴史の問題」と「現在の問題」をきちんと総括するなかで『外務省改革』に乗り出すことをしなければ、これからも、“自国破壊者の巣窟”であるとの烙印を押され続けることになるだろう。
今こそが、絶好のそして最後のチャンスである。
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[参照資料]
『日米開戦とポツダム宣言の真実』杉原 誠四郎著(亜紀書房)