山内昌之「イスラム原理主義」講義2

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投稿者 YM 日時 2001 年 9 月 23 日 13:54:35:

回答先: 山内昌之センセイが「イスラム原理主義」について教えてくれるよ1 投稿者 YM 日時 2001 年 9 月 23 日 13:40:47:

1「イスラーム原理主義」とは……

イスラームファンダメンタリズム、つまり「イスラーム原理主義」という言葉に
は、独特の響きが感じられる。それは、イスラーム世界の一部に見られる極端か
つ過激な社会運動や、一見するとすこぶる保守的と思える思想に対するレッテル
として用いられることが多い。それは、過激派の代名詞ともなっている。しか
し、ファンダメンタリズムとは、もともと一九七〇年代後半以降のアメリカのキ
リスト教界で強まった保守的な宗教傾向と、それを代弁する社会運動が政治色を
濃くするなかで用いられるようになった語句である。このファンダメンタリズム
が日本語に入って原理主義と訳されたわけである。私も、一九八三年に出した最
初の書物『現代のイスラム』では「イスラーム原理主義」というコンセプトを分
析の道具にしたことがある。しかし、キリスト教のなかで生まれたカテゴリーを
現代イスラームを分析する道具として用いるのは、隠喩の域を脱しないことを自
分なりに痛感した。それどころか、原理主義という語句は表現が明快なだけに、
現代イスラームの複雑な現実を単純化しかねない。こうした用語法が問題のあり
かを碗曲にごまかしてしまう危険も無視できない。
外から「イスラーム原理主義」への関心が強まるのは、一九七〇年代末のことで
ある。その当時、ムスリムの住む社会でありながらイスラームの定める社会では
なく、ムスリムも正しい生活を営んでいない現実にしきりに反省が生まれた。こ
れは「イスラームの覚醒」とも呼ぶべき現象である。イスラームの覚醒は、一九
七九年のイラン・イスラーム革命やソ連軍のアフガニスタン侵攻への抵抗などと
軌を一にしていた。世俗的な独裁者や無神論体制に反抗するイスラーム社会運動
は、ムスリム市民たちに強烈な〈目ざめ〉をうながす刺激にもなっている。
この覚醒は、礼拝や断食などイスラームの定める行を守るなど個人のレベルに広
がって、モスクへ通うムスリムが増えたりもした。イスラームは社会性の強い宗
教であることも手伝って、やがて個人レベルの覚醒は社会化することになった。
礼拝に熱心な人びとは他の同信者にも参加を勧めて、地域にもモスクをつくろう
とする。こうして、喜捨や社会福祉の実践も個人レベルから集団レベルに移るこ
とで生じるのが、イスラーム復興現象にほかならない。それは、市民の草の根レ
ベルで国家による地域サービスの欠如を自助努力で補うムスリム市民団体を生み
出す。こうして、イスラーム復興現象はすぐに社会的実践を伴うために、〈現
象〉が〈運動〉に発展するのだ。これこそイスラーム復興運動なのである。たと
えば、ムスリムの社会におけるイスラーム法や道徳の導入を求めたり、利子禁止
のイスラーム銀行設立を要求したりもする。甚だしい場合は、イスラーム法に立
脚した新しい実定法や憲法制定の主張にもつながる。(図1参照)
ところで、欧米の社会において「イスラーム原理主義」という表現が抵抗なく受
け入れられたのは、キリスト教でいう原理主義の特徴とイスラーム社会運動の実
態との間に並行関係があると信じられたからである。たとえば、キリスト教ファ
ンダメソタリズムの特徴としては三点あげられることが多い。(井上順孝・大塚
和夫編『ファンダメンタリズムとは何か』新曜社)。
第一は、聖書の無謬性についての信念である。これは、聖書の記述をそのまま直
解して、内容をまるごと歴史的真実として信じる立場にほかならない。
第二は、近代キリスト教の自由神学や聖書解釈学の批判的方法と成果に対する強
烈な反感である。聖書を古典テキストとして批判的に読むという分析手法は、聖
書にはいかなる誤りもないという立場からすれば冒涜以外のなにものでもない。
第三は、自らの宗教的立場を絶対視することである。その信仰と教義の純粋な解
釈に同調しない者は決して正義を体現するキリスト者たりえない。
こうした三点をイスラーム社会運動の極端な主張と比較すると、そこには共通す
る特質がなくもない。しかし、イスラーム原理主義とは何か、という定義が必ず
しも明らかにされてこなかったために、了解困難な事象はすべて「イスラーム原
理主義」という神秘的記号によって解釈されがちであった。イスラーム世界の現
体制批判はもとより、アメリカやロシアに対する抵抗、ひいてはハイテクノロ
ジーやグローバル・マスメディアといった欧米や日本に由来する先端技術への反
発なども、雑然と「イスラーム原理主義」というカテゴリーに受け入れられてし
まう。原理主義という言葉が、残滓、後退、復古、原点回帰など〈後向き〉のイ
メージを連想させることもあって、イスラーム復興現象が〈反動的〉な性格を帯
びていると理解されがちだった点も否めない。「イスラーム原理主義」の議論を
めぐって重要な点は、大塚和夫がいうように、そのラベルを貼られる側(ムスリ
ム)だけでなく、ラベルを貼る側(欧米ジャーナリズムや国際世論)にも目を向
ける必要があるということである。そもそも、アメリカ社会などで暗黙のうちに
時代に取り残された反動思想だと取沙汰されている原理主義というコンセプト
を、何故にイスラームの宗教と社会の現象にあてはめなくてはならないのだろう
か。ここで、イスラームの歴史と文化に対する否定的な評価や先入観念が、異文
化に対する一般的な偏見と結びついているのではないか、という疑念がわきあが
る。これは異文化理解の姿勢に関わる問題にもつながる。
とくに欧米社会では、キリスト教やユダヤ教の伝統的な環境とは異なるイスラー
ム文化の土壌で起きる事柄の多くを不可思議に感じる傾向が強い。欧米の市民は
もとより言説に責任をもつ人びとでも、理解がむずかしい宗教や社会の変化、と
くにイスラーム復興現象などを世界認識の新しい枠組みやパラダイムのなかに位
置づけて内在的に理解しようとしない。むしろ、自分たちに馴染みのファンダメ
ンタリズムという枠組みのなかに、イスラーム社会現象をとりこんで了解したつ
もりになる。こうした知のアナロジーには、知の怠惰さえ感じられる。単純に考
えても、イスラームとキリスト教を信じる市民は、その聖典に対する態度におい
ても大きな隔たりがある。
ムスリムの市民にとって、『コーラン』は神の啓示をそのままの形で記録した書
物、つまり神自身の言葉の集成なのである。その意味では、『コーラン』はまご
うかたなく無謬であり、ある特定の歴史や社会の条件を超越すると考えられてき
た。この点については、欧米の眼によって「イスラーム原理主義」の徒と目され
る社会運動家であれ、保守と伝統を墨守するウラマーつまり宗教指導者であれ、
平均的なムスリム市民であれ、差異はまったくない。したがって、キリスト教で
いう「リテラリズム」(教典至上主義)は、イスラームに関する限り、「イス
ラーム原理主義」の徒と一般のムスリムが共有する信条なのである。欧米社会の
批判的な聖書解釈学に相当する学問手法は、イスラームの場合、西側の学界や評
論で活躍する少数のモダニズムや世俗主義の知識人による仕事以外にまず見当た
らないのである。
この点にこそ、サルマン.ラシュディーの『悪魔の詩』をめぐるイスラームと欧
米の世論の違いが、乗り越えられない深淵のように横たわっている。イスラーム
では、神と人間、超越と現実との関係を見直す作業はタブーであるといってもよ
い。さしあたり、その是非や当不当は問わないことにする。イスラームでは事実
として、ヨーロッパのキリスト教解釈のように、起源の〈不透明〉さを根絶して
『聖書』の記述に疑いを差し挟むことなどできないということだ。現代のムスリ
ムにとっても、『コーラン』やムハンマドの言行を批判の組上に乗せることは思
いもよらないのである。世界各地のムスリムは国境や宗派を超えて、『コーラ
ン』がテキストとして「暴く」「覆いを取る」ような月並みな対象ではないこと
をラシュディー批判によって明らかにしたのである。
いずれにせよ、「イスラーム原理主義」や「イスラーム・ファンダメンタリズ
ム」という表現の妥当性は疑わしい。まずなによりも、イスラーム世界には自ら
を「イスラーム原理主義」や「ファンダメンタリズム」の徒と名乗る者がいない
からである。アラビア語に「ウスーリーヤ」という言葉があるのは事実である。
それは、強いて訳せば「原理主義」や「根本主義」ということにもなろう。「根
源」という意味の「アスル」の複数形「ウスール」から派生した言葉である。し
かし、「ウスーリーヤ」は明らかに欧米から輸入された「ファンダメンタリズ
ム」を訳したものにすぎない。もちろん、「イスラーム原理主義」という名で呼
ばれる一定の運動とイデオロギーの広がりが存在することも否定できない。しか
し、問題なのは、「イスラーム原理主義」として括られる運動や現象が一枚岩で
はなく、ある特定の条件や歴史的背景から生まれてきたことだ。「イスラーム原
理主義」といっても、ムスリム市民さえ犠牲者となる行動的少数派によるテロリ
ズムは、大衆的な基盤をもつイスラーム社会運動から峻別されなくてはならな
い。双方とも、しばしば「イスラーム運動」(ハラカ・イスラーミーヤ)を自称
し、「イスラームの徒」(イスラーミーユーン)と自ら誇る点は共通している。
しかし、一般のムスリム市民の信仰告白は、テロルを特徴とする武装闘争派の極
端な分子の信条とは重ならない。テロリズムを是とする分子と、社会福祉や弱者
救済をこととする日常活動派の穏健分子を裁然と分類できるとは限らないが、草
の根におけるイスラーム復興現象、穏健な社会福祉や社会貢献活動をテロリズム
から区別して考えなくてはならない。
穏健派のムスリム同胞団のメンバーには、キリスト教徒を含む世俗的な反対政党
をつくる合法的な反対運動に加わる者さえいる。ある三十二歳のエンジニアはこ
うも語っている。「われわれはキリスト教徒とでも、ユダヤ教徒とでも、誰とで
も手をつなぐ。われわれの間の距離はさほどでないことを知った。われわれは穏
健であるべきだ。多党政治を受け入れなくてはならない」
時には、同じ組織や運動のなかでも微妙に両者が重なる部分があるかもしれな
い。その領域はグレーゾーンになるだろう。(図2参照)しかし、アルジェリア
の「イスラーム武装集団」(GIA)のように、一般のアルジェリア人市民さえ
犠牲にすることを厭わない運動や活動家については、「イスラーム原理主義」と
いう曖昧な名で呼ぶよりも、「イスラーム・テロリズム」として再定義する方が
ふさわしい。そこで、純然たるイスラーム・テロリズム以外の潮流については、
運動やイデオロギーとしてはイスラーム主義(Islamism)、宗教社会現象として
はイスラーム復興または復興現象という用語法にたよるべきだと考える。
しかし、イスラーム主義の武装闘争派は、もし市民の積極的支持を得られず、そ
れに被害を加えても恬として恥じない極端な場合には、限りなくテロリズムに近
づくといってもよい。図2では(b)に示されるグループがテロルや暴力をイス
ラームの名で正当化するなら、それはイスラーム・テロリズムとして正面から批
判されるべきである。日常活動を重視するグループが、図2では(a)に位置づ
けられるのは当然であろう。
が、イスラーム主義は同時に医療や社会福祉などの日常活動にも力を入れてい
る。しかし、図2の(c)で表示されるように、武装闘争と日常活動重視という
二つの性格が混在するハマースのような事例がある。こうした急進性と穏健性
は、長い目で見るなら(a)と(b)の両極に分解して別組織になるか、片方に
吸収されてしまうか、のいずれかであろう。アルジェリアのイスラーム救国戦線
(FIS)の組織分裂は、(a)から(c)までの多岐にわたっているが、いち
ばん重要なのは、(b)の代表格として「イスラーム武装集団」を生み出したこ
とである。
ところで、中東のムスリム自身にしても、欧米人によって「イスラーム原理主
義」と俗称されてきたイスラーム主義の流れを仔細に区分するようになった。
「イスラーム原理派」とも訳すべき「ウスーリーユーン」は、特定の派や活動家
の広がりを厳密に限定するものではない。むしろ、イスラーム世界で重要なの
は、手段を選ばずテロル活動も辞さない派を「ムタタッリフーン」(過激派)と
呼んで特別視していることだ。これは、政府系のメディアによく見られる「タ
タッルフ・ディー二ー」(宗教的過激派)と対になっており、否定的な意味合い
を含んでいる。他方、イスラームの原理と純粋性への回帰を自制的な宗教活動や
穏健な政治活動によって呼びかける「サラフィーユーン」(イスラーム純化派)
は、エジプトのムスリム同胞団のように、しばしば地域医療や法律相談、福祉や
慈善の広いネットワーク、学校教育と職業訓練などのセツルメントやボランティ
ア活動にも熱心である。かれらは、国政・地方選挙にも参加し、民主政治の実験
にも決して反対しない。
このなかでは、ムタタッリフーンこそ、イスラーム・テロリズムと非難されても
仕方のない活動に従事している党派である。パレスチナのハマース、レバノンの
ヘズボッラ(神の党)にもテロリズムの要素が一部につきまとう。エジプトのイ
スラーム団やジハード(聖戦)団、アルジェリアのイスラーム救国戦線から分派
した地下団体「イスラーム武装集団」などは、目的のためにはムスリム市民の生
命安全さえ犠牲にするという点で、イスラーム・テロリズムの名がふさわしいだ
ろう。これらはいずれもムタタッリフーンの代表格といってもよいだろう。こう
した複雑な中味をもつイスラーム社会運動を「イスラーム原理主義」として一括
するのは、知覚や視力を曇らせるものでしかない。ジル・ケペルの巧みな表現を
借りるなら、「イスラーム原理主義」という隠喩こそ、異文化理解の妨げになる
「古い理論的鼻めがね」なのである。

(中略)



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