投稿者 YM 日時 2001 年 9 月 23 日 13:40:47:
山内昌之『帝国の終末論』より「終わりの始まり」
はじめに
日本や欧米では、あまり理性的とは思えない現代イスラームの理解が見られる。
とくに、イスラーム復興の現象や運動は、「イスラーム原理主義」という名称で
単純化される傾向がある。こうした理解は、素朴な隠楡や断定的なレンズを通し
ているだけに、人びとの耳朶に響きやすい。しかし、この筋道から得られるイス
ラームの「脅威」や「挑戦」というイメージは、中東からアジアに広がるイス
ラーム世界の現実からかけ離れていることが多い。むしろ、この種の観察は、現
状を謙虚に理解する努力というよりも、日本や欧米のメディアや論壇が自らの主
張や立脚点を再確認する手だてにすぎない。
イスラームは一〇億以上の信者をもっており、キリスト教に次いで世界第二の宗
教であることは改めて言うまでもない。それは、アジアからアフリカにかけて四
五の国で人口の多数を占めている。また、ソ連の共産主義が崩壊した後、世界各
地に国境を超えて浸透した強力なトランスナショナルな力にもなっている。
ところで、日本や欧米における現代イスラーム観を象徴する「イスラーム原理主
義」は、テロリズム、暴力、人質事件などのイメージで語られることが多い。し
かし一方で、日本やアメリカとも協調しながらビジネスを進めるサウジアラビア
や湾岸諸国も、国家と法のレベルでは「イスラーム原理主義」の傾向を帯びてい
る。サウジアラビアは、体制的にはワッハーブ派という「イスラーム原理主義」
の嫡流に連なっており、宗教的にこれほどイスラーム法に厳格で法律違反に不寛
容な国も珍しい。しかし、湾岸戦争を見るまでもなく、サウジアラビアが中東に
おけるアメリカ最大の同盟国であることは自明である。欧米の外交政策は、イラ
ンやスーダンの「イスラーム原理主義」を批判することはあっても、サウジアラ
ビアの「イスラーム原理主義」をとがめることはまずない。というのは、それが
西側の利益を脅かすことはないからだ。「イスラーム原理主義」の内容には、こ
れほど違う振幅がある。こうした根本的な違いを無視して、「イスラーム原理主
義」という言葉を簡単に使ってもよいものだろうか。
これらの疑問から出発して、現在のイスラーム社会現象をできるだけ正確に理解
するためには、比喩的にいうなら、〈宗教的に不寛容な原理主義〉と〈政治的に
不寛容な原理主義〉を一緒に扱う単純化を避ける必要がある。それは、現代イス
ラームの復興現象や社会運動を合理的に説明して、その主張を日本や欧米の論理
とすりあわせながら、イスラームが二十一世紀に向けて提起している問題をさぐ
る作業にもつながる。その際、留意すべきは、「イスラーム原理主義」と呼ばれ
る現象を制度や歴史の文脈で検討する作業が、〈正しいイスラーム〉や〈真のイ
スラーム〉とは何か、といった護数論とはまったく関係がないということだ。イ
スラームの精神や主張の〈正しさ〉を議論するのは、地域文化研究や社会科学の
分析とは何の関係もない。それは、信仰にかかわる問題であり、われわれの関知
するところではない。
しかし、同時に、現代イスラームが進歩や啓蒙に反しており、〈真のイスラー
ム〉があたかも狂信的な原理主義に通底するといった誤解も排除されるべきであ
る。イスラームやムスリムのかかわる事象がすべて宗教的な基盤をもつわけでは
ない。むしろ、それは単純に経済や政治の問題にすぎない場合もあるかもしれな
い。また、やや複雑ではあっても文化の領域で理解できる側面もあろう。ムスリ
ムの姿勢をことごとく、その信心や敬虔さの濃淡から判断することはできない。
キリスト教民主同盟の支持者の意識をすべてプロテスタントの教義から説明でき
ないように、ムスリムの人びとの政治的態度や社会意識を決めるのも生活経験や
人生の記憶なのである。
一例だけあげると、ムスリムたちが欧米との関係でイスラーム性を強調する文脈
は、宗教信仰だけではなく、歴史的な経験や記憶によるところが大きい。植民地
時代の圧制、大国の文化的な傲慢、旧宗主国による同化政策、科学技術における
欧米や日本へのコンプレックス、豊かな石油資源の搾取と自主管理の回復、中東
問題における欧米のダブルスタンダードや軍事的な圧力。こうした経験の重層性
がムスリム市民をイスラーム主義に接近させる暗黙の前提にもなっている。
こうしてみると、欧米との衝突の根拠を初期イスラームからの発展と考えること
には無理がある。こうした基底還元思考は、分析や総合の必要を鈍らせて、「イ
スラーム原理主義」といった神秘的な記号やコードに身を委ねる根拠でもある。
『コーラン』や預言者ムハンマドの言行に現代イスラームの動きをすべて解釈で
きる源泉を求めるのは無理というものである。その立場では、すべての衝突や現
象の原因があらかじめ文献に予知されており、分析済みということになりかねな
い。
そこで重要となる基本的立場は二つある。まず研究対象としてのイスラーム世界
を〈遅れた中世的社会〉であり、欧米や日本の社会を〈進んだ現代的社会〉と考
える結論先取のファラシー(虚偽)に陥らないことである。もう一つは、イス
ラームという〈宗教〉を欧米や日本という〈地域〉と直接に比べないことであ
る。イスラーム世界で起きている現象を、既に知っている知識やコンセプトだけ
に頼るのではなく、地域文化研究の手法によって現状を具体的に眺めながら対象
に迫る。それは、表面をなぞっただけの知的な傲慢さから解放される道に続く。
その一方、〈欧米はイスラーム世界にコンプレックスをもっている〉といった類
のイスラーム中心主義、あるいは素朴なオリエンタリズム論からもそろそろ脱却
せねばならない。いうまでもなく、イスラームを中心に据えれば現代世界が分か
るという単純なものでもない。大事なことは、現代において世俗的な志向に及ぼ
す宗教的な伝統の影響を考えることである。東西にまたがる異文化や異文明の間
に、不必要な摩擦が二十一世紀に起きないように、というのが良識ある現代人の
願うことなのである。