投稿者 YM 日時 2001 年 10 月 20 日 23:10:11:
『現代』11月号
大特集 テロの惨劇、戦争の足音
世界的ベストセラー『タリバン』の著者が明かす驚愕の事実
ビンラ一ディンとタリバン「終わりなき戦い」
(在パキスタンジャーナリスト)アハメト・ラシッド
すべては、1979年暮れのソ連軍によるアフガニスタン侵攻に始まった。
首都カブールで、アフガニスタン分裂のきっかけになったクーデターが発生し、
ダウド大統領の官邸に戦車部隊が突入する様を私が目の当たりにしてから、一年
半金りが経っていた。アフガン第二の都市、カンダハルで私は、ソ連軍の第一陣
が進軍してくるのを目撃した。中央アジア出身のティーンエイジャーが大半を占
めるソ連兵たちは、砂糖の入っていないアフガンの緑茶にありつこうと、競うよ
うに戦車から降りてきた。
ソ連の侵攻は、厳格なイスラム国家であるアフガニスタンにとって、「無神論の
共産主義者」の侵入だった。ムジャヒディンと呼ばれる七派に分かれるイスラム
武装勢力とソ連軍の戦いは丸一〇年にわたって続いた。アフガニスタン全土で一
五〇万人もの死者を出し、五〇〇万人もの難民が国境に溢れた。
89年にソ連軍が撤退。92年に、ムジャヒディンを率いるマスード将軍(後に
タリバンと対決する北部同盟の最高司令官に就任し、この9月に暗殺された)が
カブールを占領し、ソ連の傀儡であったナジブラ政権が崩壊し、ラバニ政権に代
わった。だが、各地に軍閥が践雇し、国土は荒廃したままだった。
そこに登場したのが、タリバンである。タリバンというのは、「イスラムの学
生」を意味する「タリブ」の複数形である。彼らの大部分は、ソ連との十年戦争
でパキスタンに溢れ出た難民たちの子供である。難民孤児たちはパキスタンのア
フガン難民キャンプに作られた数百校のマドラサ(イスラム神学校)で、一四〇
〇年前に予言者モハメッドが創ったイスラムの理想社会のことだけを教え込まれ
た。彼らの中から選別されて戦士に養成された若者たちが、タリバンである。
タリバンは、女性は男性をアラーの神への奉仕から引き離す不浄なものだと教え
られて育った。そのため彼らは母親や姉妹かち遠ざけられ、交友達を持ったこと
もない。過去の思い出も将来の希望もない彼らにとっては、自分が役に立てる現
在の戦争だけがすべてである。
タリバンの最高指導者ムラー・モハメド・オマルは、秘密のベールに毎まれた指
導者だ。1959年頃、カンダハル郊外の貧農の家に生まれ、成人してムジャヒ
ディンに加わってナジブラ政権と戦った。四回負傷し、右目も失っている。アフ
ガンを制圧した現在も南部のカンダハルを離れず、首都カブールを訪れたのは数
回だけである。オフィス兼自宅には三人の妻と五人の子供がいて、出かける時は
デラックスな日本製四輪駆動車に乗る。背が高くがっしりした体格だが、性格は
内気で、カリスマ的な演説などはしない。国中の司令官と連絡を取るため、部屋
ではいつも無線機がカリカリ音を立てている。ベッドの下には、戦費として使う
米ドル札をぎっしり詰めた巨大な錫のトランクを寝かせている……。
ムラー・オマルに関する情報はどれも断片的でしかない。ともかく、彼はカンダ
ハルの礼拝所に納められていた預言者モハメッドの外套を取り出し、タリバンの
大集団の前で着てみせた。その時から、「アミール・ウル・モ、ミンイーン」
(信仰者たちの指導者)と崇められるようになったのである。
首都での初仕事は元大統領の処刑
タリバンは、94年春からカンダハルとその近郊で軍閥の基地を襲撃し始めた。
若くて恐れを知らない彼らは、11月には一〇万都市のカンダハルを占領、95
年春までに全国三一州のうち南部の一二州を支配下に置いてしまった。
米クリントン政権は、タリバンの台頭を歓迎した。79年にテヘランで起こった
米大使館人質事件以来、一貫して反イラン政策を取ってきたアメリカにとって、
親イラン的なラバニ政権と戦うタリバンは頼もしい存在だった。直ちに2000
万ドルの「イラン撹乱のための秘密予算」がCIAに計上された。
その後、タリバン軍はマスード司令官率いるラバニ政権軍と一進一遇の攻防を繰
り広げたが、95年9月に西部の要衝ヘラートを占領。翌96年9月には、一〇
ヵ月攻勢の末、人口一二〇万の首都カブールを奪取した。
タリバンがカブールを占領して真っ先に行ったのは、ナジブラ元大統領の処刑
だった。深夜、ナジブラを大統領官邸に引っ張っていき、まず男性器を切り取
り、ロープで縛った体をジープで引きずって官邸を周回した。傷だらけの膨張し
た遺体は官邸前の交通管制台に吊されて、見せ物にされた。
カブール占領後、タリバンは次々に国民に布告を発した。
・男性は六週間以内に拳以上の長さの顎髭をたくわえなけれぱならない。
・女性の就学と家庭以外での労働を禁止し、外出する時は頭からつま先まで全身
ベールで覆わなければならない。
・盗人は手足切断の刑、不義密通は投石処刑、飲酒は鞭打ち刑に処する。
・あらゆるスポーツや娯楽、音楽は廃止し、テレビは破壊する…
かつてナジブラ政権時代に国民を恐怖におとしいれた情報機関KHADが、宗教
警察と名前を変えて復活した。警察長のカラムディンは、「われわれはムラー・
オマルの命令だけに従って行動する」と私に語った。
毎週金曜日は公開処刑の日となった。カンダハルのサッカー場に一度行ってみた
ことがあるが、一万人を超える男性と少年が見守る中、ゴールポスト近くで、殺
人犯が被害者の家族によって六発の銃弾を撃ち込まれた。
最高指導者ムラー・オマルの秘書長であるムラー・ワクリは私に言った。
「われわれは政治や経済を認めないし、公務員や兵士に与えるのは食糧、衣服、
銃だけで、給料は出さない。われわれは、アフガニスタンの地に、預言者モハ
メッドが生きていた一四〇〇年前の世界を再現するのだ」
カンダバル州のムラー・モハメド・ハッサン知事に、なぜ娯楽を禁止するのかと
聞くと、「公園で花を愛でるのがイスラムだ」と答えた。
アフガニスタンは、ポルポト派が支配したカンボジアのような原始社会に戻って
いった。そこには、電気やガスといった最低限のインフラさえない。彼らは二五
〇〇年も前に作られたバーミヤンの巨大石仏さえ破壊した。
各省庁は機能をほぼ停止し、午後は祈りと昼寝の時間となった。二〇〇〇万人も
の人口を抱えているのに、タリバン政権の財政省が編成した年間の国家予算は約
10万ドルにすぎない。首都カブールでさえ、市民の平均的月給はー〜3ドル程
度。全国で稼働している工場は、義足、松葉杖、車椅子などを作る所だけという
有様である。
タリバン政権はまた、全国の農地をケシ畑に変えた。カンダハルの中心地から
3・5Hも行くと、そこにはもう見渡すばかりのケシ畑が広がっている。カンダ
ハル地区の麻薬取締責任者であるアブドル・ラシッドは、タリバン政権のユニー
クな農業政策について語った。
「アフガンの農地ではカフィール(イスラム不信者)が消費するアヘンを作り、
小麦はパキスタンから手に入れる。農民もより高額の収入を得られるからタリバ
ンに従順だ」
UNDCP(国連薬物統制計画)によれば、97年のアフガニスタンのアヘン生
産量は2800トンに上り、ダントツで世界一の座を占めている。ケシ栽培農民
約一〇〇万人の現金収入は年間1億ドルを超え、タリバンの稼ぎは年間30億ド
ルにも達する。このすさまじい麻薬栽培のせいで、隣国パキスタンで五〇〇万
人、イランで三〇〇万人がヘロイン中毒に陥った。
タリバン政権が麻薬栽培とともに奨励しているのが、密輸ビジネスである。かつ
て中国とヨーロッパを結んだ伝説のシルクロードは、いまやラクダの代わりに密
輸トラックで栄えている。パキスタンとの国境の町、スピン・バルダクヘ行って
みるとよい。毎日三〇〇台もの密輸トラックが堂々と国境を越えていく。積み荷
を覗くと、アフガン製ヘロインに始まり、日本製音響機器、英国製の下着、紅
茶、中国製の絹、アメリカ製コンピュータ部品、パキスタン産小麦に砂糖、東欧
製カラシニコフ自動小銃、イラン産石油など、何でも揃っている。ちなみに、メ
ルセデスのトラックは盗品で、運転手の携帯している免許証も偽造品である。
そもそもタリバン政権の役人の大半は、密輸業者が兼任している。だからタリバ
ン政権が行ったわずかなインフラ整備と言えば、道路の修復、給油ポンプの設
置、密輸業者間の携帯電話網の開設などである。彼らにとって国造りとは、密輸
ビジネスを拡大することに他ならないのである。
四三ヵ国のイスラム戦士を結集
さて、ウサマ・ビンラディンについて述べるために、ソ連軍が撤退した直後に話
を戻そう。
89年4月のある日、カブールでの取材を終えて陸路パキスタンに戻る途中だっ
た私は、カイバル峠の頂上にある国境で、ムジャヒディン兵士たちを満載したト
ラックに出くわした。聞いてみると、彼らはフィリピンのモロ人、ウズベク人、
アルジェリア人、サウジアラビア人、クウェート人、中国人などだった。ここで
軍事訓練を受けた後、それぞれの国に帰って「ジハード」(聖戦)を戦うのだと
いう。
その晩、ベナジール・ブット首相の晩餐会に招かれた私は、首相の脇でソ連軍の
撤退に有頂天になっているISI(パキスタン軍統合情報部)のハミード・グル
部長に、昼間見た話をした。グル部長は、平然と答えた。
「西側諸国にはNATO(北大西洋条約機構)があるではないか。われわれがジ
ハードを戦うために、なぜムスリムが団結して共同戦線を張っではいけないの
だ」実は、ISIは82年以来、パキスタンをイスラム世界のリーダーにすると
いう野望のもと、秘密裏にイスラム国家四三ヵ国から、将来のムスリム急進派と
なる若い志願兵たちを募って訓練していた。86年には、彼らをアフガニスタン
の対ソ戦に利用するため、ウィリアム・ケーシーCIA長官の主導のもと、アメ
リカから武器支援や軍事顧問団の派遣が行われた。ケーシー長官は、パキスタン
を極秘訪問し、ムジャヒディン部隊の閲兵まで行っている。ムジャヒディン部隊
が、将来、ジハードの鉾先をアメリカに向けるなど、夢にも思わなかったのであ
る。
こうして、92年までに計一〇万人にも上る若い異国のムスリムたちが、パキス
タンのペシャワル近郊やアフガニスタンのキャンプで、思想面と戦術面で団結を
深めた。89年にソ連がアフガンから撤退して以降は、若者たちは、「アフガン
のジハードが超大国ソ連を破ったのだから、もう一方の超大国アメリカをも打ち
破れないものか」ということを真剣に議論した。そんな中に、サウジアラビア人
のウサマ・ビンラディンもいたのである。
ビンラディンは、1957年頃、イエメン人の大富豪、モハメド・ビンラディン
の五七人の子供の一七番目として生まれた。母はサウジアラビア人である。サウ
ジアラビアの故・ファサイル国王の親友だったモハメド・ビンラディンは、サウ
ジで建設会社を興し、メッカやメディナの大モスクの工事を手がけるなどして一
財産を築いた。
ISIが、サウジ情報局の責任者であるトゥルキ・ビン・ファサイル殿下を通じ
て、サウジ王室からの志願兵参加を呼びかけた時、パキスタン行きを志願する王
族はいなかった。この時、王族に代わって名乗りを上げたのが、ジッダのキン
グ・アブドル・アジズ大学経営学部の大学院に在籍していたビンラディンだっ
た。彼がパキスタン行きを決めたのは、大学時代の恩師で、89年に暗殺される
ことになるアブドラ・アザムが、世界ムスリム連盟のペシャワル事務局に勤めて
いたからだった。ビンラディンの決意を聞くと、父親も王族もこぞって賛意を示
した。
サウジ時代の友人によると、パキスタン入りするまでのビンラディンは、1町
99Bの長身に濃い顎髭という風貌の他は、ごく普通の若者だったという。
ビンラディンは82年以降、アフガンとの国境に近いペシャワルに住み着き、父
の会社の技術者や重機を運んでムジャヒディンのための道路や武器倉庫などを建
設した。86年にはCIAの資金で、国境近くの山中に、大規模な地下軍事施設
「ホスト・トンネル」を建設した。彼は後年語っている。
「私は初めて、ホスト・トンネルにムスリム諸国から集まった志願兵たちを集め
て、自前のキャンプを持ちました。武器はアメリカから補給され、アメリカやパ
キスタンの将校たちに訓練してもらいました。しかし私は、戦いをアフガンでの
対ソ戦だけに限定するのは充分でないと気づいたのです」
イスラム社会を巡る情勢は変化していた。ソ連がアフガンから撤退した翌90年
夏、イラクがクウェートに侵攻した。ビンラディンはただちにサウジ王室にク
ウェート防衛軍の編成を働きかけ、アフガン帰還兵たちを集めようとした。
ところが、ファハド国王は、ビンラディンにではなく、異教徒の国アメリカに助
けを求め、五四万の米軍が到着した。このことで強いショックを受けたビンラ
ディンは、サウジ王室を公然と批判し、ウレマ(イスラム法学者)たちに米軍退
却を命じるファトア(イスラム教令)を出すよう求めた。
イラクがクウェートから撤退した後も、二万もの米軍が駐留していることに対し
て、ビンラディンは内務大臣のナイフ王子を「イスラムの裏切り者」と罵った。
ナイフ王子はファハド国王に苦情を申し立て、ビンラディンは国王から注意を受
けた。だがその後もビンラディンの王室批判はエスカレートしたため、94年に
サウジ王室はビンラディンの国籍を抹消するという前例のない措置に出た。
サウジアラビアに居づらくなったビンラディンは、92年に、スーダンのカリス
マ的指導者ハッサン・トゥラビのもとで進められているイスラム革命に参加する
ため、スーダンに向かった。ビンラディンはスーダンで、豊富な人脈と財産をフ
ル活用し、多数のアフガン帰還兵たちを集めた。アラブ地域へのアメリカの介入
に不服を唱えるムスリムたちは、こぞってビンラディンを支持した。
96年4月、クリントン大統領はテロ組織の資産を封鎖することを認めた反テロ
リズム法に署名した。この法律は、推定3億ドルといわれるビンラディンの資産
を凍結するのが目的だった。アメリカとサウジアラビアからの圧力が高まったこ
とで、スーダン政府はやむなくビンラディンに出国を要請した。三人の妻と一三
人の子供、それにボディガードや側近のアラブ人活動家などを乗せたビンラディ
ンのチャーター機が向かった先は、アフガニスタンだった。
「アメリカ人を殺すのはムスリムの義務」
アメリカとの対決姿勢を鮮明にしていくビンラディンと、対米テロなどとは無縁
のタリバン幹部たちとを引き合わせたのは、パキスタンのISIだった。カシ
ミール地方でインドとの国境紛争を抱えるパキスタンは、タリバンが手中に収め
たホスト・トンネルを、カシミ一ル戦士の訓練場として確保したいという思惑が
あった。
もっとも、ビンラディンの資産は、世界最貧国を率いるムラー・オマルには魅力
的に映ったに違いないし、ビンラディンも安全な拠点を求めていた。パキスタ
ン、タリバン政権、ビンラディンの三者の思惑は一致したのである。
パキスタンとの国境に近いジャララバードに居を構えたビンラディンは、早速、
ムラー・オマルの家族のために家を建ててやったり、タリバン幹部たちに資金を
回したりした。さらに、タリバンに抵抗する北部同盟のマスード軍に対する攻勢
に力を貸したことで、タリバン内部での評価を高めた。
ビンラディンがやって来るまで、タリバン政権はアメリカに自分たちの外交的承
認を嘆願していたほどだった。それが徐々にビンラディンに洗脳されていき、タ
リバンの出す声明文は、本来のタリバン調からビンラディン調に変わっていっ
た。アメリカに対しても、「客人を追い出すのはアフガンの伝統に反する」と主
張するようになった。
97年1月、CIAが編成した奇襲部隊がペシャワル入りし、ビンラディン誘拐
作戦を立てたが失敗に終わった。危険を感じたビンラディンは、ムラー・オマル
の住むカンダハルに引っ越した。翌98年2月23日、ビンラディンは、「ユダ
ヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」の名のもとに宣言文を発
表した。それは、「軍人、民間人を問わず、アメリカ人とその同盟者を殺すとい
う決定は、ムスリム一人一人に与えられた個人的義務である」といった内容だっ
た。ビンラディンの元の仲間によれば、彼はとても感受性の強い男だが、レーニ
ンやチエ・ゲバラのような思想家ではない。そもそも彼はイスラム法学者でない
ので、ファトアを発令する資格がない。
ところが、この恐るべき宣言文は、ただちに実行に移された。8月、ケニアとタ
ンザニアのアメリカ大使館が爆破され、二二四人もの犠牲者を出したのである。
アメリカ軍は、この事件の一三日後、ホスト・トンネルとジャララバード付近の
キャンプに、七〇発の巡航ミサイルを撃ち込んで報復した。
11月、クリントン政権はビンラディンを捕らえた者に500万ドルの報奨金を
支払うと発表、99年のテロ対策特別予算として67億ドルを割り当てた。そし
てフィリピンから西アフリカのモーリタニアに至るまで東西数千キロにわたっ
て、ビンラディン一派の掃討作戦に乗り出したのである。これに対してビンラ
ディンは、「アメリカを攻撃するために核兵器や化学兵器を入手するのはムスリ
ムの義務である」と公言した。そして、積年の恨みを晴らすかのような米本土で
の同時多発テロヘと発展させていったのである。
(後略)