投稿者 ロバート・オッペンハイマー 日時 2001 年 6 月 06 日 16:58:34:
三菱財閥
スリ−ダイヤモンドとして、いまや世界的に知られているこのマ−ク(図1)を目にし
たことのない人はいないだろう。天下の三菱の社章である。三菱財閥の創業者・岩崎弥太
郎が三菱商会を発足させたとき、藩主山内家の家紋三ツ柏(土佐柏)の柏葉を、岩崎家の
家紋三階菱の菱形に置き替えてデザインしたと伝えられている。
この柏が三菱の社章の元となっていると知って、筆者はそこに陰謀の存在をたちどころ
に感じ取った。何故なら、柏はケルトのドルイド教と深い関係があるからである。
「ガリアのケルトのドルイ−ド僧団は、寄生樹とそれが生えているカシワの樹を、この
上なく神聖なものと考えた。彼らは荘厳な礼拝の場処としてカシワの森林を選び、カシワ
の葉を用いることなしにはどんな儀式をも執り行なわなかった」「事実ドルイ−ドという
名そのものも『カシワの人々』を意味するに過ぎぬと、確実な権威者たちは信じているの
である」(金枝篇)
岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人(最下級の武士)である岩崎弥次郎の子として、天保
5年(1834年)12月に生まれた。慶応2年(1866)、弥太郎は土佐商会主任と
して長崎に赴任した。土佐藩直営の産業振興機関「開成館」は、藩の物産を売りさばくと
同時に、必要な物資を買い入れる機関として、大阪と長崎にそれぞれ出先機関を設けてい
た。これが後の大阪土佐商会、長崎土佐商会となったのだ。土佐商会の主な取引先は、英
国のグラバ−、オ−ルト、プロシアのキニツフル、ハルトマン、オランダのシキュ−ト、
ベルギ−のアデリアンなどの各商会で、買い取った商品のほとんどは、高価な武器だった
。この頃弥太郎は、亀山社中(海援隊の前身)の坂本龍馬と知り合っている。貧乏育ちの
弥太郎と、お坊ちゃん育ちの龍馬は犬猿の仲だった。
弥太郎が土佐商会で交渉を持った外国商人の一人に、ト−マス・ブレイク・グラバ−が
いる。「死の商人」グラバ−はイギリスの大商社ジャ−ディン・マセソンの長崎代理人だ
った。グラバ−はイギリスのフリーメーソンであった。グラバ−と弥太郎の関係は深い。
グラバ−が出資の面で深く係わっていた高島炭鉱と長崎造船所(三菱造船所の前身)を三
菱に譲渡している。明治26年にグラバ−が住居を東京に移した時、三菱の特別役員とな
っている。この時の待遇も破格で、最高役員の二割増の給与を得ている。グラバ−はまた
坂本龍馬に大きな思想的影響を与えたことで知られている。
慶応4(1868)年9月8日に年号が明治と改元され10月13日に東京遷都が公布
されて、長崎土佐商会は閉館と決定した。土佐大阪商会の支配人となった弥太郎は、土佐
藩の財政を一手に握って権勢を振るった。土佐藩の財政が外国商人からの借金で補われて
いて、外国商人と交渉できる人物は、弥太郎以外に誰もいなかったからである。土佐大阪
商会は土佐開成社へと脱皮し、次に土佐の九十九湾に因んで九十九商会になった。すでに
この時は、藩籍を離れて私企業になっていた。
九十九商会は、紅葉賀と夕顔の二藩船を貰い受けて、海上運輸業を開業することになっ
た。そして船の旗印として三角菱をつけることにした。例の社章である。表面上、弥太郎
は九十九商会と無関係ということになっているが、彼は土佐藩の大阪代表として、商会を
支配していた。この頃、石川七左衛門(後の七財)や川田小一郎が弥太郎の部下となって
いる。
明治4(1871)年7月、廃藩置県の詔書が発せられた。弥太郎は、藩札を政府が買
い上げてくれると知ると、すぐさま10万円分の太政官札を借りてきて、ただ同然に値下
がりしていた藩札を買いまくった。7月14日の相場で、藩札と太政官札を引き換えると
いうことになって、弥太郎はぼろ儲けした。ワ−テルロ−の戦いでナポレオンの敗戦を知
ったロンドンのネイサン・ロスチャイルドが、値下がりした有価証券を秘かに買い集めて
ぼろ儲けしたエピソ−ドを思い出す。誰か弥太郎に入れ知恵した者があったのだろうか。
これからは弥太郎を、日本のミニ・ロスチャイルドと呼ぶことにしよう。
さて、ミニ・ロス弥太郎は、藩船「夕顔」と「鶴」の両船を4万両で払い下げてもらっ
た。そして、川田小一郎、石川七左衛門、中川亀之助(森田晋三)の3人を代表として会
社を作った。川の字をそれぞれ名前にもっている3人の男の集まりなので、社名を九十九
商会から三川商会と改称した。航路は東京−大阪、神戸−高知間である。そして競争相手
は、郵便蒸気船会社。これは半官半民の回漕会社で、民間側は天下の富商三井を筆頭に、
東京・大阪の豪商や船問屋が資本金を出し合って株主となっている。これが赤字を出して
しまったので、明治4(1871)年、政府は会社の後始末を三井大阪店の番頭吹田四郎
兵衛に一任した。こうして8月になると、三井、鴻池、小野、島田といった富商が株主と
なって、日本国郵便蒸気船会社(後の日本郵船)が発足した。
明治6(1873)年3月、弥太郎は「三川商会」を「三菱商会」と改称した。しかし
汽船事業は赤字続き。そこで料金を半額に下げて、夏は団扇と氷水をサ−ビスした。
すると三井は料金を3分の1に下げてきた。三菱と三井の苛烈なダンピング競争が始ま
った。ダンピングに堪えられなくなった中小の船会社はバタバタ倒れていって、残るは三
菱のみとなった。しかしこの時、不思議なことが起こった。政府の公金を扱っていた三井
と小野、島田に対して、政府は、預り金と同額の担保を入れよと命じたため、小野と島田
が倒産してしまったのだ。
そこで政府はこれまでに放漫に出していた政府資金の回収に取りかかった。そのため日
本郵便蒸気船会社は借入金40万円の返済を命じられてよろめきだしたのだ。いったい何
が起こったというのだろうか。陰謀に通じている諸君は、もうお分かりだろう。この三井
と三菱のダンピング競争は、出来レ−スだったのである。つまり三菱と政府・三井の間で
予め合意が出来ていたということだ。その目的は、中小の船会社を倒産させて、三井と三
菱で航路を独占することにあった。ついでに小野や島田などの富商も倒産させてしまう。
政府は三菱を潰すことなど、鼻から考えていなかったのである。
その後、ミニ・ロスは台湾出兵の時に政府に船を13隻買わせて、漁夫の利を得た。お
まけに台湾航路も開設した。三菱汽船の攻勢に劣勢となった日本郵便蒸気船会社は解散さ
せられた。所有船として使えるものと倉庫などは三菱が引き取った。こうして三菱は所属
船舶40余隻という日本最大の船会社となった。
この頃ミニ・ロスは福沢諭吉と会っている。しかも大隅重信も同席して
、以来、この3
人はすっかり仲良しになった。ミニ・ロスがすっかり気に入った諭吉は、慶応義塾の卒業
生を多数三菱に送り込んだ。
西南戦争が起こると、ミニ・ロスは兵員と物資の輸送でまたぼろ儲けした。三菱は船で
稼ぎ、三井は陸軍の経理を引き受けて儲け、三井物産は糧食で、大倉組は、紺の脚半や足
袋や干物の魚で、藤田組は軍服と靴で巨利を博した。
西南戦争の戦費4200万円のうち、三菱はなんと1500万円、つまり戦費の3分の
1を手にしたのである。
当時2頭立ての馬車を乗り回していたのは、岩倉右大臣か大久保内務卿の二人だといわ
れていたけれど、そこへミニ・ロスが加わった。
こうしたところへ、三井が政府に働きかけて、三菱の独占事業に対抗する船会社が設立
されることになった。これが共同運輸会社である。大久保は暗殺され、大隅は失脚してい
た。自由党による激しいミニ・ロス攻撃が始まった。政府は260円の大金を共同運輸に
出資した。こうして三菱対共同のダンピング競争が始まった。この最中、ミニ・ロスは癌
に倒れた。明治18(1885)年2月7日、弥太郎は「腹ン中が裂けるようじゃ、もう
何も言わん」といって死んだ。享年52歳であった。
三菱と共同運輸の競争は熾烈を極め、3年間にも及んだ。明治18(1885)年、共
倒れを懸念した政府は合併を指令、両社の戦いは終息した。新会社は日本郵船会社と命名
された。新会社は、資本金を1100万円とし、三菱側出資500万円、共同側出資60
0万円と定められた。日本郵船の支配権は、当然過半数の株を持つ共同側(三井側)の手
中にあるはずだった(株券10万株は三菱に、12万株は共同に交付された)。ところが
三菱側は岩崎に独占集中されているのに、共同側の株主は分散しているうえ、その中にも
三菱関係者がいた。このため、三菱側の持株率は、逆に共同側を上回ってしまったのであ
る。後に、近藤廉平(元三菱汽船会社横浜支配人)が社長となるに及んで、13回の重役
異動を経て、完全な三菱系企業と化してしまった。三菱の作戦勝利なのか、はたまた出来
レ−スの二番煎じなのであろうか。
ところで弥太郎の死後、弟の弥之助が三菱を引き継いだ。弥之助は兄の勧めでアメリカ
に留学している。弥之助は炭鉱事業に乗り出した。弥太郎が後藤象二郎から買収した高島
炭坑の利益は、弥之助の予測を上回った。買収してから約5年で、三菱のドル箱となった
。弥之助は、明治22(1889)年には、新入、鯰田の両炭鉱を買収した。これから筑
豊炭田への進出がはじまったのである。弥之助はここで日本最初の技術を次々と採用した
(長壁式採炭法)。
弥之助はまた、金属鉱山にも力を入れた(尾去沢、生野、佐渡、槙峰、面谷など)。そ
して石炭と銅の収入源を資金源として、造船を中心とする近代的な重工業財閥へと三菱を
リ−ドしていくのである。政府から払い下げを受けた長崎造船所は、その後次々と6千ト
ン級汽船を建造していく。
しかし良く考えてみれば、当時の日本人だけで最新技術を導入することが不可能であっ
たことはすぐ分かる。高島炭坑に近代的な採掘機械を最初に導入し、また日本の造船技術
の始まりとなったソロバン・ドック(我が国最初の洋式ドックで、入江を利用したスリッ
プ式造船施設)を作ったのは、前出のグラバ−である。三菱とフリーメーソン・グラバ−
の結びつきは深い。
明治33(1900)年以降は、長崎造船所で軍艦の製造にも乗り出した。そして弥之
助は、鉱山業、造船業と並んで、銀行業、地所事業に乗り出す。また弥之助は、明治29
(1896)年、川田小一郎の急逝の後を受けて第4代日銀総裁に就任している(明治2
9年11月11日〜明治31年10月20日)。第3代日銀総裁(明治22年9月3日〜
明治29年11月7日)の川田小一郎も三菱人であったことは、既に述べた。ちなみに、
弥之助の後の第5代日銀総裁(明治31年10月20日〜明治36年10月19日)は山
本達雄であったが、山本もまた三菱人である。三菱は3代続けて日銀総裁を送ったのだ。
この岩崎弥之助日銀総裁の元で行われた重大な幣制改革が、明治30(1897)年の
金本位制の採用であった。時の首相は財政通、松方正義であった。松方はこの時蔵相も兼
務している。弥之助は松方の金本位制を終始バックアップした。当時、この金本位制には
反対意見が多かった。元老の間では、伊藤博文が反対であった。
「日本では金鉱が少なく、金の産出が乏しい。これでは不可能であろう」というのであ
った。
安田善次郎などは、
「もし金本位制が実現するならば、自分は松方君のために純金の等身像をつくって贈っ
てあげる」などといってからかった。
だが最終的に天皇の裁断がものをいった。天皇は松方を信じて、金本位制の採用に踏み
切った。日清戦争の賠償金が金本位制採用の準備金となった。ではその成果はいかがなも
のであったのだろうか。
「日清戦争のあと、日本と金本位制国との貿易は拡大しつつあった。ことに金本位国か
ら日本に対する輸入が膨張した。しかし、日本はまだ銀本位であったので、銀貨の変動の
ために不利益をこうむるケ−スがきわめて多かった。しかし、金本位制を採用した結果、
このような不利益はなんなく解消をみた。
さらに、金本位制をとったことで、日本は世界市場にそのまま直結することになった。
それは外資募集に効果をあげた。外資導入が容易となり、増加することになったのである
。拘束状態にあった軍事公債の売却、また三十二年(1899)の四分利付外債一億円の
募集についても、みごとな効果をあらわしはじめた。あとあと日本が莫大な軍艦、兵器を
輸入でき、かつ日露戦争が勃発したとき、その戦争に必要な巨大な外債募集ができたこと
なども、いずれも金本位制を採用したからのことであった」(『明治・大正の宰相 松方
正義』講談社)
金本位制は日露戦争への道筋を準備したことになる。戦争が起こって得をするのは、巨
大財閥であることはいうまでもない。ところでこの金本位制が採用された明治30年前後
の日本の政界は、弥之助によって動かされたといっても過言ではないという。明治21(
1888)年の黒田内閣は「最初の三菱内閣」であり、明治29(1896)年の第2次
松方内閣は「いっそう純粋・透明な三菱の内閣」であり、弥之助はひそかに祝杯をあげた
という。
三菱財閥2代目総帥・岩崎弥之助は、明治41(1908)年3月、逝去した。弥太郎
と同じく死因は癌であった。享年58歳であった。
ところで弥之助が43歳の時
の明治26(1893)年に、弥之助は三菱合資会社の経
営権を、弥太郎の長男岩崎久弥に譲っている。時に久弥は弱冠29歳、三菱3代目総帥の
誕生である。
久弥は明治19(1886)年、22歳の時、アメリカ留学に出発している。最初の2
年間は入学準備に費やし、明治21年にペンシルバニア州フィラデルフィア市のペンシル
バニア大学に入学。5年後の明治24(1891)年にアメリカより帰国している。久弥
の留学先がペンシルバニア大学だったことは非常に興味をそそる。そもそもペンシルバニ
ア州はクエ−カ−教徒のイギリス人、ウィリアム・ペンが設立した州である。そしてペン
シルバニア大学の創設者は、かの高名なアメリカ・フリーメーソンであったベンジャミン
・フランクリンである。フランクリンはイギリスのオカルト秘密結社、ヘル・ファイア−
・クラブのメンバ−でもあった。ヘル・ファイア−・クラブの主催者はサ−・フランシス
・ダッシュウッド、イギリスの貴族である。ダッシュウッド邸の地下にある洞窟は悪魔崇
拝の性的儀式に使われ、これにはフランクリンも参加していた。久弥はこのペンシルバニ
ア大学でオカルト帝王学をみっちりと仕込まれたに違いない。ところで、アメリカ留学前
に久弥は福沢諭吉の慶応義塾に学んでいる。福沢諭吉と三菱の縁も深い。
3代目社長久弥は自分が表面に出ないで、三菱の「四天王」に経営を任せた。日本郵船
の近藤廉平、明治生命の荘田平五郎、東京海上火災の末延道成、三菱銀行部の豊川良平で
ある。この4人は、いずれも弥太郎の子飼いであった。
先に戦争で得をするのは巨大財閥であると述べたが、明治27(1894)年の日清戦
争、明治37(1904)年の日露戦争でも、三菱財閥は戦時利得の恩恵にあずかった。
この10年間に三菱合資会社は三菱銀行、佐渡および生野鉱山(後の三菱鉱業)、大阪製
煉所、神戸製紙所(後の三菱製紙)、福岡県の牧山骸炭製造所(三菱の石炭化学工業の発
端)、小岩井農場、東京倉庫(後の三菱倉庫)、唐津炭鉱、神戸造船所(第1次大戦中は
潜水艦を建造)などを新たに傘下におさめている。
大正3(1914)年7月に勃発した第一次世界大戦でも、三菱は造船、製紙、鉱業で
儲けるだけでなく、投機商品の取り扱いにまで手をのばし、ロンドンとニューヨークに支
店を設置して世界貿易に打って出ている。三井物産や鈴木商店と競合したのだ。
久弥は52歳になった大正5(1916)年7月、副社長の座にあった弥之助の子、小
弥太に総帥の座を譲渡している。
三菱は戦争のたびに大きくなったといわれる。第一次大戦では軍需で多大の利益をあげ
た。大戦景気はその反動に見舞われ、大正9(1920)年春、世界恐慌が勃発して日本
資本主義も慢性的な不況期に入った。軍国主義の波が押し寄せ、財閥は格好の攻撃目標と
なった。右翼のテロが牙を剥いた。小弥太の数少ない友人の一人である高橋是賢の父親で
、小弥太が尊敬していた高橋是清も右翼のテロの凶弾に倒れている。
昭和2(1927)年春、昭和恐慌が発生した。弱小財閥は軒並みつぶれたが、三井、
三菱といった大財閥は独占的地位を確立し、産業、金融における支配力を一段と強めたの
だ。
昭和16(1941)年12月、太平洋戦争勃発。軍部は財閥に戦時協力を求めた。三
菱財閥の戦争協力は、すさまじいものがあった。海軍艦船、航空機等、軍の要望に応えて
、ひたすら増産に務めた。この戦争で三菱財閥は、戦時超過利潤をあげた。その先頭には
、常に三菱4代目総帥小弥太の姿があった。
敗戦後、小弥太はGHQの財閥解体に反対して、昭和20(1945)年12月2日、
悔しがりながら憤死してしまった。享年67歳であった。久弥はその後も生きつづけ、昭
和30(1955)年の12月1日に逝去している。享年91歳であった。
敗戦後、GHQの命令で財閥は解体された、と一般的には思われている。しかし戦後に
おいても三菱グル−プのまとまりは三井に比べて固い。
三菱系の社員は、『バイ三菱』主義によって、同系の電気・化学製品などを愛好するだ
けではなく、保険は東京海上火災、デパ−トは伊勢丹、カメラはニコン、ビ−ルはキリン
といった閉鎖的な性格が、戦後の企業集団のなかで最も強いという。
「戦後の日本の財界団体(経団連、日経連、日商、同友会など)の長には、財閥系の経
営者はならないという不文律のようなものがあった。
しかし、財閥解体の後、徐々に力を盛り返してくるとともに、特に三菱グル−プの経営
者が財界の主導権を握るようになってくる。
財界ではないが、昭和三十九(1964)年に、田実の前の三菱銀行頭取、宇佐美洵が
日本銀行総裁に就任したのがその皮切りである。三菱のサラブレットである宇佐美洵の母
よしの兄は後述の池田成彬である。よしの妹なみは、元三菱銀行頭取加藤武男に嫁いでい
る。
その後、四十年代に入って、牧田の前の三菱重工社長、河野文彦が経団連の副会長にな
り、藤野忠次郎(三菱商事元社長−筆者注)も東商副会頭になった。
そして、日経連の会長に、三菱鉱業セメントの大槻文平がなって、財界団体の長は電力
や新日鉄等の独立系企業からという“ジンクス”は破られた」(『野望の軌跡』旺文社)
という。
ところで言い遅れたが、本書の目的は三菱財閥の研究ではなくて日本銀行の研究にある
。だが歴代の日銀総裁を調べているうちに、日銀と三菱が非常に深い関係にあることが分
かったのだ。ここで歴代日銀総裁の経歴をざっと見ておくことにしよう。
初代 吉原重俊(明治15年10月6日〜明治20年12月19日)
慶応2(1866)年に薩摩藩から選ばれて米英両国に留学。留学中の明治5年に外務
省書記官となり、在米日本大使館に勤務するが、その後大蔵省に転じて大蔵卿・松方正義
の下で活躍した。明治13年に大蔵小輔(次官)となり、在任中の明治15年に日本銀行
創立事務委員に任命され、日本銀行設立とともに初代総裁に就任した。
第2代 富田鐵之助(明治21年2月21日〜明治22年9月3日)
幕府の海軍奉行であった勝安房守の推薦により米国に留学、主として経済学を学び、ニ
ューヨーク副領事、在英大使館1等書記官を務めた後帰国し、大蔵大書記官として日本銀
行創立の事務に当たった。
明治15年より副総裁として、初代吉原総裁とともに日本銀行創業期の中心的役割を担
った後、明治21年に総裁に就任した。
さて、初代と第2代の両日銀総裁時代の大蔵大臣は松方正義であった。松方正義は明治
14年10月21日〜明治18年12月22日まで大蔵卿、その後、第
一次伊藤内閣、黒
田内閣、第一次山県内閣、第一次松方内閣と、明治18年12月22日から明治25年8
月8日までずっと大蔵大臣を務めている。その後は飛び飛びで、第2次伊藤内閣の明治2
8年3月17日から同年8月27日まで、第2次松方内閣の明治29年9月18日から明
治31年1月12日まで、第2次山県内閣の明治31年11月8日から明治33年10月
19日まで大蔵大臣を務めた。この松方正義と岩崎弥之助が深い関係にあったことはすで
に述べた。そこで今度は松方家の家系図を描いて、そこから何が読み取れるか調べてみよ
う。系図1をご覧頂きたい。
松方正義の次男の松方正作の養子である義行は、後に森村財閥の森村市左衛門の養子に
なっている。この正作と岩崎一族が一緒に写っている写真がある(写真1)。正作の妻の
繁子は、弥之助の長女である。松方家と岩崎家は一族を成していたのだ。写真に写ってい
る小弥太は、薩摩島津家から島津孝子を嫁に迎えている。仲人は松方正義がつとめた。松
方正義の4男の松方正雄は、ペンシルバニア大学を卒業している。例のベンジャミン・フ
ランクリンのペンシルバニア大学である。その長女の富子は中上川次郎吉の弟の中上川小
六郎に嫁いでいる。次郎吉の父親が中上川彦次郎である。彦次郎は叔父である福沢諭吉の
影響を受け慶応義塾で教鞭を執り、明治7年イギリスに留学、帰国後外務省に入り、退官
後は三井銀行理事になって三井財閥の柱となった人物である。実はこの彦次郎が極悪人な
のである。
「三谷三九郎の家は江戸代々の札差で、幕府出入りの金融業に従事するかたわら、長州
藩の御用達も務めていた。維新後に三九郎は山県有朋や井上馨に取り入り、総督府の御用
係となった。その後陸軍省の御用商人に転じ、山城屋和助と並び、大いに羽振りを利かせ
ていた。ところが1872年、三九郎の手代・伊沢弥七が水油の思わく買いをして失敗し
た。相場が急に下落したのである。弥七は水油を担保に東京商社(三井組と小野組の合弁
)から45万円を借りうけ、その場のやりくりをつけた。しかし翌年2月には東京商社へ
の返済期限が迫り、20万円の融通がどうしてもつかなかった。弥七はとうとう陸軍省の
御用金に手をつけてしまった。手代の使い込みを知り、驚いた三九郎は山県と井上に泣き
ついた。結局、三九郎所有の東京市内の地所53ヵ所を三井組へ抵当に出し、5万円を借
り、10万円は他から都合。合計15万円を陸軍省に戻したうえ、三九郎は破産というこ
とで、始末がつけられた。他方、三井組は貸与した5万円の代償を求め、陸軍省と大蔵省
からおのおの30万円を、10ヵ年無利息の預金名義で下げ渡してもらい、新たに政府御
用達にも採用された。ただし条件がひとつだけあった。三井組は10年の間に運用する6
0万円の利子分だけで、貸与金5万円以上の利益は得られるはず。それゆえ10年後には
、抵当にとった地所を三九郎に返す、というものであった。さて10年がたち、三谷三九
郎は三井組の証文を、保管を頼んだ姉婿の三谷斧三郎から受け取ろうとしたところ、なく
なってしまった!三井組はそれ以前に金に困っていた斧三郎より、問題の証文を安い値段
で買い戻していたのだ。三九郎は昔の決着の場に立ち合った渋沢栄一に仲介を依頼したが
、三井の大番頭・中上川彦次郎は、証文のないものはどうにもならぬとはねつけ、泣き寝
入りするほかはなかった。1900年春になって、『二六新報』がこのネタをつかみ、三
井財閥への攻撃を盛んにやった。三井側は零落した三九郎に1万円の金子(抵当の地所は
時価500万円以上になっていたという)を渡し、二六新報社には輪転機2台と若干の土
地を寄贈、事態を収拾したと伝えられている」(『明治・大正・昭和 事件・犯罪大事典
』東京法経学院出版)
500万円が1万円になってしまったのだから、泣くに泣けない。三九郎が仲介を依頼
した渋沢栄一は三井側の人間である。三菱打倒のために明治15(1882)年10月に
設立された共同運輸会社は、渋沢栄一と益田孝(三井物産会社社長)が設立したものであ
った。三九郎は罠に嵌められた、というのが筆者の見方である。
第3代日銀総裁・川田小一郎、第4代日銀総裁・岩崎弥之助、第5代日銀総裁・山本達
雄はすべて三菱人である。山本は三菱汽船で川田小一郎の知遇を得て日本銀行に転じた。
営業局長として日清戦争中の国債公募を成功させたほか、明治29年にロンドンに派遣さ
れ、日本が金本位制に移行する際の基盤ともなった清国からの賠償金の運用を監督すると
いう重責を担った。ちなみに山本達雄は第2次西園寺内閣の明治44年8月30日から大
正1年12月21日まで、大蔵大臣を務めている。
第6代 松尾臣善(明治36年10月20日〜明治44年6月1日)
松尾臣善が日銀総裁の時の日銀副総裁は、後述の高橋是清であった。松尾臣善は二宮家
と白州家を通じて松方家と繋がっている。
第7代 高橋是清(明治44年6月1日〜大正2年2月20日)
まず、高橋翁の風貌を見て頂こう(写真2)。これは日本銀行のホ−ムペ−ジに載って
いたものだが、なかなか愛嬌があって好感を持てる。他の日銀総裁の写真はどれも偉ぶっ
たものばかりの中にあって、翁は異色な存在である。異色なのは風貌だけではない。経歴
もまた変わっているのだ。
「高橋是清の人生は波瀾万丈でした。米国留学時代は手違いで奴隷に売られてしまいま
した。帰国後は、英語教師をした後、農商務省の官吏となって特許局長にまで昇進しまし
たが、進取の気性に富む彼はその職を辞して南米に渡り、ペル−で銀山開発に取り組みま
した。しかしこれに失敗、無一文で帰国しました。その時に、当時日本銀行総裁(第3代
)であった川田小一郎に声をかけられ、建築中であった日本銀行本館の『建築事務主任』
として採用されました。彼はその手腕を認められ、翌年には九州全域を管下とする『西部
支店』の初代支店長に登用されています。
その後、副総裁時代には日露戦争の戦費調達のための外債募集を成功させ、1911年
(明治44年)に総裁に就任しました。総裁を1年8か月務めた後は政界に身を投じ、大
蔵大臣を6回、総理大臣を1回務めるなどの活躍をしましたが、昭和11年の『2・26
事件』で、陸軍青年将校の凶弾に倒れ、その波乱の生涯を閉じました」(出典:広報誌『
にちぎんクオ−タリ−(1997年春季号)』)
奴隷にされた日銀総裁、これは恐らく高橋是清ただ一人であろう。高橋に目を掛けて引
き上げたのが、かの三菱の川田小一
郎であったことは興味深い。高橋是清は日露戦争の時
、日銀副総裁として13億円の外債募集に成功し、銀行家としての実力を認められ、19
11年(明治44)日本銀行総裁、1913年(大正2)第一次山本権兵衛内閣の蔵相に
就任、同時に政友会に入党した。ついで1918年、原敬内閣の蔵相となり、1921年
、原敬暗殺の後、首相・蔵相を兼任し、政友会総裁となった。
財閥と政治家との結び付きと言えば、三井と政友会、三菱と憲政会・民政党、住友と西
園寺公望の関係などが有名である。しかし前にも述べたように、4代目小弥太の数少ない
友人の高橋是賢の父親が、政友会総裁高橋是清であったのである。このことからも、歴史
の通説といわれているものがいかに当てにならないか、良く分かる。
第8代 三島弥太郎(大正2年2月28日〜大正8年3月7日)
駒場農学校を卒業後渡米し、ボストン大学より農政学の学位を取得した。通算7年半の
海外生活の後帰国し、明治30年、31歳で貴族院議員に当選し、明治35年より予算委
員として活躍。横浜正金銀行取締役、頭取を経て、大正2年、日本銀行総裁に就任。
日銀総裁三島弥太郎は三島通庸の長男に生まれている。この三島通庸が実は極悪人なの
である。1882年2月17日、福島県令に赴任した薩摩出身の三島通庸は、政府より送
り込まれた自由党つぶしの切り札だった。当時福島県は東北地方における自由民権運動の
牙城と呼ばれ、県会も議長の河野広中をはじめとし、自由党員が多数を占めていた。着任
した三島は、「それがしが職に在らし限りは、火付け強盗と自由党とは頭を抬げさせ申さ
ず」と豪語してはばからなかった。前任地の山形で、強引苛酷な道路土木工事を行い、県
民より、鬼県令の異名をとった三島は、福島県でもさっそく、会津地方の大規模な道路開
鑿工事を推進した。工事が始まると、夫役につかぬ農民から代夫賃の名の人頭税を取り立
てるなど、無慈悲な狩り立てが続いたので、しだいに怨嗟の声が上がり始めた。
これがついには、武装した数千人の農民と警官隊との衝突に発展するのだ。三島通庸は
農民を一斉逮捕して、県下全自由党員の捕縛を命じた。三島通庸は栃木県でも同様に、県
民への強制的夫役による大規模な土木工事を始めて、県民の怒りを買っている。
ここには、極悪人鬼県令・三島通庸対するところの、弱い者の味方・自由党といった図
式がはっきりしている。だが実はこの板垣退助の自由民権運動にも胡散臭いところがある
のだ。栃木県令・三島通庸の悪政に端を発した自由党の反乱は、個人テロや爆弾闘争に発
展して、ついには自由党の解党をもたらすことになる。加波山事件である。この自由党の
運動の盛り上がりからその壊滅にいたる過程は、戦後の70年安保闘争にそっくりである
。安保闘争の敗北後は学生も青年もいっそう現実主義的になり、体制にのみこまれていっ
た。安保闘争という反体制運動のおかげで、体制はいっそう強固になったのである。これ
と同じことが自由党の活動についても当てはまらないだろうか。ちなみに、自由党総理・
板垣退助が暴漢に襲われた時にいったと伝えられる、「板垣死すとも自由は死せず」の名
文句は、側近者による創作であったらしい。
三島家のことに話を戻す。筆者が三島家について特に興味を持ったのは、日銀総裁・三
島弥太郎の長男である三島通陽がフリーメーソンであるからだ。これはフリーメーソン側
も認めている事実である。赤間剛氏の『フリーメーソンの秘密』から引用する。
「三島通陽。不明(入会日−筆者注)。旧伯爵、戦後代議士。戦前、戦後ボ−イスカウ
ト運動に活躍、日本ボ−イスカウト連盟総長」とある。ではこの辺でまた家系図の助けを
借りよう。系図2を見て頂きたい。
この三島通陽の妹が第一次西園寺内閣の元大蔵大臣(明治39年1月7日〜明治41年
1月14日)・阪谷芳郎の長男、阪谷希一に嫁いでいるのである。阪谷芳郎の妻は後述の
渋沢栄一の二女ことである。そして三島通陽の叔母は内大臣・牧野伸顕に嫁いでいる。こ
の系図には、吉田茂や麻生財閥の麻生太賀吉も登場する。そして三島家は大久保家を通じ
て、高橋是清とつながっているのである。ここには安田財閥の安田一の姿も見える。三島
家も財閥とは無縁ではないのだ。ちなみに三島通陽の祖父・三島通庸は警視総監(明治1
8年12月22日〜明治21年10月23日)も務めている。
第9代 井上凖之助(大正8年3月13日〜大正12年9月2日)
第11代 井上凖之助(昭和2年5月10日〜昭和3年6月12日)
後に述べるが、この井上凖之助が蔵相の時に、問題の金解禁を断行したのである。井上
凖之助は田中義一政友会内閣の時に、高橋是清蔵相に請われて日銀総裁に就任、「飛車角
揃う」と評された。
第10代 市来乙彦(大正12年9月5日〜昭和2年5月10日)
井上凖之助の名前が登場したところで、日本を地獄の戦争に導くきっかけとなった金解
禁について話を進めよう。話は関東大震災から始まる。
第一次大戦の勃発は、日露戦争後の不況にあえいでいた日本経済に、天佑をもたらした
。日本のアジア各国むけの輸出は急増し、イギリス、ドイツなどの交戦諸国への軍需品そ
の他の輸出も順調に伸びた。日本は輸入国から輸出国に転じ、債務国から債権国になった
。
しかし大戦の終結によって、日本経済の前途に翳りが生じてきた。1920年3月15
日、東京株式取引所の株価暴落をきっかけに、戦後反動恐慌が起こった。平均株価は半値
以下に暴落し、主要商品の価格崩落も大きかった。預金取り付け騒ぎや、七十四銀行の破
綻も起こった。
大戦中にふくれあがった不良企業とそれに結び付いた2、3流銀行の経営は、いちじる
しく悪化していた。このような情勢のなかで、政府・財界には、1917年以来の金輸出
禁止を解き、緊縮財政・財界整理を行って、日本経済の国際競争力を強めるべきだという
意見が高まりつつあった。
そこに降ってわいてすべてをぶち壊してしまったのが、関東大震災であった。1923
年(大正12)9月1日正午2分前、相模湾西北部を震源地とする、マグニチュ−ド7.
9の大地震が、関東地方の南部を襲った。罹災者340万人、死者・行方不明者10万人
以上。家屋の全焼44万7000余戸、全・半壊あわせて24万戸、被害総額45億70
00万円にのぼる大惨事であった。これは、1922年度一般会計予算額の3倍を越える
額である。
関東大震災は日本経済破壊のためにフリーメーソンによって引き起こされた人工地震で
あった。不況に地震が追い打ちをかける。経済は破綻する。このパタ−
ンは1995年に
起きた阪神大震災でも繰り返し使われている。
山本権兵衛内閣の蔵相井上凖之助は、9月7日、被害地の銀行・会社を救済するため、
支払猶予令を出して、債務の支払を一ヵ月猶予する措置をとった。続いて9月27日には
、震災手形割引損失補償令を勅令のかたちで公布した。これは、震災前に銀行が割引いた
手形のうち、震災のために決済できなくなったものは、日本銀行が再割引して銀行の損失
を救い、それによって日銀に損失が生じた場合には、1億円を限度として政府が補償する
ことを定めたものである。これを震災手形と呼んだ。
政府の予想を上回って、日銀で再割引された震災手形は巨額に達した。震災手形のなか
には、震災前からの不良貸付・放漫経営による不良手形が含まれており、それらが、震災
手形の名のもとに再割引されてしまったからである。1926年末には、なお2億700
万円の震災手形が残っていた。
これらの震災手形を所有していた銀行は約50行あったが、そのなかでも台湾銀行は最
高の1億円にのぼる震災手形を抱えていた。これに対し、震災手形の大口債務者、手形を
振出していた企業は、1924年末現在、鈴木商店関係が筆頭で、その金額は約7190
万円。第一次大戦中の好況期に、鈴木商店の大番頭・金子直吉は積極的に事業を拡大し、
台銀もそれに応じて融資を拡大した。ところが、戦後恐慌・関東大震災を契機に、鈴木商
店はその放漫経営がたたって、しだいに経営を悪化させていく。しかし金子直吉は、鈴木
が潰れたら日本財界が潰れる、だから政府も決して鈴木を潰さないであろうと豪語し、台
湾銀行からの借金を重ねていた。
台湾銀行は台湾銀行で、鈴木商店への貸付を打ち切ろうにも打ち切れない。すでに巨額
の貸金が累積しており、取引停止を行えば、大損害にもなるし、台湾銀行の存立そのもの
が危うくなる。それでまた貸すという悪循環が続く。
1926年(昭和元)12月26日、震災手形整理法案を審議する第52帝国議会が開
かれた。大正天皇崩御の翌日である。与党は憲政会、野党は政友会・政友本党。政友本党
総裁の床次竹二郎は、朴烈事件と松島遊廓事件で若槻内閣に揺さぶりをかけた。
朴烈事件とは、1923年9月3日、在日朝鮮人無政府主義者の朴烈とその妻金子文子
が、天皇暗殺のための爆弾を入手しようとしていたことを理由に逮捕された事件である。
二人は死刑を宣告されたが、4月、二人は「御大典」の恩赦で無期懲役に減刑された。1
926年7月29日、東京市内の各所に怪文書が配布された。文書には、1枚の怪写真が
付されていた。写真は、椅子へ腰掛けた朴烈の膝の上に金子文子がもたれかかって坐り、
本を読んでいる様が写っているものだった。そして怪文書の内容は、大逆の罪を犯せし両
名に、かかる不謹慎なる優遇を与えた司法当局の非を激しく弾劾したものであった。
この怪文書配布の一件は、6日前の7月23日、宇都宮刑務所栃木支所で首吊り自殺し
た金子文子の訃報と同時に報じられたこともあって、世上をおおいに騒がせることとなっ
た。野党・政友会は内閣打倒の絶好の攻撃材料として怪写真事件を政争の道具としたこと
から、大問題へと発展した。
これは余談だが、朴烈は戦後、在日本朝鮮居留民団(民団)の団長となっている。松島
遊廓事件とは、遊廓移転に絡んだ贈賄事件である。
若槻内閣の蔵相、片岡直温(日本生命保険会社の社長、実業界の出身)は、3つの重要
法案を第52議会に提出した。・銀行法案・震災手形損失補償公債法案・震災手形善後処
理法案である。頂点に達した政友会の政府攻撃のなかで、飛び出してしまったのが有名な
片岡失言であった。片岡蔵相の問題発言は、以下の通りである。
「苟も大蔵大臣の地位に有る者が、財界に於て破綻を惹起した時には、是は整理救済す
ることに努めなければならぬことは当り前である、唯此時に於て、一つ引受者を見出して
来るにあらざれば、救済のしようがない。・・現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻
を致しました、是も洵に遺憾千万に存じますが、是等に対しまして、預金は約三千七百万
円ばかりでございますから、是等に対して何とか救済をしなければならぬと存じますが、
偖て救済をしようとすれば、其財産を整理した所のものを引受けると云う者を見出さなけ
れば、是は整理は付きませぬ」(『帝国議会議事速記録』)
この片岡失言によって、銀行の取付け騒ぎが起こり、金融恐慌の口火が切られたのであ
る。ところが実はこの時まだ渡辺銀行は支払いを停止してなかったのである。日銀への支
払いに窮した東京渡辺銀行の重役渡辺六郎は、金策に奔走し、第百銀行京橋支店長の久保
田吉律のところに泣きついて、なんとか午後1時までに手形交換尻決済資金を払い込むこ
とができたのである。何故こんな手違いが生じてしまったのかはここでは述べないが、筆
者はこの片岡失言は本当に失言だったのかどうか疑問に思っている。つまりこれは失言で
はなく、意図的に発言されたものだったのではないか。その目的は勿論、金融恐慌を引き
起こすためである。日本の大蔵大臣が何故わざわざ恐慌を引き起こすことをするのか、そ
の答えは本書を読み進めるうちに分かってくるだろう。
1927年(昭和2)3月中旬から始まった金融恐慌は、全国各地ヘ拡大した。このよ
うな情勢のなかで、震災手形二法案は、若槻内閣が押し切った。この震災手形二法案の通
過と、3月21日からの日銀の非常貸出しとによって、金融恐慌はどうにか下火になった
。
ところがこんどは台湾銀行が鈴木商店に対し、新規貸出しを打ち切ってしまったのだ。
鈴木商店はもとより台銀も危ない。市中銀行は、三井銀行をはじめとして、台湾銀行に放
出していた短期貸出金(コ−ル=ロ−ン)の回収を急いだ。1926年末現在で、台湾銀
行の借入金約1億8100万円、短期借入金約5300万円、再割引手形2億2900万
円、この三口合計で約4億6300万円の多額に達する。その他の借受金等を合計すると
、借入金とみなされるものは、じつに4億7000万円の巨額に達していたことになる。
これは預金の5倍以上、自己資本の10倍をこえる額であった。三井銀行がコ−ルの回収
をおこなうと、他の銀行もぞくぞくと台銀にコ−ル回収、再割引手形の買い戻しを迫って
いった。
時の三井銀行の頭取は池田成彬である。池田が3000万円のコ−ルを引き上げたから
、台湾銀行が行き詰まったともいえる。池田は後に第14代日銀総裁になっている。池田
は三井財閥を代表する銀行家だが、池田の娘が何と三菱の岩崎家に嫁いでいるのだ。後に<
br>詳しい家系図を示す。
市中銀行によるコ−ルの回収は、台湾銀行を絶対絶命の窮地に追い込んだ。4月5日、
鈴木商店は内外の新規取引をいっさい中止する発表をおこなった。4月8日、鈴木系の銀
行である神戸の六十五銀行が、預金取り付けにあって休業に陥った。4月13日、臨時閣
議が首相官邸で開かれた。審議は翌4月14日の零時20分まで続けられた。その結果、
次の緊急勅令案が最終案としてきまった。
第一条 日本銀行は昭和3年5月末日まで台湾銀行に対し無担保の特別融通をなすこと
を得
第二条 政府は第一条の規定に従ひ日本銀行が台湾銀行に融通をなしたるため損失を生
じたる場合においては二億円を限度として補償をなすことを得
その日、若槻首相は赤坂離宮において天皇に伺候、緊急勅令案を上奏して裁可を得た。
枢密院もただちに精査委員を決定し、午後3時から審議が開始された。精査委員は、委員
長平沼騏一郎、委員伊藤巳代治ほか7名であった。平沼は司法界の大御所として、枢密院
内に隠然たる勢力を持っていた。また、右翼団体を創立したりして、軍部との結びつきも
強かった。伊東は、中国外交における強硬論者としても知られており、若槻内閣の幣原外
交を、つねづね軟弱外交として非難攻撃していた。ちなみにこの伊東巳代治は、東京日日
新聞(東京で最初の日刊紙、毎日新聞の前身)第3代社長(明治24〜明治37)を務め
ている。
4月17日の枢密院会議で緊急勅令案は否決された。若槻憲政会内閣は総辞職した。翌
18日、台湾銀行がついに内地および海外支店をいっせいに閉めるとの声明を出した。他
の銀行も次々に休業に追い込まれた。
若槻憲政会内閣が総辞職した後、1927年(昭和2)4月19日、田中義一政友会総
裁に、組閣の大命が下った。田中は高橋是清に蔵相就任を依頼する。高橋は1925年、
政友会総裁を田中義一に譲り、政界から引退していた。
高橋蔵相がまず指令したことは、日銀の非常貸出しであった。4月21日、午前10時
から夜まで閣議が続けられ、二つの応急処置をとることで合意をみた。・緊急勅令をもっ
て3週間の支払猶予令、すなわち、モラトリアムを全国に布くこと、・臨時議会を召集し
て、台湾金融機関の救済および財政安定に関する法案の審議をもとめること、の二つであ
る。
ところが、モラトリアムの緊急勅令発布の手続きを踏むには、どんなに急いでも21日
いっぱいはかかる。発令は23日になるとみなければならない。そこで高橋蔵相はこの二
日間の応急措置を講じなければ危険と考え、三井銀行の池田成彬と三菱銀行の串田万蔵の
二人をまねき、民間銀行は22、23日の両日、自発的に休業してもらいたいと頼んだ。
池田と串田は、21日午前11時半より、急遽、東京銀行集会所と東京手形交換所の連合
理事会を開き、2日間の全国一斉休業を決定、大阪その他各地の銀行集会所にも伝え、協
力を仰いだ。
いっぽう政府は、支払猶予令の緊急勅令案を上奏、ただちに裁可を得て、枢密院の審議
に委ねた。ここで不思議なことが起こる。枢密院は若槻憲政会内閣の時には拒否した緊急
勅令案を、こんどはあっさりと可決したのである。高橋の根回しのお蔭であるとか、平沼
・伊東たちは、若槻・幣原らの軟弱外交が気にくわず、前の緊急勅令案を否決したのだ、
とか言われている。しかし恐らく真相はそうではあるまい。平沼・伊東は台銀救済案を否
決して、二、三流銀行が次々に潰れるまで待ったのである。枢密院もぐるだったのだ。
こうして5月12日までのモラトリアムが実施された。全国の民間銀行も、22、23
の両日、一斉休業に入った。24日が日曜日なので、結局、3日間にわたって日本中の銀
行が休業したことになる。これは世界の金融史にも希有なことであった。
3日間の休業によって、預金者の不安気分は薄らいだ。25日は平穏に過ぎた。むしろ
、21日に預金を引き出した預金者が、それを一流銀行に持ち込む光景が市内各所で見ら
れた。金融恐慌の結果、都市五大銀行が預金を集中して金融界に覇権を確立したのだ。こ
のことが、政府が金融恐慌を起こした真の理由だったのである。憲政会も政友会も枢密院
も巨大財閥によって動かされていたのだ。
事態を無事に収拾した高橋は、これで自分の役目は終わったと判断し、約束どおり、6
月2日に蔵相を辞めている。わずか42日間の大蔵大臣であった。
高橋の後は、政友会のもう一人の財政通、三土忠造が文相より蔵相に就任した。なお、
高橋は、蔵相就任中の5月20日、日銀総裁の市木乙彦を更迭し、井上凖之助を新総裁に
再任命した。
三土蔵相は、井上日銀総裁と協議の上、休業銀行の経営を整理し、そのいくつかを合併
して新銀行をつくることにした。そのうちの一つが、1927年(昭和2)10月に設立
された昭和銀行である。さらに政府は、これを機会に、弱小銀行・不良銀行の整理に乗り
出した。第52議会で成立した銀行法をテコにして、銀行合同を強力に押し進めた。これ
は、銀行経営の健全化をはかるため、銀行にたいする政府の指導・監督を強めるとともに
、普通銀行の最低資本金を100万円とし、東京・大阪に本支店を有するものは200万
円とするというように、小銀行の存在を許さない強い規定を含んでいた。資力のない弱小
銀行は、いきおい合同に走ることになった。こうして、1928年中に合同に参加した銀
行は349行、合同によって消滅した銀行は223行に及んだ。28年から32年末まで
の累計では、合同に参加した銀行864、合同による消滅銀行は534行に達している。
凄まじい銀行整理が進んだ。
群小銀行の合併劇の対極に生じた現象は、大銀行への資本や預金の集中である。五大銀
行(三井・三菱・住友・安田・第一)への預金の集中率は、1926年の23.7パ−セ
ントから28年には32.9パ−セント、31年には38.3パ−セントまで増加してい
る。こうして、財閥系銀行は、金融界での覇権を確立したのだ。
片岡失言と台湾銀行休業に端を発したこの恐慌は、財閥とその手先である政治家が結託
して引き起こしたものであった。その目的は、財閥による金融界の支配の確立にある。不
況期には財閥系銀行の収益も悪化することは事実である。しかし恐慌によって弱小銀行が
潰れてくれれば、相対的に大銀行の支配力は強化される。だから財界は不況を歓迎しない
というのは、偏った見方なのである。好景気の時にはインフレによって儲け、不況期には
巨大な資金力を背景に金融支配を強める。いずれの時にも財閥は得をするのである。だが
何故彼らは好況、不況
の波を意図的に作り出さねばならないのだろうか。市場を独占した
まま、安定した支配を続けて行けば良いのではないか、と考える人も多いだろう。だが不
況期に財閥が吸収するものは、他人の汗の結晶である。顧客や店舗や人材やノウハウと言
った、他人が営々と築き上げてきたものをそっくり頂けるのである。正に濡れ手に粟とい
えよう。好景気の時に築き上げられた他人の財産を、不景気の時にごっそりと頂く。ブロ
イラ−(食肉用の若いニワトリ)が餌をたっぷりと与えられてまるまると太ったところを
、絞め殺されて貪り食われるようなものである。したがって、好景気という滋養を与えて
中小産業を育成することも、財閥にとってはまた必要な過程なのである。これはバブルの
発生といいかえることも出来よう。これが現代にもそっくりそのまま当てはまることは、
改めて指摘するまでもないだろう。
1929年(昭和4)7月2日、張作霖爆殺事件の責任をとって、田中内閣が総辞職し
た。田中政友会内閣が倒壊した後、野党第一党民政党の浜口雄幸に組閣の大命が下った。
2年前の6月1日、憲政会は政友本党と合同し、立憲民政党を結成、総裁には浜口が就任
していた。浜口内閣の主要閣僚は、外務大臣幣原喜重郎・内務大臣安達謙蔵・大蔵大臣井
上凖之助・陸軍大臣宇垣一成・海軍大臣財部たけし・鉄道大臣江木翼であった。この浜口
内閣の政策の二大両輪が、軍縮と金解禁であった。まず、軍縮から見ていくことにしよう
。
1930年1月21日、ロンドン海軍軍縮会議が日・米・英・仏・伊の参加のもとに開
催された。日本首席全権の元首相若槻礼次郎の他、財部たけし海相、松平恒雄駐英大使(
イギリスのフリーメーソン)、永井松三駐ベルギ−大使が日本全権団に任命された。
ロンドン会議に臨むにあたって、若槻ら日本全権団が政府から受け取った訓令は3つで
ある。・補助艦全体の対米比率を7割とする、・大型巡洋艦についても同じく対米7割、
・潜水艦については7万8000トンの現有量を保持する、である。
交渉は難航したが、日本側は、補助艦総括で対米6割9分7厘5毛、大型巡洋艦は6割
とするが、アメリカ側は、3隻の起工を遅らせて1936年までの条約期間中は7割とす
る、潜水艦は5万2700トンで均等、という日米妥協案が成立した。4月22日、ロン
ドン海軍軍縮条約が調印された。ところがこのロンドン条約が統帥権干犯のおそれがある
として、海軍、政友会、右翼団体、枢密院の反対にあうのだ。条約は英米への屈服であり
、日本の国防を危うくするというのである。
当時の枢密院では、いぜんとして平沼騏一郎副議長、伊藤巳代治顧問官らが実権を握っ
ていた。幣原外交に反感を持つ平沼は、軍との結びつきも強く、ロンドン条約反対の立場
を鮮明にしていた。伊東も、「巳代治の目の黒い間はこの条約の文句のままにては、断じ
て枢府を通過させません」と、息巻いていた。帝国憲法では、緊急勅令と同様に、いっさ
いの条約は、枢密院の審査を経て天皇が批准する仕組みになっているのである。
ところがこの審査委員長・伊藤巳代治が最終審査委員会でころっと態度を豹変させて、
条約は無条件で「御批准然るべき旨」を表明し、全員一致の可決となったのだ!方針転換
の理由は、天皇への配慮、票決での敗北の見通し、浜口首相らの不退転の決意、軍縮を歓
迎する世論、自己保身と様々にいわれている。しかし筆者は、これまた新たなやらせ芝居
ではなかったかと思っている。伊藤巳代治はロンドン条約に反対する気などさらさらなか
ったのである。枢密院での強硬姿勢は国民を欺く単なるポ−ズであった。
枢密院での否決を予想し、政変を当てにした政友会こそいい面の皮であった。時の政友
会総裁犬養毅、総務鳩山一郎(フリーメーソン)である。
「鳩山一郎。1951年3月29日入会。No.2(ロッジ番号)、元首相、昭和29
年、青年運動の『友愛同志会』(現薫子夫人会長。ク−デンホ−フ・カ−レルギ−伯が名
誉会長)を結成。『友愛同志会はフリーメーソンの精神を基礎にしている』が鳩山氏の口
グセだったという。ちなみに、“パン・ヨ−ロッパ主義者”でEC創設者の一人、カ−レ
ルギ−伯はオ−ストリアのメ−ソンといわれている」(『フリーメーソンの秘密』より)
1930年(昭和5)6月18日、大任をはたして半年ぶりに帰国した若槻全権が東京
駅頭に立った時、十数万の群衆が熱狂的歓声をもって出迎えた。新聞も世論も軍縮賛成で
あったのだ。ではこの統帥権干犯の大騒ぎという猿芝居の意味はいったい何だったのか。
ここには、善玉=軍縮・民政党(憲政会)・新聞・世論、悪玉=軍部・政友会・枢密院、
という図式がはっきりと見える。政友会も枢密院も悪役を演じていたに過ぎないのだ。善
を引き立たせるには、悪の存在もまた必要なのである。では何故、軍縮=善といえるのか
というと、日本が戦争に負けたからである。浜口内閣の外相・幣原喜重郎など、戦後、首
相になっている。ちなみに、この幣原喜重郎はフリーメーソンである可能性が高い。フリ
ーメーソン・松平恒雄と一緒に、1950年4月、マスタ−メ−ソンの最高階級のミ−テ
ィングに出席しているからだ。そして幣原喜重郎と松平恒雄は徳川家を通じて姻戚関係に
ある。幣原喜重郎は三菱初代総帥・岩崎弥太郎の娘と結婚している。幣原は大正13年、
加藤高明(憲政会総裁)内閣の外務大臣を務めているが、加藤高明もまた弥太郎の娘と結
婚しているのだ。つまり二人は義兄弟ということになる。ちなみに加藤高明は、東京日日
新聞第4代社長(1904〜1906年)を務めている。幣原はロンドンで駐英公使の林
薫からフリーメーソンの話を聞き引きつけられた、と語っている。林公使は明治35年の
日英同盟の功により子爵に、明治39年の日露戦争の功により伯爵に叙せられているが、
イギリスでフリーメーソンに入社しているのだ。林公使は当時日銀副総裁であった高橋是
清がロンドンで日露戦争の戦費調達の外債を募集した時に、便宜をはかっている。この林
薫がまた、岩崎家と姻戚関係を結んでいるのだ。では、以上の関係を家系図に描いてみよ
う。
系図3を見て頂きたい。フリーメーソン・林薫の孫である林忠雄は、岩崎小弥太(第4
代三菱総帥)の娘と結婚している。また、林薫の娘は福沢諭吉の福沢家を通じて、岩崎家
と姻戚関係にある。
次に系図4を見て頂きたい。幣原喜重郎の二男が野村銀行・野村証券の野村元五郎の長
女と結婚している。幣原喜重郎はまた、西郷家と徳川家と佐竹家を通じて鍋島家と姻戚関
係にあるが、鍋島家は松平恒雄と三島通陽と姻戚関係にある。松平恒
雄と三島通陽がフリ
ーメーソンであることは、すでに述べた。ちなみに、松平恒雄の長女は秩父宮妃になって
いる。そして幣原喜重郎と鍋島家を結ぶ佐竹家は、島津忠彦を通じて岩崎家とつながって
いるのだ。幣原喜重郎が岩崎弥太郎の娘と結婚していることは、先に述べた。
しかしそれにしても、この系図はいったい何を示しているというのだろうか。簡単であ
る。ロンドン条約実現を強く望んでいた内大臣牧野伸顕(系図2)、外務大臣幣原喜重郎
、駐英大使松平恒雄が一族を形成していたのだ。そしてその一族の中心には、三菱財閥の
岩崎家があったのである。この陰謀の輪に、ロンドン海軍軍縮会議に随員として加わった
樺山愛輔を加えたい。樺山愛輔の父・樺山資記は海軍大臣などを務めているが、第3代警
視総監(明治13年10月23日〜明治16年12月23日)も務めた。樺山愛輔の二女
正子は、白州次郎に嫁いでいる。正子の姉の泰子は、元日本郵船社長近藤廉平の息子近藤
廉治に嫁いだ。近藤廉平の妻は、三菱銀行初代頭取を務め、岩崎家と縁続きになる豊川良
平の妹である。正子の妹宣子は、松方家に嫁いでいる。第5代警視総監(明治18年12
月22日から明治21年10月23日)が三島通陽の祖父・三島通庸である。島津家から
は島津忠重が随員に加わっている。
では、ロンドン条約実現に結集したこの一族は何を望んでいたというのだろうか。平和
の実現であろうか。そうではあるまい。ロンドン海軍軍縮条約による軍縮実施という不況
要因と、浜口内閣の大蔵大臣井上凖之助が実施した金解禁は、日本経済を昭和恐慌へと突
き落としたからである。
だが、浜口・幣原が調印したロンドン海軍軍縮条約は軍部、右翼の怒りを買った。19
31年11月14日、浜口首相は陸軍大演習を陪観するため岡山へ向かうところを、東京
駅で狙撃された。犯人は右翼団体・愛国社の佐郷屋留雄。浜口首相が狙撃されたのと同じ
ホ−ムには、その日たまたま新任の駐ソ大使広田弘毅を見送りに来ていた幣原喜重郎がい
た。弾丸は急所を逸れ、浜口は命だけはとりとめた。翌15日、民政党は臨時閣議を開き
、臨時首相代理を設置し、これに幣原喜重郎をあてた。
浜口首相の暗殺計画は、1930年春から、愛国社盟主岩田愛之助を中心に進められて
いたという。浜口内閣は金解禁の時機を誤って、日本経済を深刻な不景気に投げ込んだ。
そのため、失業者・倒産者・犯罪者が続出し、彼らは浜口内閣に対する不満を強めていた
のだ。
浜口首相狙撃事件は、1930年代を彩るテロ、ク−デタ−の先駆けとなった。翌31
年(昭和6)3月(3月事件)と10月(10月事件)に、桜会将校によるク−デタ−未
遂事件発生。32年、血盟団事件、5・15事件、36年、2・26事件と続く。日本は
いよいよ狂気の時代へ突入していくことになるのだ。