天に光、地に妖精(別冊歴史読本特別増刊58『オカルトがなぜ悪い!』)

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投稿者 SP' 日時 2001 年 3 月 22 日 08:24:41:

──UFO体験をめぐって

稲生平太郎【作家・幻想文学研究家】

誰も否定できないこと。
それはUFO体験者がいるという事実。
ここから紡ぎ出される物語は、人間存在の本質を逆照射し、現実とは何かを問いかける!


人間の存在にかかわる鍵がある

 UFOがオカルトだというとなかには怒るひともいるのは知っている。
 でもさ、少なくとも世間がUFOをオカルト扱いしているのは間違いないだろう。本屋に行けばオカルトの棚にUFO書が並んでいるし、テレビの世界では、UFOは心霊と並んで二大オカルトを構成しているんだから。ここでは、まあとりあえず世間に従っておきたい。
 さて、オカルトたるUFOのどこが悪いかというと、まず頭脳に悪い、精神によくないと思う。
 精神によくない以上、きっとからだにも悪影響がでるだろう。両方やられた結果として、残念ながら人生を誤ることも多いと思う。
 それではどうして精神によくないか?
 UFOあるいは空飛ぶ円盤の世界は本質的に錯乱しているからである。それは不条理が支配し、昼の世界の論理の届かない領域──理性とか常識なんかは通用しない場なんだ。話せば分かる──なんて近寄ったら、えらい目にあう。こんな世界に深入りしてしまったら、よほど強靱な精神の持ち主でもないかぎり、まともな状態で戻ってこれないのも無理はない。
 このようにUFOというのは非常に危険である──あらゆるオカルトが本質的にそうであるように。
 危険で悪いなら放っておけばいいじゃないかというと、これがそうもいかない。UFOというのは、危ないのと同時に、そして、まさにそれがゆえに、僕たち人間という存在の根源、あるいは世界というものの本質を考えるうえできわめて重要な鍵を握っている──僕はそう信じているからだ。

UFO体験の存在を出発点に

 UFOをめぐる議論でうんざりしてしまうのは、いまだに多くの人々が、あるか、ないかでやっているところだ。正直な話、これはもういい加減にしてほしいな。
 といって、UFOは実在するんだから、そんな議論で時間を無駄にするなと、唱えているわけじゃない。議論のそもそものたてかた、出発点が間違っていると僕はいいたいわけ。
 本当のところ「ある」とか、「実在」とかいう言葉の孕む曖昧さの再検討を僕たちは迫られているともいえるのだが、これはかなり小難しくなるから、ここではおいといて、まず重要なのは、UFOとUFO体験とをごっちゃにしないこと、両者を峻別するということ。
 つまり、こういうことだ。
 一九四七年のケネス・アーノルドの空飛ぶ円盤目撃事件以降に限ってみても、世界中で夥しい数の人々がUFO、空を舞う正体不明の「何か」を目撃したと主張している。こういった人々の体験を、真剣な円盤研究のパイオニア、アレン・ハイネックにならってUFO体験と呼んでおこう。UFOや円盤なるもの自体の存在については肯定でも否定でも勝手にしていただいたらよいが、でも、UFO体験が存在することだけは、よほど強硬な改訂論者でもないかぎり、絶対に否定できないはずだ。
 そして、すべての論議はここから始まるべきなのだ──UFO体験はたしかにある、存在するというところから。
 存在したっていいじゃない──こう呟いて立ち去るひとはそれで結構、いやあ、もう少し深く考えてもらうと有り難いんだけどと言いつつ、僕も引き下がるのに吝かではありません。
 一方で、そんなもん、錯覚、迷信、妄想やから無意味や、非科学的、反科学的、非教育的やというひともでてくる。
 こういう連中には、僕は少し違った感情を覚える。なぜなら、彼らの多くは説明したつもりでいるからだ。自分では分かっているつもりなんだよね。しかし、それのどこが説明なのか。なぜ、かくも膨大な数の人間が空に何かを見るという奇妙な錯覚、妄想に襲われなければならないのか、その点まで解明できなきゃ、それこそ無意味じゃないか。そして、こんなにも大規模なかたちで錯覚、妄想が起こっているとしたら、僕たち人間という生物の意識や認識メカニズムにひょっとして関連しているんじゃないか──こういう疑問が起こっても当然というものだろう。少なくとも罰は当たらんだろうが。そこまでいかなくたって、世の中訳の分からないこともあるんだなくらいは思えよな。
 営々として保存記録されてきたUFO体験を、虚心坦懐に眺めてみてください。事態はかなり異様なものなんだよ。だって、時間的にも地理的にも広汎にわたって、人々は円盤を目撃したと口走るのをやめないでいるんだぜ。逆説的になるが、あまりにも大規模で持続的なために、僕たちはかえって慣れっこになっちゃって、その異様さを見失ってはいまいか。そして、一方では、マスメディアの扱いによってUFO体験のいかがわしさは増幅され、他方、UFO「研究」はこれまでのところ確たる成果を上げないままに、混沌へと崩れおちていく。しかし、それでも、UFO体験は僕たちを襲うのをやめやしない。
 UFO体験の存在が疑えないとしても、実際のところ、それはきわめて多様な側面、要素を備えているので、ひとことでUFO体験と呼んでよいものかためらいすら覚える。もちろん、これらは互いに密接に関連してもいるわけなんだけれど、とりあえずは切り離して考えないと、議論はまたもや混乱してくる。ここでは、UFO体験を構成する基本的で重要な要素のうち、ふたつを取り上げてみよう。
 ただ、その前にひとこと──「地球外起源説(ETH)」、すなわち、UFO即宇宙人の乗り物という考えは頭から追い払っていただきたい。これは長年流布してきたから、その汚染から逃れるのはかなり困難かもしれない。でも、それをやっておかないと、UFO体験の本質には迫れない。ETHは絶対誤りだと断言するほど僕も強心臓ではないけれど、しかし、それはあくまでひとつの仮説にすぎない。UFO体験と直接向き合おうとするとき、ひとつの仮説だけに囚われていては邪魔になるばかりだ。ともかく、UFOを操ってるのは宇宙人、だから皆の衆、大変だ、あるいはそんな馬鹿なことがあるか、と喧嘩してると、またもや肝腎のUFO体験はどっかにいってしまうだろう。

空に何かが見えた

 さて、まず、ひとつめだが、これは空に何かが見えるというもの。当たり前すぎて拍子抜けするかもしれないけれど、まあ聞いてください。しつこいようだけど、円盤じゃなくて、あくまで「何か 」だよ。
 UFO体験において、これが数の上では圧倒的多数を占める。もちろん、自然現象などの誤認、錯覚が高率で入り込んでくるし、悪戯、売名目的の人間もまぎれこむのは仕方がない。でも、それらを排除していっても、やはり空に正体不明の何かが見えた、見えてしまったという人々の数はかなりにのぼるだろう。
 そんな変なものを見てしまう彼ら、彼女らは、果たして、円盤肯定論者の唱えるように「普通」の「健全」で「常識」ある「市民」なのか。それとも、一部の否定論者の批判するように、精神が「不安定」で「不自由」な「病人」なのか? こんな問いも、しかし、あんまり意味がない。
 アーノルドの目撃事件以降に形成された空飛ぶ円盤という概念あるいは準拠枠をとっぱらってみよう。そうしてみると、一九四七年に突如として空に何かが見えはじめたわけじゃないってことが明らかになる。
 一九四六年にはスウェーデンで「幽霊ロケット」目撃事件、第二次世界大戦中には各地で「幽霊戦闘機」目撃事件、一九一〇年前後には英国で「謎の飛行船」目撃事件、一八九六年から九七年にかけては米国北西部でもやはり「謎の飛行船」事件と、いくらでも出てくるのである。これはどんどん過去に遡行していくことが可能だ。
 本邦でいうと、江戸期の随筆類を繰っていけば、かなりの頻度で正体不明の何か──当時の呼び方で「光り物」──が天空を跋扈していたのが分かるだろうし、えいやっと一気に時代と国を跳びこえれば、新約聖書マタイ傳に登場する「星」にまでいきつくだろう。ただ、空に舞う何かを見た昔の人々はそれをもっぱら超自然的な徴と解釈した。重大な事件、災厄の到来を知らせる神のお告げと考えたわけ。
 一七世紀英国のとある木版画では、これら「天空の徴」は怪物、剣、馬車などさまざまに解釈されて描かれている。このうち、馬車というのは過渡期的な形態として興味深い。なぜなら、一九世紀以降、空を飛ぶ何かは超自然的存在から機械へと完全に姿を変えてしまう──つまり、飛行船、飛行機、ロケット、宇宙船といった「乗り物」だと認識されるようになるからだ。これらの認識がその時代時代のテクノロジーと対応しているのはいうまでもなく、馬車という解釈は、こういった乗り物の系譜の初期に属するものとなろう。
 こういった認識の変遷は、もちろん、近代における超自然への信仰の衰退と科学技術の進歩を反映しているわけだが、ここで、はい、さよですかと妙に腑に落ちて戴いても困る。
 真に重要なのは、認識、解釈が変化したのはともかく、人間は大昔から現在にいたるまで空に何かを見続けてきたことだ。UFO体験は今世紀半ばにおいて発生したものではさらさらなく、おそらく僕たち人間という生き物と共に最初からあるのだ。
 UFO目撃体験の多くが、光体、光をめぐるものであるのは示唆的であろう。なぜなら、古今東西の宗教家やシャーマンなどの神秘体験を調べてみればすぐに分かるように、そこでは「光」を見るということが大きな役割を果たしている。光の体験が超越的世界へ通じるチャネルとして機能している。一方、目撃体験者もまた、空を飛ぶ光を見たことによって、日常世界の崩壊、変容を意識するのだ。そして、光の彼方に口を開いているのは、理解不能の世界に他ならない……。

搭乗員との遭遇

 空をおとなしく飛んでいるうちはまだいい。
 しかし、これが地面に降りてくる。
 降りてくるだけじゃなくて、中から……。
 そう、訳の分からんもんが出てくるのである。しかも、時にはこれだけじゃあ気が済まなくて、話かけてきたり、揚げ句の果てには誘拐を企んだりするのである。
 いわゆる「搭乗員」の目撃、遭遇は、たんなるUFOの目撃に較べると、量的には圧倒的に少ないけれど、しかし、多様で複雑怪奇な様相を呈するUFO体験のうちでも避けては通れないものだ。
 これはまた同時にETHによってとりわけはなはだしく汚染されている領域でもある。「円盤」から「高等生物」が出てきたら、それはやっぱり宇宙人というほかなく、「搭乗員」などとニュートラルな言葉で呼ぶのは少々意固地ではないかしらんと思うひともいるかもしれない。
 いっぽうでは、「搭乗員」と喋った、それも「テレパシー」で喋ったなどという報告例を耳にするだけで、顔をしかめるひともいる。これは否定論者だけに限らない。UFOを客観的、科学的に研究すると標榜する人々の一部も、そんなのは嘘にきまってる、そんな「非科学的」な話はまっとうな研究の妨害だと怒り出すのである。そして、実際、困ったことに、無茶苦茶かつ支離滅裂な嘘八百を並べたてる「搭乗員」で報告ファイルは溢れかえっているんだ。
 しかし、円盤を製造、操作するほどの宇宙人がそんな阿呆なことをいうわけない、ゆえに嘘であるといきまいたりしてはいけない。馬脚をあらわすとはまさにこれになるだろう。だって、勝手にETHを前提にするのはルール違反でしょう。
 当たり前のことだが、UFO体験そのものに科学的、非科学的の区別などありゃしない。
 いかに荒唐無稽に聞こえようとも、それはともかく厳然として存在する。あまりの馬鹿馬鹿しさに軽蔑、困惑、嫌悪はたまた憤怒といった感情が湧き上がるのは理解できるが、それだけじゃ何にもならない。さきほどと同じく、ここでも僕たちに必要なのは、体験と向かい合い、それを狭い限定されたコンテクストから解き放ってみることなんだ。
 搭乗員体験のうち、ここではもっとも劇的なもの、近年アメリカを中心に猖獗を極める誘拐事例を例にとってみよう。
 誘拐事例の報告は一九五七年にまで遡れるが、UFOコミュニティで一躍脚光を浴びるようになったのは、ヒル夫妻の事例(一九六一)が一九六六年に公表されてからのことである。以降、報告例は増加、浮上する一方で、今やアメリカのUFO界ではUFO現象の中心、宇宙人と円盤実在を示す最後の切り札となった感すらある。
 さて、誘拐事例の典型的パターンは、次のように要約できるだろう。被害者は円盤を目撃──目撃記憶には奇妙な空白があり、場合によっては後に原因不明の不安、恐怖に苛まれる。ある期間を経たのち、被害者は退行催眠によって「記憶」を回復、空白の時間に自分が搭乗員によって円盤内部に拉致され、身体的検査を受けたことを知る。なお、搭乗員は小人が多く、身体検査は子宮、ペニスなど性的器官に及び、精液、卵子の採集はおろか、ときに搭乗員によるレイプ(?)にまで至る。
 まあ、あんまりつきあいたくない不気味な世界だよね。
 嘘と叫びたくもなるのは、僕とて同じである。バド・ホプキンズやデイヴィッド・M・ジェイコブズといった米国ETH系UFO研究者は、もちろん、宇宙人が人間を誘拐して、地球人と宇宙人の混血を作っているんだと主張しているわけだけど、これはこの際忘れましょう。
 まず、注目すべきは搭乗員が小人である点。現在までに蓄積された搭 乗員目撃例でも小人はかなりの率を占めているんだが、誘拐事例の場合、これは異常なまでの高率になっている。

人間を誘拐する妖精たち

 ここで妖精に登場してもらう必要がある。
 妖精とUFOの結びつきは唐突に聞こえるかもしれない。でも、妖精伝承と搭乗員体験との類似については、秀れたUFO研究者ジャック・ヴァレがすでに二〇年以上前に指摘しているところなんだ。本稿ではとても詳細に触れる余裕はないが〔拙著『何かが空を飛んでいる』(新人物往来社)を参照していただければ有り難い〕、小人型搭乗員目撃例と、「小さい人々」とも呼ばれる妖精の過去の伝承、目撃例は驚くべき一致をみせている。別の言い方をすれば、ほぼ同一の体験が、過去においては妖精、現代においては宇宙人と解釈されているともいえよう。これは空を飛ぶ何かがかつては馬車、今は宇宙船と考えられているのと軌を一にしており、僕たちはつねに文化的、歴史的文脈の制約の下でしか解読できないらしい。
 ところで、たとえば日本では妖精といえば可愛らしくて優しいみたいなイメージに包まれている気がするけれど、実際の民間伝承における妖精たちはそんな甘いもんではない。彼らは時には人間に善行をなすが、時には邪悪な存在なのであり、基本的には避けておくのが賢明な奴ら、異類なんだ。しかも、妖精たちの活動で人間にもっとも知られ、もっとも恐れられていたものこそ、人間を妖精界へ拉致してしまうことだった。そう、まさにこの点で、妖精伝承は誘拐事例と強力な一致をみせている。
 誘拐事例から便宜上、退行催眠──これがまた厄介かつ怪しげな代物だが、本稿では立ち入らない──の部分をとっぱらってみると、a搭乗員との遭遇、b「円盤」内部への拉致、c身体的検査、d解放というように整理できるだろう。
 まず遭遇──異類たる小人に出会うという点はもちろんのこと、その過程にも類似がみられる。妖精との遭遇の一典型は、馬に乗っていると、馬が理由もなく立ちどまり、不思議な光と音が登場、そして妖精が出現するというもの。これは、車を走らせていると、不意にエンジンが停止、謎の光と音が知覚され、搭乗員を目撃、というのとほぼ対応していよう。ただ、現代では謎の光は円盤、音は電子的発信音ということになってしまい、乗り物が止まるのはUFOの「電磁効果」と呼ばれるにすぎない(馬の場合、高周波なんかのせいにする手もあるね)
 拉致──誘拐事例の場合、被害者は麻痺あるいは失神状態で円盤内部へと運びこまれるが、妖精も人間を同様な状態にしておいてから妖精国の宮殿へと連れ去る。順序が後先になるけれど、解放後の記憶における時間の空白(つまり、ほんの数分だと思っていたのが数時間経過していた)も、誘拐事例の専売特許ではなく、妖精国から帰ってきた人々も同様な体験をする。これは浦島太郎の話なんかを思い出してもらってもいい。
 さて身体的検査だ。誘拐事例の被害者たちは、耳や鼻孔あるいは頭蓋などに針をつっこまれたりして大変な目に遭うのだが、彼らの多くが声を大にして訴えるのは、すでに述べたように、搭乗員たちの人間の生殖器官に対する異常なまでの関心ぶりである。まさか妖精はそんなことに関心もたないよなと思ったら大間違い。多くの伝承によれば、妖精が人間を誘拐する理由はただひとつ──自分たちの血統を強化するために、妖精族は人間という種の血を欲しているからだという。換言すれば、彼らもまた卵子や精子を必要としていたのだ……。
 このように、一見したところ何の関係もないような誘拐事例と妖精伝承に、じつは著しい相似関係がみられるんだ。もちろん、だからといって、ここから一足飛びに決定的な結論がでてくるわけではない。でも、少なくとも、こういった角度から眺めることによって、搭乗員体験を解釈するいくつかの可能性が浮上してくるだろう。

幻想と現実の区別ではなく

 たとえば、誘拐事例に代表されるような種類のUFO体験は、過去の妖精伝承の大規模な復活、変奏であるという可能性。ほぼ消滅しかかったはずのフォークロアが、装いも新たに蘇生しているのかもしれないんだ。
 これがもし正しいとしたら、それだけでもとても大事だと思うな。フォークロアというと、どうも田舎のおじいちゃん、おばあちゃんが囲炉裏端で……みたいなほのぼのとした(?)イメージがつきまとっていけないが、UFO体験=フォークロア仮説はこういったイメージを粉砕するだろう。UFO体験はまさにアクチュアルなものとして僕たちの生のただなかに現前しているのだから。
 ここで強調しておきたいのは、UFO体験が基本的には、まさに特定の個人が現実としてヴィヴィッドに体験したと信じてやまないものとして立ち現われている点だ。つまり、「昔、昔、あるところで──」だとか、「友人の母の親戚が一〇年くらい前に見たんだけどさ──」とかいう伝聞再話ではなく、単刀直入にたとえば「一九八一年八月九日午後六時半、生駒山麓の自宅付近で、この俺が──」とくるのだ。
 したがって、近年躍進めざましい都市民俗学のような立場からのアプローチだけでは済まない。なぜなら、都市民俗学にあっても、幽霊譚などさまざまな都市伝説はあくまでも口碑として捉えられているからだ。つまり、それはつねに語られる物語だと了解されており、具体性を帯びた体験、固有名詞の刻印された体験の存在(の可能性)は当然のことながら排除される。
 もちろん、UFO体験の中にも語られる物語のレヴェルへと移行したものが存在するのは否定できず、その顕著な例が円盤墜落回収事件や政府陰謀説に見出せよう。こういった部分については、都市民俗学の導入は価値があるんだけれどね。
 また、ウラジミール・プロップのような民話の構造分析の適用もある程度まで有効ではあるが、同様な理由から、それだけではUFO体験の本質には迫れないと思う。
 UFO体験、それは恐怖や驚異に満ちた「実体験」として認識されている。ここのところが重要だ。
 それが実際に現実であるか幻想であるのかという問いかけも、無効かもしれない。
 幻想が現実として認識、体験されるとき、それは体験の主体にとってはやはり現実の一部なのだから。そして、過去の口碑の背後に存在するのも同様な体験であるのかもしれない。

パラレルな存在……性的虐待

 細部に立ち入ることはとうていかなわないが、誘拐事例は分析すればするほど興味深いものがでてくる宝の山、悪夢の宝庫である。ここでは、あともうひとつだけ触れておこう。
 それは、性、あるいは家族の問題である。
 誘拐事例に性的要素が濃厚なのは、 何も身体的検査に限ったことではない。たとえば、搭乗員の外見。これはたんに背が低いだけでなく、頭髪がなくて、吊り上がった大きな眼、それに較べて、異様に小さな鼻と口といった姿で登場してくる。
 次頁の図版をみてもらえば分かるように、現在、アメリカを中心に流布する搭乗員像は人間の胎児と酷似している。いったい、異類たる搭乗員の姿は、なにゆえに胎児のそれとして提出されねばならないのだろうか。一方で、被害者の生活歴について詳しく報告された事例を仔細に眺めていくと、被害者が、家族や広義の意味での性についての問題を抱えているのが見え隠れしていることが多い。
 実際のところ、観点を変えれば、誘拐事例とは性的虐待をめぐる幻想ともいえなくはない。
 今では、被害者が子供の頃から宇宙人による誘拐、虐待を繰り返し受けていると主張する例はちっとも珍しくない。加害者がもっぱら宇宙人だと唱えられているから、話が見えなくなっているんだ。
 そして、誘拐事例が八〇年代、九〇年代アメリカのポップ・カルチャー、裏の文化を賑わせているとするなら、表の文化ではそれとパラレルを成すように幼児虐待とりわけ、その性的虐待の問題が大きく浮上している。
 これは決して偶然ではないと思う。
 この対応関係の存在を強く示唆するものとして、表と裏の中間に位置する「悪魔的幼児虐待」なるものがある。これは子供が人間に性的虐待を受けるという点では、通常の幼児虐待の範疇に入れることも可能だが、加害者がたんに両親とかじゃなくて、性的儀礼をおこなう悪魔崇拝者だとされる異様さで、誘拐事例にやや接近してくる。宇宙人を信じるUFO研究者にかわって、ここでは悪魔の実在を信ずるファンダメンタリストが活躍、宇宙人ならぬ悪魔崇拝者の恐るべき所業を世間に訴えるのだ。
 そればかりではない。誘拐事例と同じく、悪魔的幼児虐待においても、証拠になるのはもっぱら被害者の証言なのだが、この証言もまた主として退行催眠によって引き出されるのだ。なお、日本人の眼から見れば、悪魔的幼児虐待も誘拐事例も荒唐無稽さでは五十歩百歩の感があるけれど、今なおファンダメンタリストが一定の勢力をもつキリスト教文化圏にあっては、悪魔的幼児虐待はかなりの説得力をもつのであり、英米では実際に法廷を舞台に争われている。
 ともかく、僕としては、誘拐事例と幼児虐待はその深層において通底しているのを疑わない。誘拐事例が完全な幻想だとしても、それは僕たちの生の暗部で起こりつつある何かを反映しているのだろう。その意味において、UFO体験とは、僕たちの生の闇の部分、抑圧された不安や恐怖が噴出する場なのであり、まさに「隠れたもの」なのだ。

 UFO体験の裡に顕現する錯乱した世界とは、じつは僕たち人間という存在の本質を逆に照射し、現実とは何かについて根源的な問いを投げかけるものでもある。
 光体が空を乱舞し、小人たちが跳梁する奇怪な世界、それを一笑に付すのはとてもたやすい。
 でも、繰り返して言っておきたい──UFO体験は僕たちを襲うのはやめはしないだろうと。




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