投稿者 くま 日時 2001 年 3 月 03 日 07:25:54:
回答先: Re: 石原慎太郎を総理?・・・本気で考えている人間がいるのか? 投稿者 くま 日時 2001 年 3 月 02 日 21:02:52:
盗聴に関しても創価学会は、この国の盗聴機の使い方を代表しているようなことをやっているが、今この団体は現在与党なのだから何をかいわんやである。そもそも、このカルト団体の代表を務める神崎武法は、彼が検事時代に創価学会が組織的におこなった盗聴事件に関与し、それがばれて検事を辞職した人間なのだ。しかし、驚くまいことか、前回与党になったときにはその神崎が郵便物などを扱う郵政省の大臣になるという破廉恥な人選が行われた。ともあれ、このカルト団体の創価学会は盗聴機を使い、他宗派の若い女性が、その創価学会のいやがらせの為に心労で脱毛症になってしまうような連日のいやがらせの一つとして利用する。たとえば、盗聴をしていなければ他人にはわからないようなことを故意にその相手の女性に聞かせておもしろがる。これは大の男がやられてもイヤなものであり、若い女性がやられたら、いかばかりの苦痛であるかは察するにあまりある。実はこれは、XXXXXがおもしろがってやっていることの一つと同じものである。自らの利益となる情報を盗聴で集める傍ら、このように心理的にもいやがらせの材料に使うのである。
このような団体が、一つの国家の与党になるとは驚くべきことだが、この驚くべきカルト団体は、さらに驚くべきことに、僕がそのあまりのひどさに、その上記の女性のことに関することが記されている本のコピーを「宗教法人審議会」に送付したところ、まず学会員の「何か妖怪(何か用かい)オバさん」がわざわざ僕のところにやってきて「切られて当り前なのよ」と言っていき(このことについては後に述べる)、その後、学会員の中年の女性の禿をわざわざ派遣してよこして、人を小馬鹿にしてさらにおもしろがっている。さすがの僕も、最初は何故突然禿のオバさんが幾人も出現しだしたのかわからなかった。その「宗教法人審議会」に送った本のコピーがらみだとはつゆ思いもしなかった。これは、オウム教の極悪さと遜色ない。
それらの禿オバさんたちは、心労などによるハゲではないのは言うまでもない。そうやって気味悪くおもしろがって出てくる面の皮の厚い人間が、心労で禿になどなるわけもない。遺伝性の疾患といったところだろう。
このような創価学会に連日いやがらせをされていた和歌山のその女性は、最終的にヤクザと思わしき学会の手先に在宅中に合鍵で侵入され、そのあまりの恐怖で失神しまった。そして、意識のない中で、腕を刃物で切られている。
もっとも、このカルト団体の創価学会は、金儲けで墓苑を作るのに、その反対運動をしていた地元住民の中心者を、後藤組を使って日本刀で叩き切らせ、運動をやめさせてしまったのだが、その後藤組に約束通りの報酬を支払わなかったとみえて、その犯行が記された内容証明書付きの書簡を、組長が池田大作宛に送った経歴もあり、それを考えればこのようなことも連中には日常的なものであったのかもしれない。しかし、繰り返せば、これが今の政府与党の一党なのである。
上記の創価学会による被害者についてのことが記されている本は「創価学会亡国論」といい、「幸福の科学」が出版している書籍である。
「幸福の科学」にも様々な批判があるようだが、この本に関しては、第三者からみても、非常に抑制がきいた、被害にあった者の為にも務めて冷静に事実に忠実に誇張などいれず書こうという気持ちが伝わってくるようなものといっていい。そのうちの一つの具体的な例をあげれば、創価学会はその女性に卑猥な台詞を言ういやがらせもやっているが、その台詞の内容を著述者は知っていながら一切書いていない。創価学会を単に攻撃するだけなら、普通な、らいの一番に書くようなことである。
僕は別に「幸福の科学」に関わっている人間でもなければ、そこに知り合いがいる関係というのでもない。僕が「宗教法人審議会」にそのひどさを手紙で訴えたのは、実際それがあまりにひどいものだったからである。
「この本のコピーを読んで、何も思わない人間がいるとしたら、それは日本語が読めないか、創価学会員かのどちらかしかない」と僕はその手紙に書いたが、「宗教法人審議会」には、そのどちらかの人間しかいないようである。
”宗教的立場や政治的立場を離れて、一応ニュートラルなヒューマニズムの立場に立った人たちの態度である。創価学会の持つ「あくどさ」「いやらしさ」が、どうしてヒューマニズムの側からこれまで問題にされなかったか。ヒューマニストは宗教人のもつ信念の固さや、革新的な政治理念の教義主義をしばしば笑いものにして来た。それだけの見識をもっていながら、なぜ創価学会や公明党の体質を批判しないで今日まで来たのか。怠慢と卑怯があるのではないか。[或僧侶]”
そういえば、創価学会と戦ってきた藤原弘達が死んだ時、氏の家には一晩中「おめでとうございます」という電話が夫人にかかってきたそうである。
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”「他民族を抑圧する民族は、自らが自由ではありえない」ということばを私はしばしば繰り返した。他民族を侵略し、抑圧し、そのことに真の反省を加えない民族は、自分自身の首をしめる愚かさから永遠に解放されないだろうと私も思う。
かつて異民族をマルタとして扱った七三一部隊の腐蝕した「医」の思想は、戦後は、差別され抑圧される民衆に向けられ、囚人や不幸な乳児がそのいけにえにされる。それは戦時にあっては異民族へ、植民地を失った段階では同胞へ、と果てしなく続く。
それを実行する者はそれを実行する「特権」を誰から与えられたのであろうか。[にっぽんのアウシュビッツを追って/高杉晋吾著]”
僕は民族主義者というものを考えてみる。そしてこう思う。
丁度、何かのファンである者は、違うもののファンである者の気持ちもわかるのではなかろうか。その意味において、結局、他民族を排斥する者は真の民族主義者では在り得まい。自らの好戦性の発散に民族というものを利用している暴徒に過ぎまい。
「ファン」などと記すと軽薄の誹りを免れないかもしれないが、「民族」などそのくらいのものでしかないのではないか。少なくとも、「純粋なアーリア人」は暫く問わず、如何なる地へ行けども、「純粋なる民族」などは存在しない。僕が「ファン」というのは、偶像崇拝的なところも似ていると思うからである。誰かはそれを「民族崇拝宗教」と云った。
僕は何も、実際のその「民族」は悪いといっているわけではない。良いにしろ悪いにしろ偶像などつまらぬものだ。
戦争と民族について一言いえば、かの大戦で日本は最後には原爆まで落とされ、民族として拭いきれない悲惨さを負った。「不戦」というのは、その自らの民族を愛する気持ちから、また同様に他民族の為にも、そのようなことが二度と起こらぬようにと心に決めたものであろう。それは「民族」の自他共に対する良心であり、智慧である。それを覆す輩は、どう考えても「民族主義者」などではなく、謀反者である。
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アメリカの原爆投下には二つの理
論的な問題がある。
一つは、アメリカ国内でも議論には挙がっているらしい、その使用自体の是非である。
もう一つは、そのアメリカが戦後、日本の戦犯やそれに類した連中をアメリカの自国の利益の為に免責し利用したことである。もし原爆が必要不可欠であったというのなら、その免責された連中こそその犠牲者にならなければならなかった人間たちである。しかも、アメリカがそのように利用した結果、その人脈が今も猶その思想とともに戦争当時のまま日本に残され昨今の不穏な動きの陰の力となっている。
この東洋の矛盾を太平洋を隔ててアメリカは如何ように思っているのであろうか。・・・・・・・
”(中略)アジアの後進性を私は言おうとしているのではない。階層が違えば人を人とも思わぬメンタリティを、少なくとも戦後これまでの日本人が否定してきたことの尊さを強調したいだけだ。
「人権」や「平等」といった、最近の日本では軽視されがちな、いやしばしば揶揄や嘲笑の対象になりさえする価値観が、どれほど得難いものであるかを、日本を長く離れてみて初めて痛感するからである。(中略)
かの日本人青年は、とりたてて「人権」や「平等」を日本で学んだわけではなかろう。戦後の日本で育つうち、自然と身につけたものであるにちがいない。
だが、インドの子供たちに伝えられるほど血肉としている、そのことの貴重さを、われわれ日本人はもっと自覚していい。[アジアの国々から見えた日本の尊き価値観/月刊宝石・野村進稿]”
ジョージ・オーウェルは、ヒットラーを評して、人間は平穏なぬるま湯的な生活の中にあるよりも、時には軍隊の行進や、矛盾だらけであろうが厳しい規律などを好む負に向う性質も持っているが、ヒトラーはそれをうまく利用したのであり、このような人間の無意識的な心理に語りかけるスローガンを思い立った人間を甘くみてはならないと記した。
僕は「自由」や「平和」がぬるま湯的だとは思わない。外界が平穏であれば、内面も安逸なのであろうか?何も現実的な辛苦を舐めていない人は人間知らずの思索することを知らない悩みのない人であるだろうか?僕は「経験主義者というのは思想的にはカタワのようなものだ」という小林秀雄には賛成なのである。
ゲーテはシェイクスピアの「ハムレット」を評して、「彼の悲劇は、思想家であるべきハムレットが、父のかたきをうたねばならなくなったことである」と言った。もっとも、トーマス・マンは同じ「ハムレット」を評して「涙のヴェールを透かしてまでも、観察し認識せずんばおられない悲劇」と言ったが、これらは二つとも正しいのだろうと思う。各々命題にしているものが違うだけなのである。
今の日本をだめにしているのは、ごく一部の者たちである。彼らが情報さえ握っているので問題が肥大化しているに過ぎない。
この国で今一番必要なのはマスコミを疑うことである。それは連中の実態を知るということであり、それ以上でもそれ以下のことでもない。疑うべきものは疑わなければならない。ジャーナリズムは人に思考の材料を提供する。その材料が間違っていれば正しい判断はできないという意味で、人をかなりの程度コントロールできるものであり、それに対して冷厳に徹するというのは当り前なことである。
XXXXXのことをぬきにしたとしても・・・・・
たとえば、「買ってはいけない」の問題の本質は、ジャーナリズムがスポンサーである企業の批判を全くやらず、それ故、消費者が「生きていく為に」本当に知らなければならない情報が隠されているということである。
その本質的な問題を抜きにしてこの「買ってはいけない」問題は語れない。
科学的論証が不正確だの、不足しているだのという問題は、その問題の次にくる問題なのである。
企業が、本来不必要な、有害でもある合成着色料を、商品を売らんがためだけに添加したり、同じような理由で、天然の砂糖などを使用せず、危険性がないとはいえない合成甘味料などにする、また製造面での企業利益追求の為に、遺伝子組み換え食物を使用する、などの所業は、科学的云々の範疇のものではない。
また企業の、それらのものは厚生省が認可しているという免罪府は、消費者が判断する知識やその術を知らず、それを買わなければならないというのを、天に代わって許すというものではない。
しかも、先進諸国の中で、最近のっぴきならぬ問題となっている遺伝子組み換え食品も含めて、日本ほど企業本位で政策や規制値を決めているところはないのではないか。
「買ってはいけない」には、このような科学的分析という以前に、人間が人間として生きてゆく為に考えねばならぬものが、その事例の大半を占めているように思う。
遺伝子組み換え食品の問題は、現在現実的には実証不可能な危険性の有無というものも含めて、消費者がわざわざそのようなものを食べなければならぬ理由は何もないというところにある。消費者がそれを食べなければならぬ理由は、企業の利潤に資するためなのである。そもそも、日本がやろうとしているように、人が食するものの中身を内容表示できないというのはどう考えてもおかしい。もしそれが技術的に不可能であるというのなら、そんなものを混ぜないというのが普通の考え方である。
この遺伝子組み換え食品の問題ということでは、政府は、毒入りカレー事件のドサクサを利用して、「他国に遅れをとってはならない」などと戯言を言って、遺伝子組み換えの研究を行う為の、国が運営する研究機関を作ることにしたと事後報告報道までやった。「他国に遅れをとってはならない」というのは真っ赤な嘘であり、どの国も、遺伝子組み換え食品の問題では、市民も交えて、その抑制を真剣に討議している国がほとんどである。
こんな詐欺も堂々とやる政官財らの作る「厚生省の基準値」など、そもそもその実地運営も含めて、信ずるに足るものであろうかという疑いも生ずる。
今では、マスメディアのスポンサー企業に対するタブーが、ごく当り前なものにすらなっている感があるが、僕はマスメディアが本当に「仕方なく」それらをタブーにしているのかどうかあやしいとさえ思うことがある。
何故なら、企業が広告を出さないという脅しに出ても、マスメディアが団結してそれに抗すれば、その企業はどこにも広告を出すことができなくなり逆に困るだろうと考えるからだ。事実、このマスメディア諸団体は、記者クラブなどにおける「報道協定」にも見られるように「団結」を得意にしているではないか?
もしまたある一つのマスメディア機関が裏切りを行い、その企業の広告を掲載し、その利益を独占したら?そのときは、そのマスメディア機関を他のマスメディア機関全てで批判すればいい。市民は馬鹿ではない。そのような批判をうけたマスメディア機関は存続できないだろう。
しかるに、それらマスメディアの現状は?・・・・・・・
企業で働く大部分の人間は、
非人間的な非良心的な商品など作りたいとは思っていない。そういう人たちも、自社が当然の批判を受け、現状が改変されまっとうなものが当り前に作れるようになれば、会社の信用はその時点では失うものの、それを歓迎する筈だ。それはもともと架空の、ある筈のない信用だったのだし、何より当り前ないい仕事ができるということはいいことだからである。
ところで、1995年日本でO−157の感染が発生したとき、アメリカ政府は「生物兵器テロの可能性もある」と言って、直前にオリンピックが開催されている中で起こった爆破事件で騒然としていたアトランタから、CDCの調査団を日本に送った。そして、調査団が帰国した後、アメリカ政府は日本の細菌部隊出身者のアメリカへの入国の禁止を発表した。何故なのか?
(日本のマスコミもそのことについては奇妙なことに何も言わない)。
この、アメリカが戦後、その生体実験のデータと引き換えに秘密裡に免責した、重大な戦犯であった細菌部隊出身の医師らは、戦後日本の医薬界で君臨し、様々な負の軌跡を残していった。「薬害エイズ」も単にその一つに過ぎないものであった。
日本では、スモン病・イタイイタイ病・川崎病などの研究班長を歴任し、それらの公害の発生原因の物質を「シロ」であるかのように判定し、IAEAのチェルノブイリ原発事故の被害の調査の団長となって被爆地を訪れ、放射能被害がないかのような報告をし世界からの怒りをかったという重松逸造という疫学者が、O−157は「カイワレダイコン」が発生原因というふうにしてしまっている。彼は安部英と同じ海軍出身の人間である。