ブラックメンの行動目的(『UFOS & SPACE』82年7月号)
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投稿者 SP' 日時 2001 年 4 月 17 日 12:01:47:
回答先: ブラックメン暗躍の真相(『UFOS & SPACE』82年2月号) 投稿者 SP' 日時 2001 年 4 月 17 日 12:00:08:
「UFOの対地球戦略・総合分析」16
日本の見えない大学情報部
空軍調査官を名乗ったり、アメリカ政府筋の工作員を装うものの、すぐに尻尾を出すブラックメン。彼らの活動は、極めて不自然でつじつまのあわない言動や出来事をともなうからだ。果たしてブラックメンの行動目的は何か。 |
地球外文明説の立場からのUFO情報の報道解説と米政府の秘匿政策批判で有名な評論家フランク・エドワーズは、1967年6月23日に急死した。いろいろな情況証拠から見て、彼は、一種の謀略殺人の犠牲になった可能性が極めて大きい。すなわち、第3者である何者かが、アメリカ政府と国民の政治的離間を企図して、アメリカ政府に殺人者のぬれぎぬを着せる目的で、彼を殺害した疑いが濃いのである。そして、民間人のUFO調査を妨害してまわる正体不明の男たちの動きは、この前後の時期から活発化し、その後も1970年初頭まで続いた。とくに1967年夏から1968年末にかけて、この種の報告が大量に発生している。
これらは以前の事例と同様に、空軍調査官を名乗ったり、一見アメリカ政府筋の工作員たちの活動のように思えたりする。ところが、それぞれ具体的な経過などを詳しく調べてみると、ほとんど例外なく、ニセ軍人であることが明らかとなったり、この種の工作員の活動としては、極めて不自然でつじつまのあわない言動や出来事をともなっていることが判明する。
たとえば、1968年1月「ピッツバーグUFO研究会」の現地調査部長ジョセフ・ジェンキンズ退役少佐のところにもたらされたある報告は、もし報告者が、正体不明の男たちの乗った黒塗りの車につきまとわれ、脅されるという体験をしなかったならば、たぶん明るみに出なかったはずであった。
この事例の報告者は、ある日の午後、1個のUFOを極めてはっきり目撃した。そこで同僚たちにこのことをちょっと洩らしたが誰も信用しなかった。
すっかりくさってしまった彼は、以後この目撃については口を閉ざすことにした。ところがしばらくして、彼は1台の黒塗りの車にしょっちゅう出くわすのに気づいた。乗っている男たちもいつも同じだった。彼は初めはこれがUFO目撃と関連しているとは思ってもみなかった。ただ偶然とは考えられず、薄気味悪いので妻には話した。
ある朝、彼は出勤の途中で、同じ男たちの乗った同じ黒塗りの車が向こうからやって来るのに出くわした。だが今度は、問題の車はなんと、まっすぐ彼の車に向かう衝突コースを突っこんできたのだ。驚愕した彼は大急ぎでハンドルを切った。車は道路の外に飛びだし、ものすごく揺れたが、正面衝突は避けられた。幸いケガはなかったが、このあまりに衝撃的な経験から、UFO目撃との関連に思いあたり、「ピッツバーグUFO研究会」に報告することにした、というわけである。
問題の男たちの行動は、少なくとも結果としては、UFO目撃者を沈黙させるのとは反対に、それをこの奇怪な威嚇を受けた経験と共に、広く宣伝する効果をもたらしてしまったのだ。これは、あらかじめ何回も報告者の身辺に出没してみせてから襲いかかるという、その執拗な系統的行動から見て、問題の男たちの錯誤の結果とは考えられず、むしろ初めからこの効果を狙ったものとしか考えられない。つまり、彼らの具体的な行動目的は、UFO目撃の秘匿を強要することではなく、空中のUFOと、これに関連して地上で行動しているブラック・メンの存在を宣伝することだったと思われる。UFO情報の秘匿に狂奔していた米政府筋が、秘密工作員たちにこんな行動をとらせるとは考えられないのだ。 1968年6月7日、2人の若者がピッツバーグ上空を飛ぶUFOを目撃し、ポラロイド・カメラでこれを撮影した。写真は、「ピッツバーグUFO研究会」に届けられ、専門的検査を受けた。会長のジェンキンズ少佐によればこの写真は、「与えられた条件のもとでは比較的よく撮れて」いた。
ところが7月5日になってから、撮影者の1人のところに、「UFO研究会代表のマンロー大尉」と名乗る男から電話がかかってきた。“マンロー大尉”によれば、検査の結果、問題の写真はつくりものであることが判明した、というのだ。そして若者は、「この件について、誰にも話してはいけない。そうしなければ君にとって不幸な結果が起こることになるぞ」と告げられた。それだけでなく、同内容の脅迫電話が、再びかかってきた。
ジェキンズ少佐はこれについて次のように述べている。
「いうまでもありませんが、これらの電話は本会の正式の連絡ではありません。また調べたところ、本会に関係する誰かが、個人的に問題の写真について撮影者に電話したという事実も、まったくありませんでした。
誰かのいたずらだったのだ、と簡単に片づけられないこともありませんが、しかしそれなら、いったい誰のいたずらだったのか、という疑問が残るのです。というのは、若者たちは、本会に報告しただけで、両親以外の誰にも、このことを話さなかったといっているからです。本会でも、直接関係していた人々以外の誰も、この写真についてまだ知らされていませんでした。問題の写真は、あの時点では検査研究されている最中で、まだ結論が出ていなかったからです」
脅迫者はここでも例によって“調べればすぐわかるウソ”をついている。問題の若者が事実そうしたように「ピッツバーグUFO研究会」に問いあわせれば“マンロー大尉”が架空の人物であり、写真の判定結果はいまだ出ておらず、また結果がどうあろうと、同会はUFO目撃者に沈黙を要求する企図も、権限ももたない単なる民間研究団体にすぎない、ということはたちどころに明らかとなってしまうのだ。そして脅迫者は、このような“へたなウソ”をつくことによって、このUFO目撃事件と写真の存在を隠蔽するどころか、反対に広く宣伝するという逆効果を、自ら招いてしまっている。
もし、このような脅迫電話が若者にかかってこなかったならば、ジェンキンズ少佐はこの事件について、同会の機関紙に掲載した論文「“黒服の男たち”についての真剣な考察」のなかで、詳細な紹介などしなかったはずである。そして「2人の若者がUFOを目撃し“与えられた条件のもとでは比較的によく撮れた”写真──つまり大気の散乱効果のため多かれ少なかれ輪郭のボヤけた小さな光のシミしか写っていない、ありきたりのUFO写真──を撮影した」などというまったくありふ
れた内容のこの事例についての情報は、せいぜい「ピッツバーグUFO研究会」のファイルのなかに記録されただけで、日の目を見ることはおそらくなかったにちがいない。
ジェンキンズ少佐の論文は、自動車部品の盗難と関連した奇怪な脅迫電話を受けたばかりでなく「黒服を着た男たち」の直接来訪を受けたピッツバーグ隣接のある市のUFO研究グループ議長の体験を詳述している。
60年代後半のUFO目撃集中発生は、このグループをもてんてこ舞いさせたが、その最中に、議長のところに奇妙な脅迫電話がかかりはじめた。「UFOのことなど忘れろ」というのだ。
議長はこの脅迫を無視して活動を続けた。しかし、念のためこのような電話がかかってきたことは一応、仲間やジェンキンズのところには報告しておいた。するとしばらくして、議長は、自分の車のなかから無線機器が盗まれているのに気づいた。その直後また脅迫電話がかかってきた。電話の向こう側にいる正体不明の男は、「この次にあんたがなくすのは、形のあるものじゃないぜ」とすごんだ。
そのあと議長のところに、3人の「黒い服を着た男たち」が姿を現わした。彼らはそろって朝鮮戦争で用いられた寒冷地用の黒いキルティング戦闘服を着ていたのが極めて印象的だった。3人とも奇怪なことに、息を切らしながらしゃべるような異様な話し方をした。連中は、UFOについては直接はっきり言及しなかったが、脅迫的な言葉を口にした。
議長は賢明にも、彼らの車のナンバーを確認してメモしておいた。しかし、このナンバーは、州の登録ファイルのなかには見あたらなかったのである。
この事例には、ただ1つの点を除けば、脅迫者たちが米政府の秘密工作員であると見なすことを妨げる重大な不自然さは見あたらない。だが3人が3人とも“息を切らしながらしゃべるような、異様な話し方をした”という点はなんとしても異常である。 政府秘密工作員説の文脈におさまり切れないこの種の極めて不自然な異常情報ビットを含む事例は、ミネソタ州オワトナ付近でも1967年5月に発生している。この事例が明るみに出たのは、翌年になってからのことだったが、やはりこの種の異常情報ビットが含まれていたことが契機となっており、体験者はこのような異常情報ビットがなければあえて報告をせず、事例そのものは埋もれたままとなり、広く知られるには至らなかったであろう。
本誌79号で述べたように、UFOライターのジョン・キールは、自分自身も「黒服の男たち」の脅迫的示威行動を見せつけられた経験があり、これについての情報を集めたり、報道や評論をしていたが、1968年のある日、彼が雑誌に寄稿した記事のうちの1つを読んだという婦人から手紙が届いた。キールはすぐ彼女のところに電話をかけ、1時間近く話をした。
彼女はまず、2年前のUFO目撃について語り、また異常電話に悩まされている事実や、ラジオに混信してくる奇妙な声などについての経験を述べた。キールは、よくこのような話をもちこむ少々頭のおかしな人々の同類ではないかと一応は疑っていたので、この点を試すため、一見相手をバカにしているように聞こえるたくさんの質問をたて続けにあびせて見た。彼女は怒ったりせず、これらの質問にいちいち正常かつ真面目に答えた。そのあとラルフ・バトラー夫人は逆にキールにたずねた。
「ちょっとおうかがいいたしますが、今までにあなたのところに、奇妙な空軍士官の訪問を受けたという報告をした方はいませんでしたか」
そのような事例についての情報を、キールはすでにこの時点までに多数入手していたのだが用心深くひかえめに答えた。
「そういう話をいくつか聞いたことはありますよ」
するとバトラー夫人は話しはじめた。
「じつは私どもの家にも、去年(1967年)の5月に、そういう1人の男が来ているのでございますのよ」
その男は、民間人の服装をしていたが、空軍のリチャード・フレンチ少佐と名乗り、UFOに関心をもっている、と述べた。バトラー夫人のUFO目撃について話が聞きたいというのである。
彼はきちんとした英語を話し、教養のある雰囲気をもっており、身長は177センチぐらいでオリーブ色の肌をし、髪の毛は黒く、とがった顔つきだった。
バトラー夫人は、いくつかの点でこの“少佐”の身なりがいささか奇妙であることに気づいた。1つは、髪の毛が空軍士官にしては長すぎるという点。今1つは、身につけているものが、まるでちょっと前に買ってきたもののように真新しいという点だった。グレーのスーツ、ワイシャツ、黒のネクタイなどのすべてが、おろしたてなので何か不自然さを感じた。だが、これらからこの男の素性が決定的に怪しいことがはっきりしたわけではなく、最初の日は、夫人としてはちょっと不審に思っただけだった。
男は帰りぎわになって何気ない調子で、胃が悪いので悩まされているといった。そこでバトラー夫人は、それにはゼリーをすこし食べると効くことを教えた。すると彼は、もしずっと胃に悩まされるようだったら、またやって来て、ゼリーをすこしいただくことにするといって帰っていった。
問題の空軍少佐が、極めて異常な気味の悪い行動を示したのは、翌日のことだった。朝早くバトラー宅にやって来たフレンチ少佐は、胃に悩まされているというので、バトラー夫人は彼を台所の食卓につかせ、その目の前にゼリーがいっぱいつまった大きなボウルを出した。夫人は少佐の不思議な行動をキールに次のようにいっている。
「誰か、ゼリーを飲もうとしたという人の話を聞いたことがございますか。ええ、その男がそうしたんですの。まるで以前に、ゼリーなんて1度も見たことがないふうでしたわ。ボウルを両手でもち上げ、口をつけて飲もうとしたんですのよ。そこで私が、スプーンを使ってこうして食べるのと、教えてやらなければならない始末でしたわ」
フレンチ少佐は白いムスタングに乗って来ていたが、彼女の夫はそのナンバーをメモしておいてあとで調べてみたところ、ミネアポリスのレンタ・カーであったことが判明した。空軍に問い合わせてみると、ミネソタ州駐在部隊に確かに、リチャード・フレンチという名前の少佐がいることがわかった。しかし本人は、バトラー家を訪れた覚えはないと証言した。しかも風貌がまったく似ていなかった。
ニセのフレンチ少佐の方はその後、バトラー家に姿を見せなかったが、アイオワ州フォレストシティに住む、バトラー家の親しい友人宅に立ち寄ったという。
バトラー夫人がUFOを目撃したのは、1966年のオトワナ付近のUFO目撃集中発生の際だったが、それにともない、一緒に目撃した女性の友人が突然トランス状態におちいり、「あなたがたの1日は何
時間ですか。夜は何時間ですか」というような奇妙な質問をバトラー夫人にするという、奇怪な出来事が起こった。
しかし2人とも、この事件については誰にもまったく話していない。なぜならば、彼女たちはいずれも、この出来事を他人に話そうとすると、突然目のくらむような激しい頭痛に襲われるという、奇怪な体験を重ねたため、今まで誰にも話せなかったというのだ。電話を通じてキールにこの点を説明したバトラー夫人は、いぶかしげに次のようにいった。
「そういえばおかしいですわねえ。割れるように頭が痛くならずにこのことが話せるのは、これが初めてですわ」
バトラー夫人は、問題のニセ空軍士官にまつわるUFO目撃について他の人に話そうとするたびに激しい頭痛に襲われたという、奇怪な体験を報告しているが、被訪問者をひどい頭痛や病気にするニセ空軍士官の出現についての報告が次の年にももたらされている。 1968年6月、ニューヨーク州ジェームズタウンの民間UFO調査団体CAP(空中現象研究会)所属のトーマス・ウェデマイヤーは、空軍士官の制服を着た1人の男の来訪を受けた。
男は“スメドレー少佐”であることを示す身分証を提示した。
この身分証には、疑わしい点はなかった。このころ同研究会は、バッファロー郊外で発生したUFO着陸事件の調査を行なっていたが、“スメドレー少佐”は、同会がこの事件について、何か決定的な情報ないし物証を入手しているのではないかと問いただした。また、これらに基づいて、さらに突っこんだ研究を同会の会員たちが進めることを懸念しているような言動を示した。そして、尋問が終わって“少佐”が立ち去ったとき、ウェデマイヤーは激しい頭痛に襲われていた。
この報告を受けた同研究会の会長ジム・ノレーネは、“スメドレー少佐”について調査することを決意し、すぐ空軍の地方事務局に問いあわせた。ところが、ジェームズタウンでUFO調査の仕務についている“スメドレー少佐”などという士官はいないという返事だった。そこでノレーネは、ボストンの空軍人事部にテレタイプで照会した。すると、空軍の記録にはいっさい見あたらないという返答がもたらされた。
その後ノレーネたちは、この制服と身分証で完璧に化けたニセ空軍士官が、ほかのいくつかの地域にも姿を現わしていたことを知った。たとえば、ペンシルバニア州エソーでも、この“スメドレー少佐”がUFO研究家のところにやって来て、1時間ばかり尋問したのち帰っていったが、研究家はそのあと気分がひどく悪くなって病床につき、そのまま2週間ほど起きられなかったという。
被尋問者が、激しい頭痛に襲われたり、2週間も寝こむなどという奇怪な結果さえともなっていなければ、“スメドレー少佐”のこれら訪問は、ごくありきたりの空軍士官による、普通のUFO調査活動の一部のように見えたであろう。したがって、誰もわざわざ手数をかけてその身元を洗ってみるというような、物好きな調査はやらなかったかもしれないし、そのうわさが、広く伝えられるということもなかったと思われる。
また、仮に被尋問者が頭痛や病気になったとしても、訪問した人物が空軍の制服を着ていたり、身分証を提示したりしていなければ、話はやや不気味なものとなり、うわさは広がったかもしれないが、米政府系の秘密工作員が、被尋問者に毒を盛るか何かの特殊な諜報工作技術を用いて、UFO研究から手を引くよう警告を行なったものと考えれば、一応筋が通らないこともない。少なくとも、当時のアメリカの一般市民の目には、それほど不自然な出来事には見えなかったはずである。
米政府が、UFO情報秘匿にやっきになっており、そのためには手段を選ばないだろうということは、UFOに関心をもつアメリカ市民にとっては、すでに常識となっていたからである。
だが、このような政府による非合法的地下工作が、まぎれもなく政府の正規職員であることを示す空軍士官の制服を着、空軍少佐の身分証を提示した人物によって行なわれたということになれば、話は異様なまでに不自然となる。政府としては責任を回避するアリバイがまったくなくなってしまうからである。当の空軍当局としても、少なくとも公式には、ほおかむりしてはいられなくなることは疑いない。 これより先、1967年2月の初めころ、ジョン・キールは、当時空軍の公式UFO調査機関プロジェクト・ブルーブックのペンタゴンにおけるスポークスマンであったジョージ・P・フリーマン大佐に、この種のニセ空軍士官についてただしている。フリーマン大佐はこれに対して次のように述べた。
「われわれといたしましても、この種の多数の事件について、それぞれ調査しております。その結果問題の男たちは、いかなる意味においても、すべて空軍とは無関係であったことが判明しております」
大佐はさらに、空軍としてもこの種の出来事がしばしば発生しているため、大いに困惑しているとこぼした。なかでも1967年初頭、ニュージャージー州ワナキューで起こった事件には、ほとほと困りはてたというのだ。空軍の制服を着用した4人の民間人たちが、警察官を含む目撃者たちを集めて、彼らが目撃したことについてほかの人たちに話してはならないし、お互いに討論してもいけない、と厳重に命令するという奇怪な出来事が起こったのである。
フリーマン大佐はまた、ミシガン州のグランド・ブランクのあるレストラン経営者が、彼の撮影したUFOの写真を、FBI(米連邦捜査局)の職員と名乗る謎の男に没収されたという事件にも言及した。空軍がFBIに問い合わせたところ、そのような写真を没収したFBI職員はいないという返事を得たという。ニセ調査官の出没に悩まされている政府機関は、空軍だけではないというわけである。フリーマンはキールに対し、さらに次のように言明した。
「われわれは今のところ、これらの謎の男たちの正体について何もつかんでいませんが、彼らは空軍士官ないしはほかの政府機関の職員であるかのごとく装って出現し、しかもわが国の法律に違反する行動をしていることだけは確かなのです。われわれとしては、ぜひこれらのペテン師たちのうちの1人でも捕まえたいと、真剣に考えているのですが、いかんせん、この種の事件が発生したという情報がわれわれのところに入るのは、いつもあまりに遅すぎるため、彼らを有効に追跡して、その尻尾をつかまえることができない
でいる、という次第です」
フリーマン大佐が、キールのインタビューにこのように答えた数日後の1967年2月15日、統合参謀本部次長、ヒューエット・T・ウエレス空軍中将は、陸海空3軍の全指揮官に対し、軍の将校の身分をいつわって目撃者たちを脅迫して歩く男たちに関する、これまでに入手されたすべての報告を、ペンタゴンに送り届けるよう命令を発した。
前述したロズウェル事件の例でも明らかのように、米軍が必要と判明した場合に、UFO情報をつかんだ米国市民を違法に監禁したり拷問にかけたりすることは、まったくありえないと考えるのは、いささか甘すぎることは明らかである。しかし、命令されていないか、あらかじめ定められた行動規範に含まれていない問題に対する反応は、極めて鈍重だが、いったん命令されれば、その実現のために徹底的な行動をとるという、軍隊の組織的特質からみて、米軍の最高司令部が、各級指揮官のすべてに対し、このような具体的内容の命令を発したという事実は、極めて重大である。もし万一、それ以前に実際に“UFO目撃者を脅迫せよ”という秘密指令が出されていたとするならば、これは明白な取り消しを意味することは明らかである。
また、CIA(米中央情報局)その他政府の秘密工作員が実際に空軍士官の身分を詐称して、この種の非合法的地下工作を行なっていたとするならば、これらの秘密機関に対する最大級の威嚇を意味するからである。
軍の有する対敵諜報組織は極めて強力である。CIAを含むいかなる米政府の秘密工作機関といえども、これを敵にまわした場合、活動は極めて困難となるのだ。
最後に、しかしもっとも重大な点はそれまで軍所属の個々の各機関や各基地に身分照会などの形で極めて多数もたらされていたはずのニセ士官の出現に関する情報のすべてが、ほどなくペンタゴンに集中される結果となったと考えられることだ。これについてはまったく公表されていないが、もし、少なくともニセ士官事件の全部が米軍首脳の関知するものでなかったとするならば──その可能性は大きいのだが──たぶん彼らを愕然とさせるに充分な大きさの事例数と、ニセ士官たちの奇怪な言動の全容とが明らかとなったことは間違いないと推測される。
これは単に、国民に対する軍の威信を著しく傷つける事態であるばかりではない。このように多数のニセ士官たちが、米国本土内で自由に出没して勝手放題に行動しているという事実は、対敵情報作戦の観点から見ても極めてゆゆしき重大事態であることは疑いない。したがってペンタゴンは即刻、これらニセ士官たちの正体の解明とこれに対する対策の樹立のための諸措置を講ずるために、全力をあげることとなったであろう。
FBIやCIAなど、軍以外の政府秘密工作機関のありうべき擬装地下活動である場合も考慮に入れ、大統領に対して事実の調査と、少なくとも軍の制服着用ないし身分の詐称によるこの種の活動の即刻中止の申し入れが、当然行なわれたであろう。そして、この奇怪な地下工作集団が政府のいかなる機関も関知していないものであるならば、逆にその正体の解明のための各情報機関に協力が要請されたことであろう。さらに、ニセ士官以外の、いわゆる「黒服の男たち」に関する情報の収集と、その正体の解明の努力もあわせて行なわれたにちがいない。
国内の左翼勢力や、UFO狂信者たちの陰謀の可能性も真剣に調査検討されたものと思われる。ソ連を始めとする仮想敵国の謀略活動である可能性についてもしかるべき調査が行なわれたと見るべきであろう。また当然のことながら、この謎の謀略工作者集団を操る仮想敵が、地球外の知的存在である可能性に関しても、極秘裡に徹底的検討がなされたものと考えるべきであろう。そして、なんらかの結論が引き出されるに至ったと考えるのが自然である。
いずれにせよ、1967年2月、ペンタゴンが全軍の各級指揮官に対し、「ニセ士官情報上申指令」を下達して以後も、ニセ士官たちの活動は衰えるどころか、逆に活発化しているという事実の意味するところは重大である。たとえば上記のように、バトラー夫人のところでゼリーを飲もうとした“リチャード・フレンチ少佐”、被尋問者たちを激しい頭痛やひどい病気にした“スメドレー少佐”、「ピッツバーグUFO研究会代表」を詐称して2人の若者を脅迫した“マンロー大尉”などはみな、ペンタゴンのこの指令が発せられてから数ヵ月以上経た後の時点で出現しているのだ。この事実は、ニセ士官たちの正体が少なくとも、米政府に属するものではないということを示唆しているのである。
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