投稿者 SP' 日時 2000 年 12 月 16 日 21:23:02:
回答先: 特集 ユリ・ゲラー(『UFOS & SPACE』83年6月号) 投稿者 SP' 日時 2000 年 12 月 16 日 21:19:38:
8年前のゲラー来日とそれに伴う“スプーン曲げ騒動”は、日本の潜在的超能力者たちを掘りおこしたばかりでなく、超心理学や物理学の研究家までを巻きこんだ真摯なインパクトを呼んだ。今回の再来日にちなんで、ゲラー後の超心理ムーブメントが、現在、どのような展開を示しているのかを探ってみよう。
●重要な価値をもつ超能力者たちの実験結果
ユリ・ゲラー。1946年12月20日イスラエルのテルアビブ生まれ。少年時代から不思議な能力はあった。20歳を過ぎた頃からこの能力を意識的にコントロールして使用するようになる。その後世界各地でPKによる金属変化を中心とする超能力を披露する。とくに73年、74年にはヨーロッパ各地、アメリカ、日本で超常現象を起こしまくり、世界的なブームを巻き起こす。現在、もっともネーム・バリューのある超能力者。それだけに敵も多いと言われている。ここ5、6年はアメリカを中心とする西側諸国の政府機関でその能力を発揮し、膨大な資産を得る。現在、ニューヨークのはずれに豪邸を建てて住んでいる。一時はかなり科学的学問的な専門機関で実験を行なっていたが、最近はそれらに応じる気配はない。にも関わらず、ゲラーショックで後続した能力者の、現在蓄積されつつあるデータと合わせて、その実験結果は今後重要な価値を持つであろうと考えられている。
ユリ・ゲラーが超常現象研究家だけにとどまらず、オーソドックスな科学者(主に物理学者)からも注目され、世界的に取り上げられたのは、今までのどんなタイプの能力者とも異なるからであった。今でこそPK=念力という言葉は一般人にも通じるが、ゲラー出現以前は首をかしげる人が多かったはずだ。
彼はこのPKで金属変化を中心として、かなり際立った物理現象を引き起こせる能力者で、ソ連を別とすれば、こういったタイプの能力者はほとんど出現していない。もっともそれだけなら今のようにさして話題にはならなかったと考えられる。彼の能力者としてもっとも特異な点は、そのPKによって(ひょっとしたら別種の才能かもしれないが)、他人の潜在的PK能力を誘発してしまう点にあったと思われる。これなくして「ゲラー・ショック」などという言葉はなかったであろう。
ここでそのゲラー・ショックの諸問題をさまざまな視点から考察してみたい。ただあまりにも膨大なテーマで、たちまち1冊の本ができるほどであり、この限られた紙数では断片的な記し方しかできないことをお許し願いたい。
まず事の始まりは、ユリがPKによってボルトやスプーンを曲げ、一般の人でもできるはずだと宣言し、デモンストレーションを行なったことであった。
さらに視聴者たちにテレビを通じてPKをかけた。一般の人々の中で主に小学校高学年の子供たちの中にそれができる者が出現した。また、テレビを見なくても、それとは異なる日にその話を聞いただけで、やってみたらできる者も現われた。さらにはその子供たちのスプーン曲げを見て新たにできる子供が登場する。まさに連鎖反応ともいうべき波及ぶりであった。実はこのようにして出現した能力者たちはさまざまなタイプの現象の起こし方をしていた。それはスプーン曲げだけに限っても複雑な要素を帯びている。
話をわかりやすくするために、このとき出現した能力者の起こした現象を次のように分類するとよいかもしれない。
(A) 純粋にPKで曲げたり、折った場合。
(B) PKで金属のある部分が異常にやわらかくなっただけのもの。この場合、指で軽く押すだけで90度くらい曲がるし、折れたり切れたりもする。
(C) 無意識的に深い自己催眠でトランス状態に入り、与えられたテーマである「スプーンを曲げること」を通常の方法で達成してしまう場合。つまり本人も知らぬ間にインチキ及び「火事場のばか力」的な力で、一瞬にして曲げるもの。驚くべきことに、この場合、後に本人に深い催眠にかけてそのときの記憶を再現させても、その記憶の痕跡は失われている場合が多い。
(D) 意識的にトリックを行なう場合。
これらの分類は科学的あるいは超心理学的にさして意味をなさないかもしれない。しかし当時のことを考えると重要なのだ。ある者は純粋に(A)だけとか(A)と(B)のみという者もいたはずだ。また、(C)のみ、(D)のみという者もいたであろう。そして普段は(A)だが精神的に追いつめられて(C)現象を起こした子供もいたであろう。もっとも当時の誰がいつどこで、(A)から(D)のどのタイプの現象を起こしたかは、現在ではほとんどわからない。それだけ厳密な実験は少なかったのだ。しかし現在、(A)という現象はある、と言えるデータはそろってきている。
ところで、後の調査によれば、彼らは被暗示性が高い者が多く、無意識性というものが予想以上にこの能力を左右していることが解った。このことは次のような驚くべき問題を内包している。代表的な仮説をいくつか見てみよう。
(1) 被暗示性が高いということで、ある種の自己催眠的状態に深く達しやすく、それによって潜在能力としてのPSIを一時的にコントロールして使用している。
(2) 同様の状態下では実験者および周囲の状態が求めているもの、一番喜ばれる反応を演出してみせる場合がある。たとえば実験者が「スプーン曲げよりスプーンが真二つになればよいのに」と考えるだけで、能力者はそのことをテレパシーおよび、その場のムードや実験者の微妙な表情を(識閾下知覚的なことも含め)察知して反応してしまう。そしてスプーン曲げではなくスプーンを切断する。こういうパターンは能力が十分にコントロールされていない能力者の場合の方が強い。別の視点から述べるなら、深層心理的にあまりにも無防備な状態になっており、周囲の影響を強く受けてしまう。
(3) この状態下の中では(2)とはまた異なる傾向もある。それは本人の無意識のメッセージが現象傾向に反映する場合、本人の経験や学習化された現象の起こし方が(2)より優先される場合などである。
これらのことを考え合わせると、否定的な人の前では現象が起こりにくいとか、現象分類でいえば(C)のタイプがしばしば発見されてもおかしくない。問題はこれらさまざまの傾向をもつ子供たちを、現象が(A)か(D)かで割り切ろうとしたマスコミや科学者たちが軽率過ぎたわけである。あのパニックの悲惨な末路の要因で一番大きいのは、こういった複雑な深層心理的傾向を軽視したことにある。もっとも当時、こういった視点からこの現象を見る人は皆無に近かった。現在、この分野の研究が進むにつれ解ってきたことでもあるのだが、こういったアプローチの仕方は予想以上に重要なのである。もっともそれは新しい見地ではない。あえてジャン
ル的にこの領域に関わるものをあげれば、催眠心理学やユング派の心理学などが挙げられる。
これらの分野の研究上の仮説や考えは、行動科学主義的な面や実用性という意味では、かなりの成果があり、そういったデータは、かなり蓄積されつつある。
そして奇妙に聞こえるかもしれないが、これらの考えや仮説のいくつかは、現在の生物学上の発見や仮説と驚くほど符合してきている。
こういった観点での実験や研究は今後、超心理学だけにとどまらず超常現象全般に、我々が今まで考えもつかなかったようなグローバルな視点を提供してくれることであろう。
●科学者たちに与えたゲラー・ショック
ゲラーとそのショックによって出現した能力者たちは、それまでの超心理学の流れを変えつつあるようだ。
かつてテッド・シリオスとアイゼンバッド博士の念写実験や、クロアゼとテンハフ博士、フルコスとプハリッチ博士のESP実験などは、主流の超心理学者たちから黙殺されていた。不思議に思う方が多いかもしれないが、これは事実である。理由は色々あるが主なものをあげると、厳密性に欠けること、データの量が少ない点、また能力者が条件付けられた実験下ですんなり能力を発揮しにくいこと、加えて彼らの起こす現象があまりにも特異すぎて理解しにくく、彼らが限られた範囲内でのパターンでしか能力を使用したがらない点などがある。
これを裏側から見てみよう。それはライン流の主流派超心理学の立脚点と関わってくる。つまり、かつて(今でも)心理学が自然科学として認められるためには、当時台頭していた行動科学主義の統計的手法を取り入れることが急務であった。結果としてラインを中心とする初期の超心理学もこれに歩調を合わせることとなる。これによって統計的評価=科学的という立場を確立しようとしたわけである。このことは両刃の剣であった。なぜなら彼らが考えた厳密で量的な実験以外は切り捨てていかざるを得なくなったからだ。しかし最近は、行動主義的心理学一辺到で、心理学の根本問題からかけ離れて来たのではないか、という批判が心理学者の中から多く出てきている。そして同じく超心理学者の中から超心理学に対して同様の声が上がり、ここ10年間では古典的ライン流の統計主義的実験が行きづまりつつも行なわれる一方、視点を変えて質的なものをより重視する超心理学者が増えている。そして後者ではPSI能力者の存在がひときわ重みを持つのだ。
ほぼそんな時期にゲラー・ショックは重なっていた。だが、この問題に一番最初に手を染め、多くの人々が関わったのは物理学関係者であった。オーソドックスな超心理学者たちや心理学者は、ゲラー・ショックが起こったとき、驚きより疑惑が起こった。そして遠目に様子を見守っていることが多かった。その理由は先に述べた。そして彼らの研究レベルでは当時、様々な意味でギャップがあり過ぎたのだ。(もっともスタンフォードでのユリの実験はいくらか刺激にはなった)
一方物理学関係者はごく一部とはいえ、実地調査や実験を積極的に行なった。それだけの理由はある。科学の中ではある意味でもっとも高度に発達したこの分野が、PKなるものにひっくり返されかねなかったからだ。海外の事例(主にロンドン大学)の話などを含めると、おもしろい事件が多いのであるが、紙数がないので、ここでは日本のそのとき以後の大略を記す。当時、自分の物理学的信念から、あるいは1回か2回の実験で現象を認められなかったことから否定派はもちろん多かった。
肯定派は当時、関英男、佐々木茂美教授を中心とする電気通信大学の一派や、大阪大学の政木教授、日本念写協会の宮内力氏、その他多くの物理的な視点からの研究家がいた。関口淳事件以後も彼らは実験や研究を続け、何名かは論文まで発表しているのだが、ここ10年の彼らの活動を見ると、いくつかの収穫はあったものの決して明るい状況とは言えない。もちろん、PKという現象を十分に確認できるデータはそろってきた。しかし、その先が問題なのだった。つまり彼らの研究上のモデル・理論は心理的な要因が配慮されておらず、致命的ともいえる欠点を持ち合わせているものが多いのだ。
解りやすく述べるなら、暗示的とも言える露骨な実験者効果も含め、心理的なものでデータが左右された点を黙殺している部分がある。たとえば次のような事例をあげてみよう。清田益章君がある科学者の前でスプーンにPKをかけねじった。そのとき30メガヘルツ以上の電波が発生した。彼がPKをかけるたびにそれは発生した。この科学者はPKと電磁波が関わっていると考えた。これは当然である。しかし清田君は電波を出さなくてもそれが出来る。あるいは電波の測定器に反応を起こさずしてスプーンをねじれる。もし彼がその気になれば、同じ実験条件でも異質な結果を出し得るだろう。前者の実験で科学者はPKと電磁波の関連を理論化しようと試みるであろうし、後者はそれを否定して別の理論を探そうとするだろう。清田君はこのことをよく知っており、この種の実験に招かれるとこう言う。──電波が出た方が理想的なのか、それとも出ない方がいいのか? どちらでも応じる、と。この言葉の奥にある深い皮肉に気付く科学者は少ない。
あの当時の物理学的視点の研究家はこういった心理的要因に出喰わし、それを軽視しすぎたために複雑な迷宮に入った者が少なくない。J・テイラーもその1人だろう(注1)。また、ある科学者は数多くの実験後、自分の物理学的知識とPSI現象の結果とのギャップに「現代科学では超能力は解明できない」と述べ、突然宗教家へと移行したものもいる。物理関係者には意外とこのケースは多い。こういったことはあまりにも心理的視点をなおざりにし過ぎているように思える。もっとも、ハステッド教授などは心理面を重要視し、物理的にPKを現在でも着実に実験研究しており、今後も期待できる。
ところで現在、主流派超心理学者と超能力者のギャップは埋まりつつある。その原因はゲラー・ショックで表面化した能力者が(現在かなり少数となったが)、コンスタントに実験に応じ、有力なデータを出し始めたからだ。74年以前に比べて、彼らはスプーン曲げや念写、そして特異な透視能力者に対して歩みより、少しずつ実験方法を変化させている。
能力者もその能力が安定し、測定しやすい能力を次第に発揮し出している。これは明るい状況を生じさせつつある。その意味では心理学的研究は今後急速に進んでゆくであろう。(なお現在、日本では大谷宗司教授が清田益章君、山下裕人君の能力を積極的に研究している)
だが、先に述べたように今後はこの分野でも行動科学的心理学とは異なるアプローチ(深層心理学的な見地)が重視されてくるであろう。
むろん、行動科学的な統計を重視した方法でわかることは今後も多いだろうし、それは決して捨て去るべきものではない。
しかしそれと併用して十分両立し得る、別の研究方法を我々の時代は求めているのである。
それはタート(注2)が考えている方法に近いかもしれ
ない。
●超能力少年をとりかこむ社会的状況
その後、あの当時の超能力少年や少女たちはどうなったか?
ある者は能力を失っていった。またある者は「自分がスプーンを曲げても世間にさして影響があるとは思えない」、あるいは、「ヘタにこんな能力を表面化すれば他人に妙な目で見られて生活しにくい」という考えから、意識的にこの能力から遠ざかっていった。現に周囲の人々から冷たい扱いを受け、ノイローゼになった能力者もいる。一番多いタイプは能力を表に出さず社会に入り、他者の病気を治すときのみに、PKを発揮するというタイプであろうか。つまり治療専門にPKを行使するわけである。
つまるところ、あれだけいた能力者も現在ほとんど表面的には残っていない。未だに能力が十分有る者たちも去ってしまった。だがごく一部の能力者はこの能力が、人間の根本問題として重要な意味を持ち、またその原理がある程度解明されれば社会的に大きな意義をもたらせるはずだと考え、積極的に研究家や科学者の前で能力を発揮しつづけていた。もっともそれだけのことができる能力者は実力や才能がズバぬけたものでなければならず、極めて限られてしまった。(日本では清田益章君と山下裕人君がそれに該当する)
一方、研究者たちはマスコミを警戒しつつも、着実にその研究を進めていた。万が一74年のような事態が起こっても耐えうる結果を残せるようにデータを蓄え、十分科学的と言える実験を行ないつつあった。74年に比べると、ここ10年間の動きはすべてが深く潜行して行なわれていた。この動き、つまりゲラー・ショック→大量の能力者→批判→少数の確実な能力者の存在と能力のレベルアップ→優れた研究家の育成→確実に進みつつあるPSI現象の研究というパターンは、当時、ゲラーの訪れた多くの国々が現在そうなっている。
これ自体が実に不思議なことである。
優れた超常現象研究家であり、超能力者清田益章君の父親である清田俶教氏は、あるとき次のような話をしてくれた。
「あの73年から74年にかけて、あれほど世界中に能力者が出現したのになぜ、その後あんなことが起こらないんでしょうか? ユリ・ゲラーだって、今でも生きてヨーロッパやアメリカでテレビやステージに出てるんですよ。他の能力者だってそうです。おそらくあの時代だからこそ、まるで適切な時期に種がまかれるように、あんなに出現したんじゃないんでしょうか? 大げさに聞こえるかもしれませんが、あの時期ならではの何か特殊な生命の流れがあったと見ていいんじゃないですか」
この意見は端的に核心をついているように思われる。そしてこのことはC・G・ユングが「元型的な力を持った時代精神」あるいは「共時性」と呼び、ライアル・ワトソンが「百匹目のサル効果」、または「生命潮流」と名付けたものに他ならない(注3)。
加えるなら74年以後、小規模だがこのときと類似した傾向が起こった時期があった。それは1980年である。2月に超心理学の父ともいえるJ・B・ライン、12月にはそれまでユリ・ゲラーに匹的するESP能力者クロアゼが死亡。他にも著名な能力者や研究家が相次いで他界した。この時期に逆にESP能力者が異常に発生、発見された。日本では山下裕人君が突然透視を行ない始め、同じ頃中国では大量のESP能力者が発掘され、国家レベルで研究を行なった。また他にも各地で同様なことが起こり、彼らは短期間でその能力を発達させた。
これらのことが1年足らずの間に異常集中した。いったいゲラー・ショックのときも含め、これらは何を意味するのだろうか。我々には今、この問題に対するはっきりとした解答は持っていない。いたずらにこれらに対して、宇宙人や神や霊に思いをはせ、頭を悩ませることは容易なことである。しかしそういった立場をとる多くの者は、現実から夢へと逃避してしまっている。そして我々が今、必要としていることは今まで夢物語とされていたいくつかの真実を、実験や研究を通して現実に引っぱり込み、定着させることではないだろうか。そのためにはひたすら実験、研究を続けてゆくことが大切なのだ。それのつみ重ねによって初めて、人間そのものと宇宙における人間の立場の理解が得られてゆくであろう。
〈注1〉これについてはJ・テイラーの著作「スーパーマインド」(ケイブン社)および「超自然に挑む」(講談社)を参照のこと。
〈注2〉T・C・タートの考えている状態。特異科学のこと。「PSIパワー」(工作舎)およびタートの論文を参照されたし。
〈注3〉ユングの著作群、およびワトソンの「生命潮流」(工作舎)を参照されたし。