投稿者 SP' 日時 2000 年 11 月 09 日 13:31:51:
回答先: 米政府UFO極秘ファイル公開への挑戦(『UFOS & SPACE』82年4月号) 投稿者 SP' 日時 2000 年 11 月 09 日 13:30:08:
日本国政府は、ことUFOに関しては音痴もはなはだしいとされていた。だが、数は少ないながらも、外務省と文部省には、UFO資料が保管されていたのだ。今ここに、公式調査活動によって取得された、UFO関係公文書が初公開される。
高野均+URI
これまで、UFO情報に関しては「ノー・コメント」だった日本国政府から、正規の手順により、国民にUFO資料が公開された。
去る6月、私たち「国政調査権に基づくUFO情報公開・促進グループ」(以下「国調グループ」と略記。事務局代表・森脇十九男)は、政府省庁委員会を通して、まずは外務省と接渉、同省に保管中のUFO資料を発掘するという快挙をなしとげたのだ。
1978年12月14日、CIAとのUFO闘争に見事、勝利を収め、1000ページ近いUFO公文書を公開させた、GSW会長のウィリアム・スポールディング氏は、手記の中で次のようにいっている。
「秘密文書が公開されたということは、早い話、一般のUFO研究家が勝ったということなのです。その事実から、更に私たちが、UFO情報の公開運動を促進させることができるのです」
日本における今回の公文書取得も、まさにこのことを物語っているといえるのではないだろうか。
公式調査活動スタート
昨年の7月、当URIの森脇顧問が、UFO情報の公開実現のため、2つの活動路線を打ち出した。1つは、「情報自由化法制定」促進運動への参加。もう1つは、防衛庁を始めとする政府各省庁への直接的な働きかけによって、UFO情報を取得する「国調グループ」を発足させることであった。
私たちの運動は、この2つの路線に沿って進められてきたが、その間さしたる成果も得られなかった。
さる筋から入手した内調(内閣官房内閣調査会)の執務資料にしても、UFOの文字は見あたらなかった。日本のCIAとまでいわれている所でさえこうである。わが国の政府は行革にいそしむあまり、UFOなど鼻にもかけてくれないのではないかと、私たちは内心、焦躁感を隠しきれなかった。
いや、たとえそうした公文書があっても、「情報自由化法」が制定されていない現在、UFO情報を政府から入手することは、不可能に近いのではないか。公務員にしても、守秘義務というものがある。事情によっては、手が後ろにまわらないとも限らない。それなりに、危険性をおびた作業なのである。
だが、とにもかくにも、私たちは「GSWに続け!」とばかり、今年の5月、永田町の衆議院会館に駆け込んでいった。
732号室──そのドアをノックした瞬間、新しいUFO史が始まったのだ。
社会民主連合の副代表、菅直人議員は、「市民政策会議」というグループを組織し、いろんな社会問題を調査、分析し政治活動に活かしている。森脇顧問と科学問題ジャーナリストの竹本の両氏が参上したのは、このグループにUFO状況を説明するためであった。
このことは既に、『週刊プレイボーイ』誌を通じて、一般にも次のように告知されていた。「UFO研究会を作ってほしいという森脇君(雑誌『創』のライター)を招き、5月23日の市民政策会議で話を聞く予定」と。
森脇、竹本の両氏は、出席していた学生、大手商社マン、銀行員、松下政経塾生たち十数名に準備したUFOの資料を配布したうえでUFO問題のあらましを説明し、私たちのグループからの提案を述べた。そして最後に会議のコーディネーターを務める片岡氏が発言し、次のように締めくくった。
「議員の“国政調査権”には、院内での活動の外に、各省庁政府委員会を通じての資料請求がございます。私共の事務所では学生を中心に若いスタッフが“国政調査権を利用した情報公開の実験”と称して、かなり自由に資料請求をしています。
ときには、1日10件を超えることもあり、内容照会や督促で3本の電話全部が不通になることも日常茶飯事なんです。
最近各省庁からは、『菅先生ですか? いつもお世話になっております』と応対されるようになりました。とはいえ、官僚も人の子ですから、応対には喜怒哀楽の情がつい顔を出すんです。しかし、情報というボールをどちらがヒットするか、知力と体力の戦いなんです。そのためにも、ボールが見えなくてはフェアな試合とはいえません」
かくして私たちは、“UFO”でプレイボール。森脇、竹本、URI、そして市民政策会議の合同メンバーによって「国調グループ」を結成、菅議員の国政調査権を発動した、本格的UFO資料の公式調査活動に入った。
6月16日、さっそく菅直人事務所から電話が入り、「市民政策会議の増戸君(UFO調査担当・一橋大1年生)が、外務省から一連のUFO文書を入手した」むね報告があった。
私たちはさっそく、文書を受け取りに行ったのだが、あの時の感動は今でも忘れられない。
その後、都議選があったために、活動は一時中断したものの、7月20日、追加資料を入手することができた。更に、7月28日には、UFO訴訟を起こしているポール大観氏が、政治家と交渉のために上京。その際、私たちの活動を紹介するとともに、資料提供によってポール大観氏のUFO裁判を支援することを約束。そして、これらの活動を土台にして、ゆくゆくは、国会でのUFO質疑を実現させようと誓いあった。
興味をひく2つの事例
ここで、これまでに取得した資料を分類してみよう。
A「国連UFO文書」(54ページ)──外務省
B「米下院軍事委員会UFO公聴録」(44ページ)──外務省
C「ニュージーランドUFO事件(記事)」(15ページ)──外務省
D「グレナダ国の国連UFO演説に関する新聞記事」(2ページ)──外務省
E「南極観測船ふじのUFO目撃事件の返答」(2ページ)──文部省
F「ニュージーランドの日本大使館からのテレックス報告書」(1ページ)──外務省
分類Eは、文部省学術国際局学術課の公開資料であるが、他は、外務省国連局科学課が公開したもの。
これらの文書の中には、既に森脇顧問などによって翻訳されているものもある。(Bの米議会録とDのゲーリー首相演説は、新評社刊の『ROCK ON UFO』に収録。また『UFOと宇宙』誌にも掲載されている)
中でも特におもしろいと思われる資料は、FとEであろう。
●公文書F(原文英語)
『1979年1月5日
1978年12月21日、アーゴシー航空機のパイロットが、強烈な白色光に追跡されたと報告した。そのパイロットの目撃地点で、ウェリントンのレーダースクリーンにもブリップが現れた。
目撃はなおも続き、30日夜から31日にかけては、アーゴシー機からデイビッド・クロケット氏が、まぶしいばかりの円球を見事に撮影。テレビジョン1のカメラマンも、翌年1月3日の早朝に大規模なUFO撮影に成功した。
このため、ニュージーランド空軍は現在、複数の目撃事件について調査中である。
空軍は、科学工業研究省の助け
を得て問題の解決に努めているが、これまでの見解では、気温が逆転したり、湿度の変化によって、ある大気的現象が発生し、それがレーダーのブリップになったのだろうとしている。
というのも、12月30日にヨーロッパにおいて、次のようなことが発生したからである。
“──その地方に、強烈な西風が発生、湿った暖かい空気をともないつつ、南アルプスから雲のかたまりが下降していった”
ある科学者たちは、これを物体が北に向かって上昇していったことと関連させ、物体は結局、金星が反射したものであろうと判断している。
今こそ前進あるのみだ
また、次のようにCIA訴訟と比較することによって、日本特有の“味”がはっきりわかる。
●例えば、1974年のスペイン事件や、76年のチュニジア事件、およびモロッコ事件など、私たちにとっても新しいイメージのUFO資料を米国国務省が公開したCIA訴訟に対して、日本の場合は古い感じがする。それに、米国国務省のような自主的・具体的調査の資料はない。主として、公議録、公式演説、新聞の切り抜きといった、やや非主体的な輸入品である。しかし、米国のように「極秘ランク」印もなく、とかく縦割りカースト社会といわれている日本国政府(極秘より守秘がお得意?)の、それも“米国国務省日本課”とヤユされている外務省が「UFO裁判」以前に、進取の気性を発揮した勇断は賞賛に値する。これは、政・官界、民間が一致協力し、トリプル・プレイを演じたためであろう。
●そのスピーディーさ──14ヵ月を要したCIA訴訟に対して、国調グループは、わずか1ヵ月あまりでUFO公文書を手にすることができた。
●その軽微な経費──膨大な費用を、強制された、CIA訴訟に対して、国調グループの活動経費は、交通費込みで2万6000円(内訳、資料コピー代1万円、接待飲食費8000円、交通費延10人分5000円、電話代3000円)である。
●見逃せない女性の役割──CIAの訴訟の発想も、そもそも一大学生のヒントから得られたとか。少なくとも3名以上の大学生が中心的活動を展開しているわが国でも、この点は同様である。ただし、縁の下の力持ちとなってくれた女性の活躍を見逃してはならない。受付といい、電話オペレーターといい、秘書といい、彼女たちは行政事務の円滑化のためには絶対不可欠。
●量的問題──当初1000ページ前後のUFO文書から、現在では数千ページに及んでいる米国の公開UFO文書の量に対し、わが国の場合は、数十分の1にも満たない。だが、舶来品好みの日本人気質をもってすれば、ひょっとすると、その量を越えないとも限らないと考えている。やり方いかんなのだ。
こうして今、わが国のUFO研究も、UFO墜落/回収話が花盛りだった、3年前の米国の情況に、やっと追いついたといえるのではないか。もはや、二の足を踏むときではないのである。